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#ご本人様とは一切関係ありません
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あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
2,469
翌日のスタジオは、驚くほど普通だった。
朝の挨拶も、立ち位置の確認も、スタッフとのやり取りも。
何ひとつ乱れたところがない。
昨日の夜、たった一言の拒絶があったことなんて、この場の誰も知らないみたいに空気は流れていた。
ルイも、完璧だった。
「おはよう」
やわらかい声。
自然な笑み。
スタッフへの気遣いも、メンバーへの距離感も、いつも通り。
昨日、返信を返さなかった男の顔には見えない。
タイキはその「おはよう」に一瞬だけ喉が詰まりそうになったけれど、すぐに笑って返した。
「おはよ」
それだけ。
それ以上は、何もない。
ルイはそれを聞いて小さく頷き、もう次の会話へ入っていく。
昨日の夜がなかったみたいに。
“今日は行かない”なんて言葉が、最初から存在しなかったみたいに。
でもタイキにはわかっていた。
わざとだ。
無言のまま一晩置いたことも。
今こうして何も変わらない顔をしていることも。
全部、わざとだ。
その静けさのほうが、よっぽど圧になる。
練習は淡々と進んだ。
音源が流れて、動いて、止められて、修正して、また流す。
タイキも集中した。
集中しないと、たぶん目が泳ぐ。
少しでも考えたら、昨日の既読のついたまま止まっている画面が頭に浮かぶ。
ルイは一度も触れてこない。
視線も必要以上に寄越さない。
隣に立つ場面でも、あくまで仕事の距離を守る。
それが逆に、タイキの神経を擦った。
昼前の休憩に入るころには、スタジオの空気も少しゆるんでいた。
スタッフがモニター周りに集まり、次の確認の準備を始める。
カノンは冷蔵庫のほうへ飲み物を取りに行って、ゴイチは床に座ってシューズの紐を結び直していた。
アダムはスタッフに何か短く聞かれて、入口側へ歩いていく。
タイキは自販機の横に置かれたウォーターサーバーの前で、紙コップに水を注いだ。
透明な水が細く落ちる音だけを聞く。
少しでも一人になりたかった。
背後の気配に気づいたのは、その時だった。
振り返らなくてもわかる。
わかってしまうことに、また少し腹が立つ。
コップを取る手がほんの少しだけ止まった。
ルイはタイキの隣に立った。
近すぎない。
でも、二人で話すには十分すぎる距離。
休憩中のざわめきは少し離れたところにある。
ここだけ、妙に静かだった。
ルイは自分も水を取るでもなく、ただ同じ方向を見たまま口を開く。
「昨日、来なかったな」
あまりにもさらっとした言い方だった。
責める声じゃない。
低いけれど平坦で、確認みたいですらある。
でもタイキの背中は、その一言でうっすら強張った。
コップのふちを持つ指先に、少しだけ力が入る。
「……忙しかった」
返した声は、自分でもわかるくらい少し硬かった。
言い訳だ。
自分でもわかっている。
昨日の夜、忙しかったわけじゃない。
でも“行きたくなかった”とは、まだ言えない。
ルイはそこで初めてタイキを見た。
「へぇ」
たったそれだけ。
短い。
何の感情も乗っていないような返し。
笑ってもいないし、怒ってもいない。
なのに、その一言だけで空気がぴんと張った。
タイキはコップを持ったまま、正面を見ていた。
横を向けば、目が合う。
それが嫌で、見ない。
ルイも無理に覗き込んだりしない。
ただ隣に立っている。
それだけなのに、息が浅くなる。
「忙しかったんだ」
ルイがもう一度言う。
声は変わらない。
穏やかですらある。
タイキはわずかに眉を寄せた。
「……そう」
「俺のLINE見る時間はあったのに?」
その言い方も静かだった。
責めるトーンじゃない。
笑顔のまま言えそうなくらい、整った温度。
でも中身は、昨日の続きをそのまま喉元に当ててくる。
タイキはようやく少しだけ顔を動かした。
正面のまま、視線だけを横へ流す。
ルイの輪郭が視界に入る。
横顔はいつも通り整っていて、昨日一晩返信を止めていた男のものとは思えない。
「見たからって、行くとは限んないだろ」
初めて、少しだけ本音に近い言葉が出た。
ルイの目が、ほんのわずかに細くなる。
「……限んないんだ」
「そうだよ」
タイキは今度こそはっきり言った。
小さい声なのに、自分の耳には妙に大きく聞こえる。
ルイは何も返さない。
数秒、沈黙が落ちる。
遠くでカノンの笑い声が聞こえた。
スタッフが何か確認している声もある。
いつものスタジオの音だ。
なのにこの場所だけ、別の時間みたいだった。
ルイが、少しだけ首を傾ける。
「じゃあ昨日は、本当に忙しかったわけじゃないんだ」
タイキの喉がきゅっと縮む。
言い逃れを、静かに潰される。
でもここで引いたら、たぶん昨日送った一言ごと意味がなくなる。
タイキはコップを置いた。
紙が小さく台に当たる音がする。
「……忙しいとかじゃなくて」
そこまで言って、息を吸う。
ルイは黙ったまま待っている。
急かさない。
でも逃がさない。
タイキはようやく、ルイの方を向いた。
真正面ではない。
少し斜め。
それでも、昨日までよりずっと近い位置で視線がぶつかる。
「行かなかった」
言い直したその一言で、ルイの表情がほんの少しだけ止まった。
本当に、一瞬だけ。
けれどタイキは見逃さなかった。
「……そう」
ルイはそれだけ言う。
でも今度の「そう」は、さっきとは違った。
淡々としているのに、その下で何かがわずかに沈んでいる。
タイキは自分の心臓がやけにうるさいのを感じた。
怖い。
まだ怖い。
でも目は逸らさなかった。
ルイが静かに口を開く。
「昨日、何かあった?」
その問いは、優しさにも聞こえる。
実際、誰かが横で聞いたら、ただ気遣っているだけに見えるかもしれない。
けれどタイキにはわかる。
これは気遣いじゃない。
探ってる。
どこまでわかっているのか、どこまで言う気なのかを。
タイキは少しだけ息を吐いた。
「……あったから行かなかったんだろ」
ルイの目が、今度ははっきりと細くなる。
そこに怒りはない。
でも静かな熱が宿る。
「俺のせいってこと?」
言葉は静か。
けれど、逃がさない問い方だった。
タイキはその瞬間、少しだけ笑いそうになった。
笑える場面じゃないのに。
その聞き方が、あまりにもずるくて。
「違うって言ったら、納得すんの?」
ルイは答えない。
答えない代わりに、タイキを見る。
まっすぐ。
昨夜返信をしなかった分まで、今ここで言葉の代わりに圧をかけてくるみたいに。
タイキも引かなかった。
高校の頃のルイなら。
あの頃の二人なら。
たぶんこんなふうに立ち止まる前に、どっちかが笑って終わらせていた。
でも今は違う。
何も言わなくても、全部わかってしまう。
わかっているからこそ、軽く流せない。
ルイが先に視線を落としたのは、ほんの一瞬あとだった。
床を見たわけじゃない。
ただ、タイキの肩口あたりへ目線が滑る。
そして、また静かに言う。
「避けられてるみたいで、感じ悪いなと思ってた」
その言い方に、タイキの胸がざわつく。
感じ悪い。
そんな軽い言葉に落とすんだ、と。
「……感じ悪くしたの、そっちだろ」
思わず出た言葉だった。
空気が止まる。
ルイがゆっくり顔を上げる。
タイキも、言ってから少し遅れて自分の鼓動が強くなるのを感じた。
でももう遅い。
引っ込められない。
ルイはしばらく何も言わなかった。
本当に何も。
その沈黙が、怒鳴られるより怖い。
やがて、ごく低い声で言う。
「……そこまで思ってたんだ」
タイキは唇を結んだ。
そこまで、って何だよ。
そこまでにしたのは誰だよ。
言いたいことはたくさん浮かぶのに、喉のところで全部重なって出てこない。
だから代わりに、短く返す。
「思うだろ」
ルイの喉が、小さく上下した。
それだけで、タイキは初めて少しだけわかった気がした。
この男も、無傷じゃない。
完璧な顔の下で、ちゃんと揺れている。
でもだからといって、優しくできるほど自分はもう余裕がなかった。
「タイキ、ルイ、次いける?」
少し離れたところからスタッフの声が飛ぶ。
その一言で、二人の間に入っていた密度がわずかに薄まる。
現実が戻ってくる。
ルイはすぐにそちらを向いた。
「はい、大丈夫です」
声はまた、完璧にいつも通りだった。
穏やかで、感じがよくて、何の問題もないルイ。
タイキはその切り替えを見て、胸の奥がまた少しだけ痛んだ。
でも今は、それに飲まれなかった。
ルイが一歩、離れる。
それからふと振り返りもせずに言う。
「……また、後で」
たったそれだけ。
命令じゃない。
強制でもない。
でも余白を残す言い方だった。
タイキはすぐには返事をしなかった。
ルイの背中が少し先へ行ってから、ようやく小さく言う。
「知らない」
その声はたぶん、ルイにだけ聞こえた。
ルイの足がほんの一瞬だけ止まる。
でも振り向かない。
そのまま前へ歩いていく。
タイキは残った紙コップをぐしゃりと軽く握ってから、深く息を吐いた。
手のひらが少し汗ばんでいる。
心臓はまだ速い。
怖さも消えていない。
でも昨日の夜みたいに、もうただ一方的に押されるだけではなかった。
初めて真正面からぶつかった。
言葉は少ないまま。
怒鳴りもせず。
それでも確かに。
ルイの独占欲と、タイキの抵抗が。
しかもたぶん、まだ始まったばかりだった。
近くに大型ライブを控えていた。
そのせいもあって、スタジオの空気はいつも以上に熱を帯びている。
発表を受けた瞬間、誰より先にカノンが「やば」と笑って、ゴイチが低く息を吐きながらも口元を上げていた。アダムは一歩遅れて静かに頷いて、ルイはスタッフの言葉を最後まで聞いてから、いつものように穏やかに「お願いします」と返した。
タイキも、当然うれしかった。
胸が熱くなった。
努力してきた時間が、ちゃんと形になった気がした。
でもその熱の奥で、別のことも思ってしまう。
忙しくなる。
リハーサル。
打ち合わせ。
構成確認。
映像撮影。
フィッティング。
細かい修正。
取材。
準備。
準備。
その繰り返し。
たぶん、夜も遅くなる。
帰れば寝るだけの日も増える。
そうしたら。
ルイはきっと、もう言わなくなる。
“来い”って。
その考えが浮かんだ瞬間、タイキの胸の奥に生まれたのは、まず小さな安堵だった。
終わるかもしれない、と思った。
忙しさに押されて、自然に薄まって。
どちらからともなく触れなくなって。
何もはっきり壊さないまま、それでも前みたいには戻れないまま、少しずつ。
それでいい気がした。
それで、よかったはずだった。
⸻
準備期間に入ると、本当に日々は目まぐるしくなった。
朝からスタジオに入って、昼をまたいで通し、夜には別室で映像の確認。
振りの細かい揃え、歌割りの再調整、立ち位置の修正。
ライブが大きくなればなるほど、一つひとつの精度が厳しくなる。
みんな忙しかった。
みんな疲れていた。
でも、その疲れの中に確かな高揚もあった。
タイキはその忙しさに救われた。
考える暇がない。
夜、スマホを開いても、そのまま寝落ちする。
帰宅してベッドに倒れ込めば、意識なんてすぐに薄くなった。
そして本当に、ルイから“来い”は来なくなった。
一日。
二日。
三日。
最初、タイキはほっとした。
ああ、やっぱり、と思った。
忙しくなればこんなものだ。
あれも結局、続けられるほど強いものじゃなかったのかもしれない。
ルイの中でも、今は仕事の方が大きいだけかもしれない。
それでいい。
その方がいい。
そう思うたび、少しだけ胸が軽くなる。
なのに。
五日目の夜くらいから、逆に気になり始めた。
今日も何も来ない。
その事実に、なぜか目が行く。
別に来てほしいわけじゃない。
呼ばれたいわけでもない。
そう自分に言い聞かせるのに、シャワーのあと、無意識にスマホを見てしまう。
通知欄を下ろして、何もないことを確認して、閉じる。
また少しして、開く。
馬鹿みたいだ、と思う。
来ない方が楽だったはずだ。
あれだけ苦しくて、怖くて、やっと一度拒否したのに。
静かになった今、ほっとしてるだけでいいはずなのに。
なのに胸のどこかが、その静けさの意味を探してしまう。
もう終わったのか。
それとも、忙しいだけなのか。
それとも。
俺のこと、もうどうでもよくなったのか。
そこまで考えて、タイキは小さく首を振った。
どうでもいい。
どうでもいいはずだ。
そう思うほど、心は少しだけざわついた。
⸻
その夜も帰りは遅かった。
コンビニで買ったおにぎりを適当に胃に入れて、シャワーを浴びて、ベッドに腰を下ろしたころにはもう日付が変わりかけていた。
部屋は静かだった。
エアコンの音。
窓の外を遠く走る車の気配。
乾ききらない髪が首元にかかる感覚。
タイキはぼんやりスマホを手に取った。
その瞬間、画面が光る。
心臓が、先に反応した。
表示された名前を見るより早く、わかってしまった。
ルイ
喉が浅く鳴る。
メッセージは一行だけだった。
「今日、空いてる?」
タイキは動けなかった。
指先がぴたりと止まる。
“来い”じゃない。
たったそれだけの違いなのに、受ける重さがまるで違った。
命令じゃない。
強制でもない。
答えをこっちに委ねているみたいな言い方。
でも本当にそうなのか。
ただ言い方を変えただけじゃないのか。
そう思う自分もいる。
それでも、その一文は確かに今までと違っていた。
タイキは画面を見たまま、十分近く動けなかった。
返信欄は空白のまま。
既読もまだつけていない。
通知に残った一行だけが、部屋の空気まで変えてしまったみたいに見える。
何て返せばいい。
断るのか。
行くのか。
無視するのか。
そもそも、なんで今さら。
あんだけ、無茶苦茶しておいて。
今更、何だよ。
タイキは親指でスマホの端をなぞる。
開いて、閉じて、また画面を見る。
自分でも笑えるくらい落ち着かない。
結局、返信しないまま上着だけ羽織って部屋を出た。
夜風に当たりたかった。
少し歩けば、何か整理できる気がした。
⸻
コンビニまでの道は、高校の帰り道をどこか思い出させた。
もちろん街並みは違う。
あの頃より建物も増えたし、通る車も多い。
夜の見え方だって全然違う。
それでも、コンビニの白い明かりとか。
自動ドアが開く時の音とか。
レジ横の肉まんの匂いとか。
そういうものは、不意に昔を連れてくる。
高校の頃も、よくこんなふうに寄った。
レッスン帰り。
オーディション帰り。
疲れたとか、腹減ったとか、明日やばいとか。
どうでもいい話をしながら、アイスを選んで、飲み物を買って、店の外でだらだら立ち話していた。
楽しかった。
本当に、ただ楽しかった。
何も考えずに笑っていられた。
隣にルイがいることが、当たり前だった。
タイキはペットボトルの炭酸水だけ買って、店の外に出た。
開けた瞬間、ぷし、と小さな音がする。
炭酸が喉を刺して、少しだけ目が覚めた気がした。
何、思い出話なんかしてんだよ、俺。
心の中で、自分に言う。
今さら。
今さら高校の頃のことなんて。
あんだけ無茶苦茶しておいて。
何もなかったみたいな顔して。
昔だけ綺麗に思い出して、自分を誤魔化すな。
ルイにも。
自分にも。
そう言い聞かせるのに、足は自然と少し遠回りの道を選んでいた。
高校の頃、レッスン帰りに二人でよく歩いた、夜道に似た静かな通り。
街灯の少ない、でも暗すぎない道。
並んで歩くにはちょうどいい広さ。
そこで、背後から低い声がした。
「タイキ」
息が止まりそうになる。
振り返る。
少し離れたところに、ルイが立っていた。
黒いパーカーにキャップ。
ラフな格好なのに、夜の中でもやっぱり目を引く。
スマホを片手に持ったまま、こっちを見ている。
「……何」
返した声は、思ったより平坦だった。
ルイは少しだけ歩いて近づく。
距離は詰めるのに、近づきすぎない。
その加減だけが妙に大人びていて、余計に腹が立つ。
「あのさ」
その言い方が、珍しくためらいを含んでいた。
タイキはそれだけで、胸の奥が嫌なふうに揺れる。
いつもみたいに言い切ればいいのに。
そうしたらまた反発できるのに。
少し間が空いた。
そしてルイが言う。
「俺のこと、避けてる?」
風の音が、やけに大きく聞こえた。
タイキはすぐに答えられなかった。
その問いは、思っていた以上にまっすぐだった。
責めるようでいて、責め切れていない。
確かめるようでいて、どこか怯えてもいるみたいな声。
そんな聞き方、ずるいと思う。
避けてるに決まってるだろ。
避けたくなるようにしたのは誰だよ。
そう言いたいのに、言葉は喉に引っかかったまま動かない。
ルイは答えを急かさない。
ただタイキを見る。
夜の中でも、目だけは静かに熱を持っている。
タイキは炭酸水のボトルを少し強く握った。
「……どう思う」
やっと出たのは、答えじゃなくてそんな言葉だった。
ルイはほんの少しだけ目を伏せた。
「避けられてるようには見える」
「じゃあ、そうなんじゃない」
意地みたいに返す。
ルイはそこで黙った。
黙ったまま、数秒。
その沈黙が痛い。
高校の頃なら、こんな間はなかった。
軽口が飛んで、どっちかが笑って、終わった。
今は終わらない。
終わらせ方を、二人とも忘れてしまったみたいだった。
タイキは視線を逸らした。
遠くの信号が青に変わる。
誰も渡らない横断歩道だけが、白く浮いている。
そして、ぽつりと聞く。
「寂しいの?」
自分で言ってから、その言葉の幼さに少し驚く。
でも一度出てしまったものは戻らない。
ルイは答えなかった。
ほんのわずか、呼吸だけが止まったように見えた。
それが答えみたいに思えて、タイキの胸がちくりと痛む。
やがてルイが、低く返す。
「……」
無言のあと。
「タイキは?」
その返しに、今度はタイキが言葉を失った。
街の音が遠のく。
タイキは目を上げる。
ルイは逃げていない。
まっすぐ、こっちを見ている。
寂しいのか、と聞いた。
聞いたくせに、返された途端に何も言えなくなる。
寂しいわけない。
そんな簡単な話じゃない。
苦しかった。
腹が立った。
怖かった。
でも、それだけでもない。
“来い”が来なくなって、安心したのに。
数日経って、それを気にしていた自分を思い出す。
それが答えだった。
でも認めるには、あまりにもみっともない。
タイキは苦く笑いそうになって、結局やめた。
「……知らない」
やっとそう言うと、ルイは少しだけ口元を緩めた。
笑ったというより、痛みを隠しきれなかったみたいな顔だった。
その顔を見た瞬間、タイキの胸はまた複雑に揺れる。
ずるい。
そういう顔、するなよ。
ルイがゆっくり息を吐く。
「そっか」
短い一言。
でも、その“そっか”の中に、諦めとも違う何かが落ちていた。
二人の間にまた沈黙が降りる。
タイキはボトルを持ち替えた。
ルイはポケットに手を入れる。
夜風が二人の間を通る。
その空気は、高校の帰り道に少し似ていた。
何でもない話を始められそうな距離。
でももう、何でもないには戻れない距離。
ルイが少し先を見ながら言う。
「今日、来る?」
タイキはその言い方に、思わず顔を上げた。
“来い”じゃない。
また、選ばせるような言い方だった。
試してるのか。
変わろうとしてるのか。
ただ言い方を変えただけなのか。
それはまだわからない。
でも少なくとも、今までと同じではない。
タイキはすぐには答えなかった。
十秒か。
もっとか。
沈黙の長さなんてわからない。
行ったら何が変わる。
行かなかったら何が残る。
その全部を一瞬で考えて、結局どれも答えが出ない。
それでも。
今日このまま別れたら、またずっと曖昧なままになる気がした。
タイキはルイを見た。
ルイも見ていた。
追い詰める目じゃない。
待っている目だった。
そのことが、逆に怖い。
少しだけ息を吸って、タイキは言う。
「……行く」
ルイの喉が、小さく上下した。
それだけで、ルイもたぶん少し緊張していたのだとわかる。
でも表情は大きく変えない。
ほんの少しだけ、目元がやわらいだだけ。
「うん」
それだけ返して、ルイは並ぶように歩き出した。
タイキも遅れてついていく。
並んで歩く夜道。
その沈黙は昔と似ていて、でもまるで違う。
青春の続きみたいで、続きじゃない。
やり直しでもなく、なかったことにもできない距離。
タイキは心の中で小さく舌打ちした。
何なんだよ、これ。
そう思うのに。
少しだけ、息がしやすかった。
⸻
ルイの部屋に入っても、その夜はすぐに何かが起きるわけじゃなかった。
いつもと同じ部屋。
同じ照明。
同じソファ。
同じテーブル。
でも空気だけが、少し違う。
ルイは「座ってて」とだけ言ってキッチンに立った。
冷蔵庫を開け、食材を出し、コンロに火をつける。
フライパンに油が落ちる音がする。
タイキはダイニングの椅子に座ったまま、その背中を見ていた。
妙に静かだ。
いつもなら、この沈黙の先に緊張があった。
何かが起こる前の張り詰めた気配。
でも今日は違う。
ただ、夕飯の支度をしている。
その“普通”が逆に落ち着かない。
「手伝う?」
そう聞くと、ルイは振り返らずに言った。
「いい。もうすぐ」
包丁の音。
野菜を切る音。
湯気の立つ音。
タイキはテーブルに置かれたグラスを見つめた。
指先で輪郭をなぞる。
そして、気づけばその言葉が口から出ていた。
「なんで、俺呼ぶの?」
ルイの手が止まる。
本当に、ぴたりと。
フライパンの余熱の音だけが、部屋に残った。
その質問は、思っていたより真っ直ぐだった。
自分でもそう思う。
でも、聞かずにはいられなかった。
今日、空いてる?
来る?
その言い方は今までと違った。
だったら、ちゃんと聞かなきゃいけない気がした。
ルイはしばらく何も言わなかった。
背中を向けたまま、コンロの火だけを見ている。
タイキはその沈黙を待った。
待ちながら、変なこと聞いたかもしれないと思う。
でも引っ込めたくはなかった。
やがてルイが、ごく低く答える。
「……落ち着くから」
タイキは息を止めた。
あまりにも正直な返しだった。
もっとごまかすと思っていた。
適当に流すとか。
何でもないみたいな顔をするとか。
そういう逃げ方をすると思っていた。
でもルイはしなかった。
落ち着くから。
たったそれだけ。
なのに、その一言の中に高校の頃から続く長い時間が、急に詰まった気がした。
タイキは目を伏せる。
落ち着く。
その言葉で思い出すのは、いつだって昔のことだ。
⸻
はじめて夜にルイの家に行った日。
まだ今みたいになる前。
全部がこんなに重くなる前。
その日もたしか、レッスン帰りだった。
高校三年の終わり頃だったか、オーディションの最中だったか。
忙しくて、でも今ほどじゃなくて、将来の輪郭はまだ曖昧だった。
ルイの家に寄ったのは、本当に軽い流れだった。
近いし。
腹減ったし。
ちょっとだけ曲聴いてから帰るか、みたいな。
制服じゃなくて、動きやすい私服で。
コンビニの袋をぶら下げて。
ソファに並んで、イヤホン片方ずつ分けて、録ったばかりの音源を聴いた。
「ここ、外しそうだった」
「いや外してない」
「ギリだった」
「ギリでも外してないならセーフ」
「ルイってそういうとこあるよな」
「何が」
「都合いい」
「タイキにだけは言われたくない」
そんな、どうでもいい言い合いをして。
笑って。
曲を止めて。
また別の曲を流して。
夜は静かだった。
窓の外の灯りも、今より少しだけ遠く感じた。
あの頃のルイは、今よりずっとわかりやすかった。
機嫌がいい時の顔。
むきになる時の目。
少し疲れてるくせに平気なふりをする声。
タイキはその全部を知っていたし、たぶんルイも同じだった。
その夜、帰る前だった。
玄関の近くで、タイキがスニーカーを履きかけていた時。
ルイが名前を呼んだ。
「タイキ」
何、と振り向いたその瞬間。
ルイの手が、タイキの腕を軽く引いた。
驚く間もなく、唇が触れた。
一瞬だった。
本当に、一瞬。
何が起きたかわからないくらい、短くて、でも熱だけははっきり残る長さ。
ルイの顔が近い。
目が少し伏せられていて、呼吸が浅い。
タイキは動けなかった。
拒むことも。
受け入れることも。
言葉にすることも。
ただ、固まったままルイを見た。
ルイも、たぶん同じくらい動揺していた。
あの完璧な顔じゃなかった。
息が止まりそうな顔をしていた。
やってしまった、みたいな。
でも、引けないみたいな。
あの時。
タイキは、ルイの頬に触れた。
ほんの一瞬。
ただ、そこに手を添えただけ。
抱き寄せたわけでもない。
キスを返したわけでもない。
何かを許したわけでもない。
でもその行為だけで、空気は変わった。
ルイの目が揺れたのを、タイキは今でも覚えている。
そしてたぶん。
ルイは、そのことをずっと覚えていた。
⸻
タイキはハッとする。
キッチンでは、ルイがまたゆっくりと動き出していた。
火を止め、皿を出し、料理を盛る。
その背中はいつもと同じように見えるのに、タイキには今だけ少し違って見えた。
“落ち着くから”
その言葉の意味が、少しだけわかってしまったから。
タイキは椅子に座ったまま、静かに聞く。
「……今でも覚えてんの」
ルイの肩がわずかに止まる。
「何を」
わかってるくせに、そう返す声。
タイキは少しだけ口元を歪めた。
「高校の時のこと」
ルイは皿を持ったまま、しばらく何も言わなかった。
そして小さく、でもはっきりと言う。
「覚えてるよ」
短い返事。
でもそれで十分だった。
タイキの胸の奥が、苦しくなる。
今の夜と、あの夜は繋がっている。
途中でどこか壊れて、歪んで、わからなくなって、それでも全部地続きだ。
それがたまらなく切なくて。
少しだけ、うれしくて。
でもそれを認めるには、まだ痛すぎた。
ルイが料理をテーブルに置く。
「食う?」
タイキはその皿を見たあと、ゆっくり頷いた。
「……うん」
その返事だけで、また夜が静かに動き出す。
今までとは違う夜。
でも、まだ何も解決していない夜。
ふたりともそれをわかったまま、同じテーブルについた。
食卓についたあとも、しばらく会話はなかった。
箸が皿に触れる音。
味噌汁の湯気。
窓の外を走る車の音。
向かいに座るルイは、いつも通り食べ方がきれいだった。
無駄がなくて、静かで、まるでさっきまでの会話なんて最初からなかったみたいに落ち着いている。
タイキはその横顔を見ないように、ご飯を口に運んだ。
味はするのに、何を食べてるのかよくわからない。
落ち着くから。
あの一言が、まだ胸の奥に残っている。
高校の頃の夜。
玄関前。
不意打ちみたいな最初のキス。
あの時、何も言えなかった自分。
触れてしまった頬。
そこまで思い出したところで、ルイが不意に口を開いた。
「最初のキス」
箸を持つタイキの手が止まる。
ルイはすぐに続けなかった。
少しだけ間を置く。
その間の方が、言葉そのものよりずっと重かった。
「覚えてる?」
タイキはゆっくり顔を上げた。
ルイはこっちを見ていない。
視線は味噌汁の椀のふちあたりに落ちたまま。
でも、その問いは確かにまっすぐだった。
「……覚えてるけど」
声が少し硬くなる。
ルイは小さく息を吐くみたいに笑った。
自嘲とも違う、妙に乾いた笑いだった。
「お前、あの時」
そこでようやく、ルイがタイキを見る。
「俺の頬に触った」
「お前。少しだけ笑ってた」
その言い方に、タイキの喉が詰まる。
覚えてる。
そんなの、自分だって覚えてる。
びっくりして。
何が起きたかわからなくて。
でも、ルイの顔があまりにも必死みたいに見えて。
それで、反射みたいに手が動いた。
ただ、それだけだ。
「……だから?」
タイキは少しだけ眉を寄せて返した。
その一言で、ルイの様子が少し変わる。
大きくじゃない。
ほんの少し、目の奥の温度が下がる。
口元だけが、かすかに歪む。
「お前さ」
冷たくはないはずの声が、妙に冷えて聞こえた。
「被害者面してるけど、抵抗もしなけりゃ、否定もしないじゃん」
タイキは一瞬、言葉の意味を受け取れなかった。
被害者面。
その単語だけが、遅れて胸の奥に落ちる。
ルイは何食わぬ顔で箸を進める。
白飯を一口食べて、静かに噛んで、飲み込んでから続けた。
「お前だって、都合よかったんじゃねぇの」
「……は?」
タイキの声が、低くなる。
それでもルイは止まらない。
「俺たちの立場上、発散できる場所もねぇし」
味噌汁の椀を持ち上げる。
その手つきは落ち着いていて、余計に腹が立った。
「お前だって満更じゃねぇじゃん」
その言葉が落ちた瞬間。
タイキの中で、何かが切れた。
箸を置く音が、思ったより強く鳴る。
「ふざけんなよ」
初めてだった。
ルイに向かって、こんな声を出したのは。
静かな部屋が、そこでぴたりと止まる。
ルイもさすがに箸を止めた。
でも驚いた顔はしない。
ただじっと、タイキを見る。
タイキの胸はもう、ごまかせないくらい上下していた。
「何、それ」
喉が熱い。
頭の奥まで、じんじんする。
「都合いいって、何だよ」
ルイは何も言わない。
その沈黙が余計にタイキを煽った。
「お前が呼ぶから行ってたんだろ」
声が少し震える。
怒りでか、悔しさでか、自分でもわからない。
「お前が来いって言うから、行ってたんだよ。お前が何も言わねぇで、勝手にキレて、勝手に嫉妬して、勝手に触ってきて」
ルイの目がわずかに細くなる。
けれどタイキは止まらなかった。
止まれなかった。
「それを今さら、俺も都合よかったみたいに言うなよ」
テーブルの下で、手が震えている。
怒ってる。
ちゃんと怒ってる。
今までずっと曖昧に飲み込んできたものが、ようやく言葉になってあふれている。
「最初のキスのことだってそうだろ」
タイキはルイを睨んだ。
「あの時のこと、今ここで持ち出してきて、だからお前も悪いって言いたいわけ?」
「そんなこと——」
初めてルイが口を挟みかける。
でもタイキは被せた。
「俺が頬触ったから何だよ」
声が掠れる。
「あの時、俺、びっくりしてただけだろ。お前の顔が……」
そこまで言って、言葉が詰まる。
ルイの顔。
あの時の、どうしようもなく揺れてた目。
それを見たから手が出た。
そんなことまで、今この場で認めたくないのに。
「……それを、お前が勝手に都合よく覚えてただけだろ」
言い切った瞬間、胸の奥が痛んだ。
半分は嘘だった。
勝手に都合よく覚えていた、だけじゃない。
自分だってあの夜を忘れていない。
忘れられないから、苦しい。
でも今は、それを正直に言える空気じゃなかった。
ルイはしばらく黙っていた。
さっきまでの何食わぬ顔が、少しずつ剥がれていく。
怒っているわけじゃない。
けれど、整えていたものが崩れかけているのはわかった。
「……じゃあ何で来たんだよ」
低い声だった。
タイキの眉が動く。
ルイは箸を置く。
今度はその手元に、さっきまでみたいな余裕がなかった。
「嫌なら来なきゃよかっただろ」
「それ、今言う?」
「今だから言ってんだよ」
ルイの声も少しだけ熱を帯びる。
「来るたび嫌な顔して、でも本気で拒まないで、何も言わないまま帰って」
視線がぶつかる。
「俺だけが一方的だったみたいに言うなよ」
タイキは息を呑んだ。
その言い方に、また腹が立つ。
でも同時に、どこかでわかってしまう部分があるのが最悪だった。
本気で拒まなかった。
何も言わなかった。
それは事実だ。
でも。
「だからって」
タイキはゆっくり、噛みしめるみたいに言う。
「だからって、お前がしてきたことが勝手に正しくなんのかよ」
ルイの表情が止まる。
タイキは自分の膝の上で、拳を握った。
「お前が言ってるのってさ、俺も黙ってたから悪いって話だろ」
唇の端が震える。
「そんなの、ずるいだろ」
その一言だけが、部屋の真ん中に落ちた。
ルイは何も返さない。
返せない、みたいに見えた。
タイキはそこで初めて、自分の目の奥が熱くなっていることに気づく。
泣くつもりなんてない。
こんなところで泣きたくない。
だから息を吸って、もう一度言う。
「俺、お前に都合よく扱われてたことに腹立ってんの」
静かに。
でもはっきり。
「それを、お前だって満更じゃなかったって言い方で済ませようとすんな」
ルイの喉が、小さく上下する。
その顔には、もうさっきの冷たい笑いはなかった。
ただ、痛いところを真正面から殴られたみたいな沈黙だけがあった。
テーブルの上の味噌汁から、もう湯気は立っていない。
フライパンの余熱の音も消えて、部屋は静まり返っていた。
タイキは先に目を逸らした。
これ以上見ていたら、怒りだけじゃないものまで出そうだった。
苦しい。
腹が立つ。
悔しい。
それでも、全部嫌いになれない自分にも腹が立つ。
向かいで、ルイがようやく低く息を吐く。
でも、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、今度は言い逃れじゃなく、ちゃんと突き刺さっている沈黙だとわかる。
タイキはそれでもまだ、拳を握ったままだった。
初めて怒った。
初めて、真正面から否定した。
もう、前みたいには戻れない。
そのことだけが、どうしようもなく確かだった。
「俺、好きであんなことされてたと思ってんの?」
部屋の空気が、一気に張る。
テーブルの上の皿も、冷めかけた味噌汁も、その言葉ひとつで急に遠くなる。
ルイは何も言わない。
ただ、タイキを見る。
タイキは視線を逸らさなかった。
怒っている。
今もちゃんと。
でもその怒りの奥に、別のものが混じっているのを、自分でも隠しきれなかった。
「抵抗してねぇって言うけど」
小さく息を吐く。
「……お前相手に」
言葉が少しだけ詰まる。
喉の奥で引っかかる。
でも、止めない。
「どうやって抵抗すんだよ」
その一言で、ルイの目がほんの少し動いた。
タイキはまだ怒っていた。
怒っているのに、その怒りだけでは言い切れない感情が胸の内側をかき回している。
「しかも」
タイキは自嘲みたいに小さく笑った。
「今さら」
視線を上げる。
ルイを見る。
「落ち着くからとか言われて」
声が少し掠れる。
「……どう反応すりゃいいんだよ」
言い終わって、タイキは視線を落とした。
部屋はまた静かになる。
さっきまでより、ずっと重い静けさ。
ルイは向かいから、じっとタイキを見ていた。
その表情が、ほんの少しだけ変わる。
何かを飲み込むみたいに、喉が動く。
それでも次に出てきたのは、やわらかさじゃなかった。
「へぇ」
ルイが笑う。
その笑いは、穏やかじゃない。
うまく感情を隠しきれなかった時の、少し冷えた笑いだった。
「それで?」
そう言って、椅子を引いて立ち上がる。
タイキの肩が無意識に強張る。
ルイはゆっくり近づいてくる。
急がない。
でも一歩ずつ、距離を詰める。
テーブル越しじゃなくなっただけで、空気の密度が変わる。
タイキが顔を上げた時には、もうルイはすぐ目の前にいた。
顎先に指がかかる。
少し強めに持ち上げられて、視線が合う。
「俺相手には抵抗しないんだ?」
見下ろす声は低い。
静かで、だからこそ逃げ場がない。
タイキの眉が寄る。
「触んな」
反射みたいに、ルイの手首を掴む。
その瞬間、ルイの目がわずかに細くなった。
掴まれた手首を、そのまま逆に掴み返してくる。
「お前今、自分で何言ってるかわかってる?」
低く問われる。
タイキは一瞬だけ息を止めた。
でも、もう引かなかった。
「分かってるよ」
短く言い返す。
少し間。
そのまま、ルイの目を見たまま続ける。
「だから来たんだろ」
その返しに、今度はルイが止まる。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ、手の力が揺らぐ。
タイキはその隙に、ルイの胸を軽く押した。
強くじゃない。
でも、はっきりと距離を戻すための手つきで。
「飯、冷める」
その言い方が、妙にタイキらしかった。
さっきまで喉元まで来ていた感情のぶつかり合いを、一度日常へ戻す。
逃げるんじゃなくて。
壊すんでもなくて。
ちゃんと今ここに引き戻すみたいに。
ルイは押されたまま、少しだけ目を見開く。
それから小さく息を吐いて、ようやく手を離した。
タイキも掴んでいた手を離す。
二人の間に、数歩ぶんの距離が戻る。
でもさっきより、近い。
触れていないのに、触れたあとみたいな熱が残っている。
言葉は減ったのに、空気の方がずっと濃い。
ルイは無言のまま元の席に戻った。
タイキもゆっくり座り直す。
それから、食事の続きが始まる。
何もなかったみたいに、ではない。
かといって、もう一度すぐぶつかるわけでもない。
箸の音。
皿を置く音。
味噌汁を飲む音。
ただ、その一つひとつの間に、さっきまでの視線と手の感触がまだ残っていた。
ルイが箸を持つ指はいつも通りきれいなのに、さっきより少しだけ静かすぎる。
タイキもご飯を口に運びながら、妙に心臓がうるさい。
落ち着かない。
なのに、席を立つ気にもならない。
しばらくして、ルイがぽつりと言う。
「じゃあ」
少し間を置く。
「今日、やめとく?」
タイキの箸が止まる。
ルイは味噌汁の椀を見たまま、続けた。
「タイキが」
その声は、さっきまでより少しだけ低い。
「怒ってる顔してるから」
その一言に、タイキはすぐには反応できなかった。
初めてだった。
ルイが夜を止める提案をしたのは。
何も言わずに流すでもなく、押し切るでもなく、こっちの顔を見て、空気を見て、止まる方を口にするなんて。
その事実だけで、胸の奥が妙に揺れる。
「……別に怒ってねぇよ」
返した声は、思ったより静かだった。
ルイがゆっくり視線を上げる。
タイキはその目を受けながら、少しだけ息を吐いた。
「やめなくてもいい」
言った瞬間、自分でも胸の奥が熱くなる。
投げやりじゃない。
諦めでもない。
ただ、今までみたいに一方的に押される夜じゃなくていいなら、という気持ちがそこにあった。
ルイはすぐに返事をしなかった。
タイキを見ている。
まっすぐ。
試すみたいでも、追い込むみたいでもなく、ちゃんとその言葉の意味を受け取ろうとする目だった。
「……そう」
やがてルイが言う。
それだけなのに、さっきまでとは違う響きがあった。
二人の間に、また沈黙が落ちる。
でも今度の沈黙は、ただ重いだけじゃない。
どこか張り詰めたまま、少しずつ形を変え始めている。
テーブルの上の料理はもう半分以上なくなっている。
冷めているのに、妙に温度を持って見えた。
タイキは視線を落としたまま、箸を持ち直す。
ルイも同じように、静かに食事へ戻る。
ただ、もうさっきまでの距離じゃない。
何も解決していない。
怒りも、痛みも、全部まだそこにある。
それでも今夜は、今までの夜とは違う。
そのことだけを、二人とももうわかっていた 。
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うわあ……第4話、すごく重くて、でも確かに進んだ回でしたね。ルイが「落ち着くから」って言ったあの一言、あれがもう全てを物語ってる気がします。高校の頃の記憶が地続きで、今の歪んだ関係に繋がってるのが切ない。タイキが初めて真正面から怒って「都合よく扱われた」って言い切ったシーン、胸が痛かったです。でも最後の「やめなくてもいい」で、二人の間に少しだけ違う空気が生まれたのが見えた気がしました。続きが気になります。