テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
トイレの個室に入ると、音を立てずに扉を閉めて、そのまま壁にもたれかかった。
少し深く呼吸をしてから、ゆっくりと座る。
笑って、話して、ちょっとふざけて。
あの人の隣にいると、どうしてあんなに自然に笑えるんだろう。
酔いのせいだと、最初は思った。
でも——違った。
たとえば、あの目で見られたとき。
あの声で、名前を呼ばれたとき。
胸の奥、心臓の中心が、小さく震えていた。
……こんな気持ち、久しぶりかもしれない
頭にふと浮かんだのは、一週間前の夜。
まどかと「トリバル」でお酒を飲んでいた時のこと。
笑いながら始まった会話が、気づけば真面目な話になっていた。
結婚のこと、将来のこと、信じるって何なのか——そんなことを言い合った。
そのとき、まどかに言われた。
「香澄は、あの人のこと、まだ好きだったんだよね」
——本当に、そうだった。
一年も前のことなのに、
まだ“なにか”が、胸のどこかにこびりついていた。
こちらが知らない裏で、他の女との子どもをつくっていたくせに、
平気な顔で「これからも一緒にいたい」なんて言ったあいつ。
裏切られた、というより、
“自分という存在そのものを軽く扱われた”——
そんな感覚だった。
あの夜は、呼吸の仕方を忘れるくらい、ひたすら泣いていた。
それでも、好きだったのだ。
どこまでも、バカみたいに。
別れてからずっと、傷ついたまま動けなかった。
それでも、もう平気なふりをして、
普通を装って、日常に紛れて。
ちゃんと働いて、ちゃんと笑って、
「もう大丈夫」なふりを、ずっと続けてきた。
でも、本当は違った。
本当はもう、この先、誰かを好きになっても信じることが怖かった。
信じて、好きになって、傷ついて。
その先で、自分が自分を責めてしまうのが、一番つらい。
だからもう誰も信じない、と、
どこかで決めていたのかもしれない。
だけど。
岡崎の言葉が、笑顔が、仕草が。
じわじわと、心の奥を溶かしていく。
何気ない一言が、そっとこちらを守ってくれていたことに、
今さら気づくなんて、ずるい。
あの人の隣は、
無理に笑う必要のない場所だった。
頑張りすぎなくても、ちゃんと呼吸できる場所だった。
(……岡崎のこと、好きになってる)
自分で思ってしまった瞬間、
息が詰まりそうになる。
認めたくなかった。
でも、もう嘘がつけない。
それほどまでに、
ちゃんと好きになってしまっていた。
胸の奥が、じんわりと熱い。
それがつらいのか、うれしいのか、よくわからなかった。
ただ一つだけわかったのは、
この気持ちは、もう誤魔化せないということ。
小さな個室の中、自分の心に正直になって認めてしまう。
好きなんだろう。岡崎を。
そして、深く一度だけ呼吸して、静かに立ち上がった。