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部屋に戻ると、当然のように誰かが歌っていた。
盛り上がる人たちの笑い声が、
重なって渦のように広がっている。
けれどその熱気は、なぜか少し遠く感じられた。
まるで自分だけ、別の温度の空気の中にいるような。
輪の外にいる、そんな感覚。
さきほどの席にそっと腰を下ろす。
岡崎はまだその隣にいた。
自分の気持ちを認めてしまうと
その人の存在に、動きに、仕草に、全身の神経が集中してしまう。
…あーやばい。歌ってタンバリン振ってたりしたらちょっと疲れちゃったさ。藤井ちゃんしばらく僕は冬眠するかも。
さっき岡崎が、本当に疲れたような声でそう言っていたのを思い出す。
その言葉通り あれほどまでに騒がしく元気だった男が、嘘のように静かで、
今は ソファに身を沈め、組んだ足を投げ出していた。
背中はゆるく前に倒れ、頭だけが、背もたれへと預けられている。
少し首をかしげるようにして、顔の輪郭は右肩のあたりにそっと寄せられていた。
視線は下に向けられたまま。
目元にかかる前髪が、疲れた表情をうまく隠していた。
片手はポケットに差し込んだまま、もう一方の手で、スマートフォンの画面にゆっくりと指を滑らせている
自然と目がいったその手元。
清潔に整えられた短い爪、長くて節立つ関節はどこか無骨なのに、動きは静かで丁寧だった。
器用に滑るその動きに、見惚れてしまいそうになる。
手元の灯りが、持ち主の頬をやわらかく染めていた。
画面が静かに光って、また、ふと消える。少ししてまた、ゆっくりと灯る。
控えめな通知音が、にぶく繰り返されていた。
岡崎はずっと、誰かとやりとりをしているようだった。
流れるような指の動き。
何度も繰り返してきたことなんだろうなと、思わせるようなリズム。
打つスピードも、言葉のテンポも、親しさを帯びていた。
その向こうにいる誰かを想像してしまう。
想像したくないのに、勝手に輪郭が浮かぶ。
胸の奥が、静かに、きゅっと鳴った。
もう二度と、こんなふうにはならないと思っていた。
疑うことしかできなかった自分が、
また誰かを、ただまっすぐに想っている。
それが、どこか信じられなくて。
でも今、確かに胸の奥がきゅっと鳴って、
それだけで、忘れていた何かを、
ほんの少しだけ取り戻せた気がした。
「なんか…忙しそうだね」
グラスを持ち直し、
なるべく何気ない口調で声をかけた。
岡崎は、顔を上げないまま、肩を軽くすくめた。
「あー…うん。まあ。ちょっとだけ」
曖昧に返ってきた声は、どこかうわの空だった。
「ふぅん。あ。もしかして、彼女さんとか?」
聞きたくなかったのに、 聞いてしまった。
答えが怖かったから、あえて軽く、茶化すように言ったのかもしれない。
──でも。
岡崎の指が、 ぴたり と止まった瞬間、
答えはもう、返ってくる前からわかってしまった気がした。
隣の人はスマホから目を離さず、ぽつりと言う。
「んーん。友達」
ーすぐに嘘だと思った。
なぜなら“友達”という言葉に、声に、切なさが含まれていたような気がするからだ。
音楽も、笑い声も、何もかもが一瞬遠のいた気がする。
思わず彼の横顔を見つめた。
明るい照明が岡崎の頬に落ちているのに、
その影の奥に、何か深く沈んでいる気配があった。
眠そうでもあった、疲れていそうでもあった。
なのに、その顔は妙に切なかった。
こんな表情、初めて見た。
明るくて、場を盛り上げて、ふざけているときの岡崎とはまるで違う。
むしろ、誰にも気づかれないようにしている弱さが、そこに透けていた。
なにも聞き返せなかった。
聞いちゃいけない、そんな空気が、岡崎のまわりにあった。
そのとき、不意に思い出したのは、自分の過去。
結婚してもいいと思ったくらい好きだった男に
裏切られて、別れて。
それでも平気なふりをして、仕事をして、
家に帰り、一人、泣いていたあのときのこと。
岡崎の横顔は、まるであの頃の自分だった。
笑いながら、誰にも見せない場所に、静かに痛みを隠していたときの顔。
だから。
なにも言わなかった。
そっとグラスを持ち直し、ただ隣に座っている。
それだけしかできなかった。
けれどそれでも、不思議だった。
あんな表情を見て、
それでも、この人を“知りたい”と思ってしまう自分がいることに。
……どうしよう
静かに笑うでも、泣くでもなく、
ただ胸の奥がじわじわと熱くなる。
もしかしたら届かない場所にいる人を、
好きになってしまったのかもしれない。
そっと視線を落とし、ただ隣に座り続けた。
声もかけずに、なにも聞かずに、
ただ黙っていた。
岡崎がふと顔をあげ、スマホをポケットの中に押し込み、こちらに顔を向けてくる。
(……あ、私、空気、重くさせちゃったのかも)
──そのときだった。
不意に伸びてきた指が、 額に、ぱちんっと触れた。
「……っ、なに」
軽い。けれど、少しだけ痛い“デコピン”。
思わず顔を上げると、岡崎がフッと笑っていた。
唇の片側だけを釣り上げ、 いつもの調子で、なんでもないよと言うように。
「考えすぎ、禁止」
それだけ言って、デコピン男はソファからすっと身体を起こす。
次の瞬間には、すっかりテンションを切り替えていた。
「──うしっ!歌うかぁ!!」
マイクを片手に、立ち上がって両腕を軽く伸ばす。
「お待たせしましたー!本日二回目、岡崎禄のターンです!」
おー。岡崎ぃ生き返ったかぁ。
場の空気が、またひとつ跳ねる。
「リクエストなかったら、さだまさし行くよ?いいの?マジ泣きするよ?」
おいっ岡崎っなんでさだまさしなんだよ。
「あっあなた、今、さだまさしをバカにしましたね?はい決定!僕とデュエットですっ!」
笑いが広がる。
軽口が交わされて、タンバリンの音がはずむ。
楽しそうに肩を組んで歌っている岡崎を見て
額をそっと撫でながら、小さく息を吐いた。
…岡崎は。
無理をしている。
きっとさっきのあの表情のままじゃ、ここにはいられなかった。
だから、演じてる。
明るさの裏に、きっとしまい込んだものがある。
けれどそれでも、
こちらの表情を見て、重くなる前にそっと空気を変えてくれたのは
他でもない、岡崎だった。
胸の奥が、静かに揺れて泣きそうになる。
この人が本当に好きだと思った。
そして同時にこの恋がきっとうまくいかないこともわかってひどく切なくなった。