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(なんで……こんなことに……)
山の中での撮影を終え、ようやくナギと二人きりになれるとウキウキしたのも束の間、手渡された部屋割りを見てみると、そこは兄である凛と同じ部屋だった。
「……」
「なんだ? 俺とじゃ不服なのか?」
「別に。そう言うわけじゃないけど……」
不満げな顔の蓮を他所に、兄である凛は何食わぬ顔で荷物を持って行ってしまう。仕方なくその後を追いかけるように重い足を引きずりながら彼の後に続く。
当然同じ部屋になれるとばかり思っていたのに、まさかの別室。
しかも、隣同士ではなく向かい合わせの部屋で、廊下を挟んだ反対側に雪之丞とナギが泊まるらしい。
撮影が終わるまでの1週間、毎日この狭い空間で兄と二人で過ごさなければならないと思うと少し気が重くなる。
そう言えば、明朝は寝顔ドッキリを決行するとか言ってなかっただろうか?
もしやこれは、自分も巻き添えを食うパターンなのでは?
いやいや、それか内側から鍵を開けろという事か。
どちらにせよ、自分にとってはあまり喜ばしい状況ではない。
兄にはバレないようにしないと……。ナギの動画撮影を邪魔してしまった経験もあるし、失敗したらまた何かしら文句を言われるのは間違いないだろう。
「……はぁ」
「なんだ。そんなに俺と同室が不服なのか?」
「違うって。ただ、ちょっと疲れたなって」
「年寄臭い事を言うんだな」
フッと凛が鼻で笑う。
「そりゃ、もういい歳だし」
「性欲だけは中高校生レベルで止まっていそうだけどな」
「うぐ……っ」
「図星だろ?」
「うるさいな。ほっといてよ」
揶揄われて恥ずかしくなった蓮が顔を背けると、凛は可笑しそうにクツクツと喉を鳴らした。
「お前は昔から分かりやすい奴だよな」
「そう? そんな事言うのは兄さん位だよ」
確かに、子供の頃は嘘をつくのが下手だったと自分でも思う。だが、それも中学生位までで、流石に今はそこまで露骨な態度は取っていないはずだ。
「兄さんは昔っから何を考えてるのかさっぱり読めないけどね」
何事にも動じないし、感情を表に出さない。
いつも涼しい顔で淡々と物事をこなしていく。
まるで機械のように正確で、冷徹で無慈悲。
彼に恋人が居たという話は聞かないし、誰かを連れ込んでいたという噂も聞いたことが無かった。
我が兄ながら謎が多すぎる。流石にあの顔で、この歳にもなって童貞と言うわけではないだろうが、それにしても女っ気が全く無いのは何故なのだろうか。
たまに冗談なのか本気なのかよくわからない可笑しなことを言う時があるが、冗談にしては悪趣味だし何を考えているのかよくわからない。
勿論、仕事柄あまり目立つような行動は出来ないのはわかる。だからと言って、あまりにも私生活が見えなさ過ぎる。
今日は機嫌が良さそうだし、思い切って聞いてみようか?
「兄さんってさどんな子がタイプ?」
思い立ったが吉日とばかりに尋ねてみれば、凛が飲みかけのコーヒーをテーブルに置き、ベッドに腰掛けた蓮に視線を寄越した。
「唐突になんだ?」
「いや、ちょっと気になっただけだけど。深い意味は無いんだ」
訝しげに眉を寄せる兄に、もしかしたらこの手の話題はタブーだったか? と一瞬焦る。
「そうだな……。強いて言うなら……、一見クールで真面目そうに見えるが、実は自由奔放な性格で、少しS気のある……」
「えっ、ちょっ…随分と具体的だね。S気質の子が好きなんて、兄さんがMだったとは知らなかったな」
兄の意外な性癖を知ってしまった気がして、思わず頬が引き攣った。
「いや。俺はMじゃない。調子に乗ってるソイツを組み敷いて啼かせたらどんなに楽しいか……なんて想像してるだけだ」
そう言って、意味ありげに口角を上げる。その笑顔は実に楽しそうで……、一瞬寒気が走った。
「真面目な顔してそんな事考えてたんだ……」
「想像するだけなら、タダだろう? 実際に手は出せないからな」
つまり、妄想だけで満足していると。なんともマニアックな趣味だと、蓮は呆れ半分に息を吐いた。
自分も人のことを言えた義理じゃないが、気難しそうな顔をしながら脳内ではとんでもない事を考えている。
「なんか、一番ドスケベなのは兄さんな気がしてきた」
「性欲魔神のお前にだけは言われたくない」
「……っぷ、ふははっ」
思わず二人同時に吹き出した。
兄とこんなくだらない会話をしたのはいつぶりだろうか。
最近は色々あり過ぎて、まともに言葉を交わすことすらなかった気がする。
真面目で、冷たくて、何を考えてるのかわからない人――そう思っていた兄が、こんな風に笑うなんて。
(……やっぱり、昔から俺にとっては特別なんだよな)
ナギと同じ部屋になれなかったのは正直残念だ。
それでも今は、たまにはこういう夜も悪くない――そう思えてしまった自分が少し可笑しくて、蓮は小さく息を吐いた。
翌朝、まだ薄暗い時間帯に、蓮はゆっくりと目を覚ました。
隣を見ると、凛がスヤスヤと気持ち良さそうに眠っている。
起こさないようにそっとベッドを抜け出し、部屋に備え付けてあるトイレの中でスマホから兄が熟睡している事を外で待機しているであろう2人に伝え自分はいつでもドアが開けれるように入り口付近でそっと息を潜めてその時を待つ。
数分が一時間位に感じるような緊張の中、今から行くとのメッセージを受け、蓮は意を決して静かに扉を開けた。
銀次と東海の手元にはそれぞれ小型カメラが。ナギの手には小型のクラッカーが握られており、スヤスヤ眠る兄の目の前でそれを鳴らして驚かせようという算段だ。
ドッキリを仕掛けられた瞬間、兄は一体どんな反応をするのだろう? 驚いて大きな声を上げる?
それとも……? 期待と不安が入り混じる中、ナギたちを部屋の中に招き入れ、息を潜めたままベッドの方を指さし合図を送る。
「お邪魔します……。我らが鬼監督。御堂凛さん……。どうやらぐっすりと眠っているようです」
どこぞのリポーターのマネでもしているのか、案外ノリノリで息をひそめながら凛に近づいていくナギの姿が何だか可笑しくて、口元が緩んでしまいそうになるのを必死に堪える。
ナギたちが一歩、また一歩と凛に近づくにつれ、部屋の緊張感がどんどん高まっていくのがわかった。
息をするのも億劫になりそうなほどの重圧の中、ナギの指が上掛けに隠れている凛の布団を掴んだその瞬間――。
突然凛の腕が伸びてきて、ナギの手首を掴むとそのままグイッと引っ張られ、体勢を崩したナギの身体は、あっという間に凛の胸板の上に倒れ込んでしまう。
その動きがあまりにも自然で一瞬何が起きたのか理解できなかった蓮だったが、ハッと我に返ると慌てて二人の方へと駆け寄った。
「ナ、ナギ大丈……っ」
近寄った蓮が見たものは、凛がナギの腰をグッと抱き寄せ、顎に手を添えて強引に唇を重ねている姿だった。
「!?」
あまりにも衝撃過ぎて蓮の思考が停止する。
ナギは凛の肩を押し返すが凛の力が強くビクともしない。むしろ更に強く抱きしめられて身動きが取れなくなってしまったようだった。
「んーっ! ふ、ぅ……っ」
次第に酸素を求めて苦しくなったナギは、ドンドンと凛の背中を叩きながらなんとか顔を背けようと試みるが、凛はお構いなしに舌を絡ませてくる。
一体、自分の目の前でなにが起こっている? ナギと、兄が……? まさか……そんなはずは……。
混乱する頭の中を整理できないまま、蓮はただ立ち尽くしていると酸欠でくったりと力を失ったナギの身体を抱き締めながら、凛はようやく彼の唇を解放し、ゆっくりと目を開けるとカメラに向かって不敵な笑みを零した。
「……人の寝込みを襲うなんて、随分と大胆な事するじゃないか」
唾液で濡れた唇をペロリと舐めると、凛はニヤッと笑みを浮かべながらナギの耳をそっと撫で、こちらを見て固まったままになっていた蓮に視線を移す。
「わぁお……これは中々……面白くなってきましたねぇ」
「お、面白いか!? オレ、見ちゃいけないものを見た気しかしないんだけど!?」
真っ赤な顔をして銀次にツッコミを入れる東海の声でようやく我に返った蓮は、慌ててぐったりしているナギを引き離すと自分の眠っていたベッドへと寝かせ、凛を睨んだ。
「兄さん、起きてただろ!?」
「さぁ? 思い人が夜這いに来たのかと思って対応しただけだが? まぁ、別人だったが……これはこれで……」
「なっ!?」
口元を歪めて笑いながらシレっととんでもない事を言いだした兄の言葉に思わず面食らう。一体なにを言っているのかと、反論しようとするがそれよりも早く凛が東海の持っていたカメラを奪った。
「――ところで、俺の寝顔なんて撮ってどうするつもりだったんだ?」
「そ、それは……」
「それは?」
低い凄みのある声で尋ねられ、東海の身体がヒャッと小さく跳ねる。やはり怒っているのだろうか?
「いや、その……。ちょっと企画で……寝起きドッキリをしかけようかって事になって……それでその……」
「ほぉ? それでこんな事を? と、言う事は蓮。お前もグルだったんだな?」
しどろもどろになりながら、今にも泣きだしそうな顔をする東海から視線を移し、こちらをもう一度振り向いた兄の表情は相変わらず読めない。
「ま、まぁ企画の一環でさ……。盛り上がるかなぁって思ったんだけど……」
「で? 盛り上がりそうか?」
「あ、あんなのっ! 流せるわけ無いじゃないかっ!!」
ナギの唇を奪われたという事実だけでも腹が立つのに、そんな動画をUPなんて出来るわけがない。
「フッ、まぁいい。弟の面白い間抜け面も拝めた事だし、今回は大目に見てやろう」
「ま、間抜けって……」
「中々面白かったぞ? 仏像のように固まってるお前の顔」
「~~~ッ、悪趣味だよ。兄さんっ!」
ククッと喉を鳴らし、愉快そうに笑う兄をムッと睨み付ける。
なんだか上手くはめられたような気がしてならない。
「オ、オレッ……部屋に戻りますっ!」
気まずい空気に耐えられなくなったのか、東海が後は任せたとばかりにそそくさと部屋を出て行く。
「あっ、ちょっ……ナギを置いて逃げるなんて酷くない?」
あまりにもショックだったのかさっきから黙って背を向けたままのナギの姿を兄から遮るようにして、蓮は彼の前に立つ。
「僕はナギを部屋まで送っていくから……」
「なんだ、このままそこに寝かせておけばいいだろう?」
「……っ絶対に嫌だ」
自分以外の男に大事な恋人がキスされていた事実だけでも腹が立つというのに、この状態のナギと3人で同じ部屋だなんて冗談じゃない。
「僕がナギと付き合い始めたの知ってたくせに……。わざとやっただろ」
「……思い人と間違えたと言わなかったか?」
「何言ってるんだ」
この部屋に元からいたのは自分と兄の二人だけだ。間違える要素が一体何処にあるというのだろう?
「ナギ、大丈夫? 立てる? とりあえず部屋に帰ろう」
「……うん、ごめん……」
シュンとして項垂れるナギに、蓮は優しく微笑むと手を差し伸べる。
「気にしなくて良いよ。……それより兄さん。ナギにキスした事、絶対に許さないから」
ナギを安心させるように頬を撫で、そっと抱きしめてからキッと兄を睨みつける。
すると凛は一瞬だけ目を丸くした後、愉快そうに口角を上げた。
その顔はまるで悪戯が成功した子供のようで、蓮の胸にムカッとした苛立ちを残す。
――やっぱりこの人は苦手だ。
そう心の中で吐き捨てるように思いながら、蓮はナギを連れて静かに部屋を後にした。
背後で聞こえた兄の低い笑い声が、しばらく耳から離れなかった。
「――少し、外の風にでも当たろうか」
早朝の静かな廊下を歩きながら、未だに俯いたままのナギを元気づけようと蓮がそう提案すれば、ナギは無言のままコクリと首を縦に振った。
そっと腰を引き寄せ広いホールを抜けて中庭へと出ると、朝靄のかかった幻想的な風景が視界に飛び込んでくる。まだ明け切れていない空は、薄紫色に染まり、ひんやりとした風が肌を掠めていく。
「やっぱ、寒いな」
「そりゃそうだよ。冬だもん」
身も蓋もない返答が返って来て、思わず苦笑する。ナギらしいと言えばナギらしくて、何となくホッとする。
しばらく無言で景色を眺めていると、不意に指先に温かい何かが触れた。最初はそれがなんなのかわからなかったが、すぐにナギの手だと気づく。
そっと握り返してやると何処か嬉しそうに指を絡めてきて同時にコツンと肩に頭が乗せられる。
「……ねぇ、ここ……誰も居ないよ?」
甘えるような声音で囁かれればドキリと心臓が大きく跳ね上がる。魅惑的な瞳に捉えられて目が離せない。
「誘ってるのかい?」
「っ……! 違う……けど……お兄さんがしたいなら、俺は別に……その……」
しどろもどろになりながら顔を真っ赤にしてそんな可愛いことを言うナギが愛おしく思えて堪らず強く抱きしめればそろそろと腕を回して抱きしめ返してくれるのが嬉しい。
猫っ毛の柔らかな髪にそっと唇を落とし、薄く開いた唇を指でなぞる。
「ん……っ、しないの?」
「して欲しいのかい?」
「……いじわる」
恥ずかしそうに視線を逸らしながら拗ねた口調でそんな事を言うナギが可愛くて仕方がない。
「君があんまりにも可愛い事ばっかり言うから意地悪したくなったんだ」
「お、俺だってたまにはそういう気分になるんだよ! そ、それに……消毒、してよ」
ギュッと服を掴まれてそんな事を言われて我慢できる男が居るだろうか?少なくとも蓮には不可能だった。
そのまま顎に手を添えて上を向かせると噛みつくように唇を重ねる。角度を変え何度も啄み、舌先で唇を舐めてやればおずおずと口を開けてくれるものだから遠慮せずに口内へ侵入する。
歯列を割って舌を絡ませ、舌先を吸ってやるとナギの口から鼻に抜ける甘い吐息が漏れてきて、それだけで下半身に熱が集まっていくのがわかる。
「ん……ぅ、ん……っ……」
蠢く舌から吸い取られていくかのように身体から力が抜けていく膝に力が入らないのか、ガクッと崩れ落ちそうになったナギの身体を抱きとめると、その反動で唇が離れてしまう。
二人の間を銀糸が繋ぎ、やがてプツリと切れた。
「……ぁ、ふ……っ」
荒い呼吸を繰り返すナギを宥める様に背中を撫でながら蓮は近くに備え付けてあったベンチに腰を降ろした。
「大丈夫?」
「……う、うん……」
「もうちょっとだけ……こうしていてもいい?」
「……うん」
そっと腰を引き寄せ身体を密着させるとナギも蓮の胸に寄り添ってきて、ドクンドクンと早鐘を打つ鼓動が伝わってくる。
「お兄さん、ドキドキしてるね……」
「当然じゃないか。好きな子とこんな事してて平常心でいられるわけがないだろ?」
「……好き? え、今言うの?」
「……駄目だった?」
「だ、だめじゃ……ない……けど……まさか、今ここでそんな事言われるとは思って無かったから……」
照れ臭そうに視線を彷徨わせながらボソッと呟かれた言葉に、思わず口元が緩んでしまう。
「そっか……お兄さんもちゃんと好きでいてくれたんだ」
「……ずっとなんだと思ってたんだよ」
「んー、セフレの延長、みたいな?」
「……酷いな。僕は君の事を本気で好きだと思っていたのに」
「だ、だからっ……そうやっていきなりストレートに気持ち伝えないでよ……。なんか……慣れないし……すげぇ恥ずかしいじゃん……」
もじもじと身を捩らせるナギの耳元にそっと顔を寄せ、甘く囁く。
「―――愛している」
「っ……!」
途端にビクッと身体を震わせたナギは顔を赤く染めながら蓮の胸を軽く押し返す。
「そ、それは反則っ……」
「ははっ、可愛いな。顔が赤いよ?」
「っ!……誰のせいだよっ」
「僕のせい?」
クスリと笑いながらそう尋ねれば、ナギは恨めしげな表情でこちらを見上げてきた。
その表情がまた可愛くて、今度は頬にキスを落とす。
「……ん、……っお兄さん擽ったいって」
「……ずっと思ってたんだけどさ……。そろそろ名前で呼んでくれないかな?」
実は前から思っていた。ナギは出会った時からずっと、自分の事をお兄さんと呼ぶ。確かに歳は離れているけれど、付き合っている相手にいつまでも他人行儀な呼び方をされるのはやはり少し寂しい。
「ほら、蓮って言ってみてよ。出来るだろ? 恋人なんだから」
ニヤニヤ笑いながらわざと恋人と強調してやれば、案の定ナギの顔がみるみると朱に染まっていく。
「い、言えるよ……っこ、恋人だもんっ」
「だったら、ほら」
「ち、ちょ、っと待って! 心の準備が……」
そんなに緊張する事だろうか? 見ているとちょっと面白い。
ナギは深呼吸を一つしてから、長い睫毛を伏せ気味にしてゆっくりと顔を上げ、上目遣いに見つめながら、震える声で小さく呟いた。
「……蓮……」
「っ」
その破壊力たるや凄まじく、危うく理性を持っていかれるところだったがなんとか堪える事に成功した。名前を呼ばれただけでこんなにも嬉しくて幸せな気持ちになれるなんて、今まで知らなかった。
だが、
「ナギ……」
「ご、ごごごごめっ、お兄さん! 俺、もう行くね! 準備しないとっ! あ、カメラの回収たのんだよ!!」
「え……」
感極まって抱きしめようと伸ばした手は空振りに終わり、脱兎の如く走り去ってしまったナギに呆然とする。
いま、またお兄さんと言わなかっただろうか? 折角、嬉しかったのに……。
何なんだったんだ、一体。でもまぁ、あれはあれで可愛かったからいい、のか。
思わず脱力してしまったが、先ほどのやり取りを思い出すとだんだん可笑しさが込み上げてきて、吹き出してしまう。
恥かしいのか何なのかわからないが、どうしても名前で呼ぶことが出来ないなんて、本当に可愛い奴だ。
次はいつ言わせてやろうかな。なんて考えつつ、蓮は一人、部屋へと戻った。
朝出ていた靄も、日が昇り切るころにはすっかり晴れて綺麗に澄み渡った青空が、眼下に広がっていた。今日は雲ひとつなく絶好の撮影日よりだろう。
「えーっ、ドッキリ失敗したってどういう事?」
「ごめんね。バッテリー切れてたみたいで……」
申し訳なさそうな顔で謝るナギに、美月は不機嫌そうに唇を尖らせた。
こういう時、役者は凄いと思う。何食わぬ顔で、何もなかったかのように振舞うナギに、内心舌を巻いた。
「おやおやぁ? 嘘はいけないんじゃないっすか? まぁ、仮にはるみんのバッテリー切れてても問題ないよナギ君。大丈夫、俺のカメラにはバッチリうつってたから」
「へっ!?」
「なぁんだ、ちゃんと撮ってあるんじゃない。びっくりさせないでよね。で? どんな感じだった?」
一瞬信じかけていた美月だったが、銀次の言葉に目をキラキラさせながら銀次に詰め寄る。
「ち、ちょっ銀次君っ!?」
まさかアレを見せる気だろうか? 流石にそれはまずいと慌てて止めようとしたが、銀次がそれを制した。
「ちょぉっと加工が必要なんで、現物は見れられないですって」
「加工が必要なの? なんで?」
「バズらせたいんでしょう? だったら、いらない情報とか映っちゃいけないものとか、いろいろあるから……。大丈夫。俺に任せておいて下さい」
銀次はちらりとナギと蓮を見比べてぱちんとウィンクを一つ。
「……っ」
ナギの肩がピクリと跳ね、思わず蓮も隣で固まる。
銀次はそれを面白がるように口元を緩め、にやにやと笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「ま、俺がうま〜く切り取っておきますから。お二人さんの“企業秘密”はちゃんと守りますって」
「き、企業秘密って……! ちょっ、銀次君!!」
思わず声を荒げたナギの反応に、美月たちは「え? なんのこと?」と首を傾げるだけ。
「えー、なに? なに? 何か映っちゃいけないモンでもあったわけ?」
「……な、なんでもないからっ!」
ナギが顔を真っ赤にして否定し、蓮も曖昧に笑ってごまかす。
美月はしばらく二人をじーっと見ていたが、やがてふっと息を吐いて肩を竦めた。
「……ふぅん。ま、いいわ。教えてくれないなら仕方ないし」
チラリとこちらに視線を投げて寄越すと何かを思いついたのかにやりと笑う。
なんだろう? 何か嫌な予感がする。 ナギに何事かを囁く彼女は絶対何か良からぬことを企んでいるに違いない。
「えーっ、無理じゃない?」
「そんなことないわよ。大丈夫だって」
「……何の話をしているんだい?」
二人の会話に割り込むように蓮が声をかけると、二人はギョッとしたように振り返った。
「べ、別になんでもないよ!?」
明らかに動揺した様子のナギの態度が怪しすぎる。
「何でもないことないだろう?……僕に隠し事するの?」
わざと悲しそうに言ってナギの顔を覗き込めば、「うっ……」と声を詰まらせてオロオロと視線を彷徨わせる。
もしかしたら自分の演技力も意外と捨てたものでもないのかもしれない。なんて思いながらジッとナギの瞳を見つめていると根負けしてくれたようで渋々口を開いた。
「……あの……その……前言ってた弓弦君との女装対決、やりたいなぁって……」
「え? 嫌だけど」
ニコッと笑顔を向けながら即答すれば、ナギが「だよねぇ」とがっくりと肩を落とした。
「どうしても駄目?」
「ダメに決まってるだろう? と言うかそんなのウケると思えないんだけど。僕と草薙君がやるより、ナギと東海がやった方が良くないか?」
上目遣いで見つめてくるナギの頭を撫でながらそう言えば、なんで俺が……。と不満そうに唇を尖らせて文句を言う。
いやいや、その言葉そっくりそのまま返してやりたい。
「ナギ君はともかく、はるみんは顔出しNGだもん。だから駄目なの」
「いや、僕だってOKした覚えは……」
「ナギ君の配信で顏出ちゃってるでしょう?」
美月の言葉に返す言葉が無くなってしまう。アレはたまたま生配信中の事故だったわけで、けして好きで顔出ししたわけでは無い。
「おはようございます。みんなで集まって何の話してるんですか?」
「おはよう。草薙君。キミのお姉さんから女装対決しろと言われて困っているんだ」
タイミング良くやって来た弓弦に渡りに船とばかりに事情を説明すると、彼は眉間に深いシワを寄せた。
「……まだ言ってたんですか。懲りませんね」
「……まったくだ」
はぁ……と二人揃ってため息を吐く。
「だってぇ、視聴者からやって欲しい企画を募集してたんだけど、やって欲しいって意見が結構多かったのよ。二人とも美形だし、絶対映えると思うのよねぇ」
「物好きだね。女装なんて似合わないでしょ」
「私もそう思います」
弓弦がきっぱりと頷き、蓮は思わず胸を撫で下ろした。
「えぇ〜、じゃあアタシの企画ボツぅ?」
美月がわざとらしく肩を落としてみせる。
「そう言うことだな」
「残念ながら」
蓮と弓弦の冷静な返答に、美月は頬をぷくっと膨らませた。
「ボクは二人の女装姿見てみたいな」
「でしょ? ゆきりんわかってる~!」
「ちょっっ! 棗さん!? 何言ってるんですかっ!」
「そうだぞ、雪之丞! 僕らは男なんだから女装しても気持ち悪いだけだろ?」
慌てる弓弦を援護するようにそう言うと、「美月さんが男装してもいいとは思うけど、視聴者が二人の女装を見たいって言ってるんだよね? 視聴者の期待に応えるのって大事じゃない?」と、あっさり論破されてしまった。
それを言われると、辛いものがある。
正確には、失敗と言うより放送事故に近いのだが……。
「ゆきりんもああいってる事だし、ね? 二人とも、お願い」
ナギと美月に手を合わされ、更に雪之丞からも見つめられ、先に折れたのは弓弦だった。
「――仕方ないですね。でも、放送事故になっても私たちは責任取りませんよ」
「って! 草薙君!? どうして僕までやる前提なんだ」
「対決でしょう? こうなったら一蓮托生。貴方も覚悟を決めてください」
「いやいや、決められるわけ無いだろ!」
「ほう? 蓮が女装するのか……面白そうだな」
騒ぎを聞きつけた兄まで便乗してきて、コレはいよいよ後には引けなくなった。
そもそも! 兄がナギにあんな事をせず、普通のリアクションをしてくれていたらこんな事にはならなかったのに!!
……まぁ、今更嘆いても遅いので、腹を括る事にする。
「あーもう!! わかったよ!! やればいいんだろっ! やればっ!! どうなっても知らないからねっ!!」
半ばヤケクソになりながら叫ぶと、ナギと美月はハイタッチを交わして喜んでいた。
「おおーっ! ついにOK出ました! やったね美月さん!」
銀次がどこから取り出したのか、小型マイクを片手に実況者モードで盛り上げる。
「視聴者の皆さーん! 奇跡の瞬間ですよ! あの御堂蓮と草薙弓弦の女装対決、乞うご期待っ!」
「やめろっ! 勝手に配信開始みたいに煽るな!」
「……マジで地獄だな」
東海が呆れ半分、楽しそうに肩を揺らす。
「ふっ……弟の恥じらう姿が見られるとはな。悪くない」
凛が口元を歪めてククッと笑うと、蓮のこめかみにピキリと青筋が浮かんだ。
「――兄さん、絶対楽しんでるでしょ」
「当然だ」
「~~っ、ほんっと勘弁してよっ!」