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餡蜜
93
午前六時。浜田川の上流は、ひんやりとした朝霧に包まれていた。
夏の手前の張り詰めた空気が肌を刺す中、私――立花彩は、眠い目をこすりながらリュックを背負い直した。足元に広がる野生の菜の花が、朝露に濡れて鮮やかに光っている。
「――よし、全員揃ったな! 朝一番のKZ現地調査の開始だ!」
動きやすいお気に入りのウィンドブレーカーのジッパーをシャッと上げながら、若武が先頭に立って声を張り上げた。相変わらず朝から元気いっぱいだけれど、その様子はこの薄暗いなかでは少しだけ頼もしく感じられる。
「若武、声が響く。周囲の民家に迷惑だろ」
すぐ後ろから、薄茶色の短髪を揺らした上杉くんが、ぶっきらぼうに毒づいた。
「大丈夫だよ、上杉。このへんは誰も住んでない」
小塚和彦くんが、そばかすのある顔を少しすぼめながら、温かいお茶の入った水筒を私に手渡してくれた。
「ほら、アーヤ。女の子には冷えが一番の大敵だからね」
「ありがとう、小塚くん……」
受け取って一口飲むと、張り詰めていた胸が少しだけ温かくなった。
だけど、私の視線は自然と、少し離れた列の最後尾へと向かってしまう。
そこにいるのは、黒木貴和くん。
いつもと変わらない佇まいで、周囲の雑木林に鋭い視線を走らせている。
「……うん、このあたりからだね。電波の歪みが、さっきから急に強くなってる」
歩きながら、ノートパソコンの画面を見つめていた忍が、ふっと足を止めた。
紫がかったゆれる長い髪と瞳は朝霧の白さに紛れてどこか神秘的に見えた。
「若武、この先にあるのが、俺が言ってた『磐座(いわくら)』のある神社だ。修験道の修行で使う山と同じような、独特の空気を感じる」
「七鬼のセンサーが反応したか! よし、突撃だ!」
若武が勢いよく藪をかき分けて進もうとするのを、黒木くんがすっと前に出て遮った。
「待ちなお前ら。俺のインフォーマントからの情報だと、この先の土地を買い取った有力者は、裏でかなり強引な開発を進めているらしい。防犯カメラや赤外線センサーが仕掛けられている可能性がある。……七鬼、お前のパソコンで、そのあたりの電波をジャミング(妨害)できるか?」
「もちろん!」
忍はニカッとガッツのある笑顔を見せると、目にも留らぬ速さでキーボードを叩き始めた。
私が感心していると、私のすぐ隣から、かすかに洗練されたシトラスの香りが漂ってきた。
「――アーヤ」
振り向くと、翼が私を見下ろしていた。祖父がアメリカ人で祖母がフランス人という、グローバルな血筋を引く美しい顔立ち。
「……やっぱり、アーヤは黒木と同じ空間にいると、呼吸が少し浅くなる。あいつに何か、言えないような『重い約束』をさせられたんだろう? どんだけ考えても俺にはアーヤが何を抱え込んでいるのかだけは、まだ完全に読み解けないんだ。……すごく悔しいよ」
彼は、私が黒木くんと「何か」を共有していることを、その鋭い感覚で完全に察知していた。
「翼、それは……」
私が困惑して目を泳がせると、翼はそっと私の手に、自分の手を重ねようとした。
「おい、美門。何してる」
その瞬間、上杉くんが二人の間に割って入った。眼鏡の奥の瞳がつり上がっている。
「立花がとまどってるだろうが。お前のその過剰なアプローチは、ただの自己満足だ」
「上杉こそ、どうしてそんなにイライラしてるの? もしかして、アーヤが俺や黒木とばかり話すのが、そんなに気に入らないのかい?」
翼は微笑みを崩さないまま、上杉くんを真っ直ぐに見返した。
数学の天才と、全国模試トップ10の頭脳。二人の間に、目に見えない激しい火花が散る。
「……そこまでにしなよ、二人とも。七鬼のジャミングが完了した。行くよ」
黒木くんの低い声が、二人の言い争いを一瞬で切り裂いた。
黒木くんは私をチラリとも見ないまま、真っ直ぐに神社の鳥居の奥へと歩き出す。
鳥居をくぐった瞬間、朝霧の向こうに、古びた巨大な岩――磐座が姿を現した。
そこで私たちの前に現れたのは、黒木くんを縛り付ける「完璧な家庭」の、もう一つの歪んだ影だった。
コメント
1件
第6話、読み終えたよ…🥀 磐座のシーン、静かな朝の空気とキャラ同士の張りつめた感情の対比がすごく良かった。翼がアーヤの呼吸の浅さを見抜くところ、上杉と翼の火花、そして黒木くんの低い声で全部を断ち切るところ…もうドキドキしっぱなしだった。 「完璧な家庭の歪んだ影」って一文で終わるのも、めっちゃ続きが気になる引きで最高です…! 餡蜜さんの描く重さと緊張感、ちゃんと受け取ったよ🤍