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「あー、腰痛てぇ……」
翌朝。 理人は自室のベッドの上で、文字通り泥のように横たわっていた。
結局あの後、移動したベッドでさらに一回。 こびり付いた汗を流そうと入った浴室で、シャワーを浴びながらもう一回。 果ては部屋を出る間際、名残惜しそうに引き止める蓮に玄関先でまで組み敷かれ……。 ようやく解放されて家路を急いだ時には、既に東の空が白み始め、世界がうっすらと朝の光を帯びていたほどだった。
音を立てないよう慎重に玄関の鍵を開けると、運悪く朝食の支度で下りてきた母親と鉢合わせ、心臓が口から飛び出すかと思った。
「……体が鈍ってるから、ちょっとランニングに行ってたんだ」
咄嗟に荷物を背後に隠し、用意していた言い訳を並べ立てると、母親は意外なほどあっさり納得してくれた。 まさか自分の息子が無断外泊の末に、男と一晩中情事に耽って朝帰りしたなど、夢にも思っていないのだろう。 親を欺くことに微かな罪悪感が疼いたが、背に腹は代えられない。念のためにとスポーツウェアを着用して家を出た昨夜の自分を、これほど褒めたいと思ったことはなかった。
「……悪知恵だけは、一流だな」
自嘲気味に呟きながら、自室のベッドに潜り込む。張り詰めていた緊張が解け、心地よい倦怠感が一気に押し寄せてきた。
「あいつ、どんだけ絶倫なんだよ。……まあ、知ってたけど……」
結局、疲れ果てて言いたいことも言えず、肝心な一年前の真意も聞けずじまい。 ――でも。
「……気持ち、よかったな。……すごく」
自分を求めることに余裕を失い、ギラついた瞳で何度も名前を呼んでいた蓮。あの熱っぽい貌を思い出すだけで、首筋から顔にかけて一気に熱が上がっていく。
「いや、馬鹿か!? 俺は!」
口に出した途端、猛烈な羞恥に襲われ、理人は枕に顔を埋めてのたうち回った。
「あー、くそっ! 次会ったら、絶対に文句言ってやる!」
そして、あのご尊顔を一発殴る。それだけは譲れない決定事項だ。 理人は一人で固く決意を固めると、抗いがたい眠気に誘われるまま、深い眠りへと落ちていった。
あれからさらに数ヶ月が過ぎ、気がつけば卒業の日を迎えていた。 凍てつく冬もようやく終わりを告げ、頬を撫でる風には柔らかな春の気配が混じり始めている。三月に入ったばかりの頃の執拗な寒さは影を潜め、校庭の桜の蕾も、今か今かとその時を待つように薄紅色にほころんでいた。
今日で、やっと本田からも解放される。
この二年間、自分の人生は文字通り散々なものだった。本来なら、セックスやドラッグ、暴力といった泥沼の犯罪行為とは無縁の、輝かしいエリート街道を歩んでいるはずだった。それなのに、まさか自分がこれほどまでに性に振り回され、快楽の深淵に溺れることになろうとは、入学当初の自分には想像すらできなかった。
しかも、あろうことか相手は男。 今でも時折、これはすべてたちの悪い悪夢で、本当はどこかに女の子と付き合って童貞を卒業した「まともな自分」がいるのではないかと錯覚することがある。 だが、そんなものはただの逃避に過ぎない。鏡の中にいる、情事の痕跡を隠し、冷めた瞳をした自分が唯一の現実だ。
男に抱かれる時に突き抜ける、あの強烈な快楽を知ってしまった以上、もう二度と「普通」の恋愛に戻れるとは思えなかった。女を抱くよりも、男に穿たれ、支配される方に身体が疼いてしまう。
こんな歪な身体に仕立て上げた責任をどう取ってくれるのか、蓮に会えたら絶対に問い詰めてやろうと心に決めていた。 だが、あの日ホテルで再会したのを最後に、彼との接触は二度と叶わなかった。一度だけ実家を訪ねてみたが、彼はすでに家を出て一人暮らしを始めているとのことで、結局、手がかりさえ掴めずじまいだった。
「……鬼塚くん、ちょっと話があるんだ」
登校するなり、廊下で呼び止められた。 いかにもスポーツ一筋で生きてきたと言わんばかりの、清々しい精悍さを纏った男子生徒。確か剣道部の主将で、インターハイ出場の常連として壇上で表彰される姿を何度も見かけたことがある。 暑苦しいほどの責任感と、迷いのない真っ直ぐな性格。将来は警察官になると公言していたはずだ。名前は確か、間宮大吾と言っただろうか。
クラスが同じになったことも、言葉を交わしたことも一度としてない。自分とは正反対の場所にいる、住む世界の違う人間だと思っていた。
「実は……ずっと前から、君のことが好きだったんだ。僕と、付き合ってくれませんか」
連れ出された誰もいない屋上で、間宮は慎ましやかに、けれど力強く好意を告げた。
「こんなことを言えば、迷惑なのは分かっている。だけど、どうしても伝えたくて……」
拳を握りしめ、真っ直ぐに理人を見つめるその面持ちは、冗談など一切通じないほど真剣だった。わずかに震える声、緊張で耳まで真っ赤に染まった顔。
一瞬、悪質な罰ゲームの類ではないかと疑ったが、彼の佇まいには一片の邪な気配もなかった。ただひたむきに、理人からの返答を、祈るような心地で待っているのが痛いほどに伝わってくる。
(――ああ、眩しいな)
ふと、そう思った。 濁りのない、真っ直ぐな告白。不安そうに揺れる瞳。自分の言葉一つで、この青年の世界がバラ色にも灰色にもなるのだ。
彼のような光の下にいる人間と付き合えば、あるいは自分も「清い交際」とやらができるのかもしれない。 だが、今の自分はあまりにも、心の奥底まで穢れすぎていた。 真っ白で潔癖な彼の人生の1ページに、自分という消えない汚泥を、濃い染みを残すわけにはいかないのだ。
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