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【プロローグ】

私たちは肩も、手も、触れそうな、でも決して触れない距離で二人並んで、周りを見渡せば田んぼか森しかない線路の上を歩いた。

「私、田舎の線路の上、歩いてみたかったんだよねー。」

なんて、いましていることに似合わず呑気な会話をする。

翔太は自然な顔でふふっと笑ってから、自分も線路に飛び乗って、ニヤッと笑った。

この笑顔がずっと続けば良かったのに。守ってもらえれば、良かったのに。


【第一章】

今日も蝉がうるさく鳴いている。汗は髪の毛を伝って肩に滴り落ちて、セーターにシミができる。

私は教室に着くなりあほみたいに窓の先を見つめた。授業中も、ずっと。先生に当てられればさっさと終わらせるためにそれっぽそうな答えを出して、また席に着いて窓の先を見つめる。毎日。同じことの繰り返しだ。

終礼終わりの鐘がなる。『ありがとうございましたー。』みんなの声を聞いてから私は素早く鞄を持つ。

家には帰りたくないから、遅くまで学校近くの図書館で勉強してから帰る。それが私の日課だ。

今日は図書館にあいつがいる。いつも私の隣の隣くらいの窓の前のカウンター席に座る。夕陽に照らされて、綺麗なオレンジに輝くあいつは、私の幼馴染の翔太だ。せっかく難しいところを受験して周りの子から離れたのに、同じ高校だったのだ。翔太は部活のない時だけ私の悪あがきが終わるまで一緒に勉強してそれとなく一緒に帰る。お互いわざわざ話しかけることは無いが、それがなんとも心地よく私にとっては唯一安心できる居場所だった。


自転車を降りて、鍵を抜き、玄関の前に立つ。私は一呼吸してから精一杯の笑顔を張り付け、ドアを引く。

「ただいまー。」

おかえり。とママが出てくる。私は笑顔を張りつけたまま、着替えてくるね。と言って部屋に続く階段を登った。部屋、と言ってもひとつの部屋を二段ベットと棚で区切っただけで丸見え、丸聞こえだ。

私の部屋には妹が食べたであろうお菓子のゴミが落ちていた。


私の家族はパパ、ママ、お姉ちゃん、妹、私で構成されていて、正直言って少しズレていると思う。

パパは機嫌が悪いと意味もなく不機嫌で、私たちを威圧してくる。極々たまにだけれど、最悪、殴られて、家を追い出される。でも機嫌が良い方が嫌だ。私の体をベタベタ触って手を擦り付けて気持ち悪く喋りかける。

まあ、滅多に帰ってこないからそんなに会う訳でも無いけれど。

ママは、お姉ちゃんが現実的じゃなくて、仮になれても収入が少ない職業になりたいって言うからそれを応援してる。

だからママが、私を現実的で稼げる職業につかせようとしているのをヒシヒシと感じていた。私がママの希望に沿わない行動をするとママは残念そうな態度をとった。

お姉ちゃんと妹は何を疎んでか、私に対してすれ違う時にぶつかる、とか私のものは準備しないとか、チマチマとした嫌がらせを繰り返した。

私の言葉を理解してくれる人なんかいなかった。

でも、みんな、

私に対して優しい時もあるから、

さほど大きくズレてはいないから、

誰にも相談できず、誰かを悪者にすることも、私にはできなかった。

食事だって作って貰えた。

でも、食卓にはいつも。私のご飯と箸は用意してもらえていなかった。配膳準備はお姉ちゃんと妹の当番なんだけれど。

私は勝手によそって勝手に食べて、お風呂に入って、寝る。これが私の日常だ。


私は小学生の頃、泣きながら訴えた。なぜ私だけは意見を聞いて貰えず、勝手に行きたくもない方向へ線路を引かれてしまうのか。なぜ私の言ったことは理解して貰えないのか。

ママは

『被害妄想も大概にしなさい。ちゃんと理解してあげてるし、ちゃんと育ててあげてるじゃないの!』

パパは

『お前には可愛げがないくだらないことに時間を使わせるな。』

お姉ちゃんと妹はつまらなさそうにこちらを見ていた。

唖然とした。

私がずっと耐えていると思っていたことは家族はなんとも思っていなくて、全部私が悪いことをしたで終わるんだ。

そんな事有り得るのかと泣きそうになった。でも泣けば私は家に入れて貰えなくなる。だから私は堪えた。口を食いしばって口角を上げて、涙袋を作って、

「そっか。わかった。」

この時、身体に大きくて暗い穴が空いた気がした。ずっと嫌悪感で吐きそうで、頭痛がした。私はその穴を誰かに見られてしまいそうで、それがなんだか恐くて、どんなに暑くてもマスクをして、肌が隠れる服を着た。


正直。さっさと死んでしまいたい。そう思ったことは数え切れない。でも、こうしてまだ生きている。

私は今日も僅かな希望を胸に抱いて、ただ時が過ぎるのを待つように眠る。


私は今日も学校に行く。セーターに汗を滴らせながら足を動かす。一歩一歩が沼にハマってるように重かった。

私の心は暑さの中でちぎれそうな程に叫んでる

『お願い、誰かこの穴に気が付いて、この穴を埋めて、私を抱きしめて』

一生理解されることはない言葉をわざわざ口に出す程私は馬鹿じゃない。言ったら家族に伝わり、なお一層家に居づらくなるだけだと分かっているから、バレないように、必死に隠すのだ。

隠すために私は知っている人のいない所で、人と関わることなく過ごそうと思っていた。

情けない自分を知られたくなかった。口をつぐめば隠し通せると思った。だから少し難しめのところを受験をしたいと言い出した。ママは喜んでいた。

新しい学校の、新しい教室の扉を開けると、そこには翔太がいた。私は恐かった。幼馴染で親同士の交流がある翔太は私の家族の歪さにも気が付いているかもしれない。そう思ったから。

そして翔太の家の歪さにも、私は薄々気がついていた。翔太は母親にも、二人いる姉たちにも溺愛されていたが、父親は授業参観や行事にも顔を出したことがなかった。そして母親はさりげなく翔太を思い通りに誘導していた。翔太の笑顔は私のと似た、お面を張り付けたような笑顔になっていった。


学校では、翔太は笑顔を張りつけ、薄っぺらい言葉をすらすらと並べていた。昔の、私の知っている、人見知りで、恥ずかしがり屋で、温かい翔太とは、別人に見えた。

私は、私の中の宣言通り誰とも関わらずにすごした。黙って窓の先を見て、グループワークも空気になって終わるのを待った。

そして毎日ひっそりと図書館から一緒に帰った。お互いの穴を隠し合うかのように。

翔太と一緒にいる時だけは。私はバレないように気を張ることも、機嫌を取るために笑顔を貼り付けることもしなくて良かった。

翔太もきっと同じ。綺麗な笑顔を張り付けることも、表面だけの薄っぺらい言葉を出すこともなかった。

かと言ってお互い何も聞くことは無かった。私たちの距離感は、触れそうで触れない、でも横にいて安心できるくらいを保っていた。


今日も食卓に私のものは用意されていなかった。勝手によそって勝手に食べた。食欲は、わかなかった。私の大好物だったはずのポトフは、もう、味がしなかった。



【第二章】

騒がしい教室の中で窓の外を眺めている一人の少女がいた。彼女の周りには誰も寄せつけまいとした、凛と澄んだ、そして重く暗い空気が漂っている。

彼女は俺の幼馴染の優香だ。

優香は、可哀想な子だった。

俺は優香の家と家族絡みの付き合いをしてきた。とは言っても優香の父親と会ったのは一度きりだが。

子供の俺にも分かってしまうほどに優香の家は、歪んでいた。

優香の母親は彼女が努力して積み上げたものを当然かのように言い、姉や妹は明らかに優香を嫌っていた。一度だけ会った父親は到底自分の娘に対するものでは無い冷たい眼差しと理解できない程に、遠回しで、嫌な言葉を浴びせていた。

優香の言葉は誰にも伝わっていなかった。

優香の心がズタズタにされていくのを俺はただ見ていた。

俺は寒気がした。彼女の親に、そしてそれを傍観した俺自身に。

優香は最初は悲しそうな顔をし、怒り、影で泣いていた。でも小学生くらいから、どれほど傷つけられても張り付けられた笑顔で笑うようになったと思う。

俺は優香に比べれば幸せなのだと思った。

俺の父さんは単身赴任中で俺や家族に無関心で、母さんはそんな父親が恋しく、寂しいのか末っ子の俺を完璧に仕立て、父さんの気を引こうとしていた。

でも優香の母親に比べれば褒めて貰えたし、付き合う友達は決められていったけど、そんな中でも仲の良い友人もできた。

俺は幸せなんだ。そう思わなければ母さんの所有物かのように、母さんの望みを叶える為だけに生きていると理解してしまいそうで、恐かった。俺は何も考えずにいたかった。

だから、俺は母さんの思い通りに動いて、求められる笑顔をバラ撒いて生きてきた。

小さい時から、母さんは俺のためではなくて、父親に捨てられた可哀想な自分のために俺に干渉してきた。気づいていたはずなのに俺は今まで知らんふりしてきた。

でも、もう、疲れたんだ。俺が母さんの思い通りに動けなければ母さんは隠れて泣く。それがわかっているから、ただ従うことしか出来ないんだ。母さんだって被害者だから。


俺と優香は、俺らは同じような黒い気持ちを笑顔の裏に隠して生きている。お互い何も触れないが、お互いそれを理解しているだろう。



【第三章】

私は今日も学校への長くて重い道のりを歩いている。

めまいで自分が真っ直ぐ歩けているのかも分からない。気持ち悪くて頭も痛くて、目の前がぐわんぐわんしている。

きっと、もう。限界だ。




体育の時、優香が倒れた。先生たちが集まっていて、とりあえず保健室で寝かせておくことになったようだ。

放課後様子を見に行くと優香の母親が迎えに来ていた。俺は優香の母親が保健室に入ったのを見ると、保健室の扉の前で立ち止まった。すると優香と優香の母親の会話が聞こえてきた。

「勉強出来るの?」

「私はあんたの世話なんかしてあげないわよ」

優香は倒れたって言うのに最初に心配するのは勉強のことなのか。何が原因で倒れてしまったのか聞きもしない。本当に嫌になる母親だ。

「大丈夫だよ。ちゃんと勉強できる。」

きっと優香は今も張り付けたような笑顔を浮かべている。そう思うだけで胸が痛んだ。


そうじゃないんだ。俺らが言って欲しいのはそんな言葉じゃない。



私が倒れてから三日後。私たちの学校は夏休みに入った。私は夏休みに入ってパパがいる家にはいたくないから、勉強と言って朝からあの図書館に来ている。

もう歩くのもきつかった。実際のところ勉強なんてほとんど頭に入らなかった。持たされた朝ごはんと昼ごはんは吐き気がして食べれる気がしないから後で捨ててしまおう。

夏休みに入ってからはここに来るなんて何も言ってないし、あいつはいないかもしれない。でも、どうしようもなく会いたかった。

まさかね、なんて思って窓のカウンター席に座って勉強道具を広げ始めると、

「優香、?」

後ろから安心できる声が降りかかった。

なんだか涙が出そうだった。


それから夏休みも、私たちは一緒に帰った。


私は私の体がなにかに縛りつけられていっているような、蝕まれていっているような感じがしていた。



家に帰るとパパが出てきた。おかえり。そういうなり急に抱きしめ背中のブラのホックの辺りを右手で擦ってきた。左手は腰を。

ああ最悪だ。今日は機嫌がいいのか。機嫌が悪くなるのも嫌だからこのままにしておくか。

吐き気を抑え、笑顔で、

「今日の夕飯何ー?お腹空いたー」

「着替えてこなくっちゃ」

そう言って階段を駆け上がった。


今日は夕飯がよそってあった。流石にパパの前ではお姉ちゃんと妹も私のだけ用意しない訳にはいかないらしい。


夕飯を食べてると、急にママが

「ねえ、優ちゃん、成績はどうなの?」

なんて言い出した。

「中間試験もまだだよ。ミニテストは前回見せた通り。」

いつもの笑顔で私は言った。

「優ちゃんは稼げる仕事に就くんだものね。勉強はできなきゃ。優ちゃんは勉強しなくてもできちゃうものね。高校生になったら理系に進むでしょ?」

私はそんなこと言って無い。勉強だって何時間も勉強して、頑張ってきた。勉強しなきゃ怒るのに、しても認めては貰えないのか。

相変わらず。

「うん。そうだね。」

「じゃあやっぱり成績が良くなきゃいけないじゃない。どうなの。」

またその話に戻るのか。さっきも言ったとは言えないからな、どう答えたら機嫌損ねないかな、

「おい無視してんじゃねえよ。」

パパが口を挟んでくるか、

「ごめんごめん。無視した訳じゃなくて、さっきも言った通り、中間試験もまだだし、前回以来ミニテストもないから成績どう答えようかと思って。」

「だったらそう言うべきだろ?なんで無視するんだよ。」

「はーい。ごめんなさい。」

へらへらと笑って答えた。

それからは黙々と味のしない塊を飲み込むように食べた。

「そういえばね、デザートあるのよ。お姉ちゃんか作ってくれたケーキが。」

ママの機嫌は戻ったみたいだ。

「おー。それは楽しみだ。」

「まじよくできたから楽しみにしててー。」

私も何か言っておくか。

「へー。楽しみだなー。私お姉ちゃんの作るケーキ大好き。」

「あんたも食べんの。あんたのこと人数に数え忘れてたからないや。」

そうだよね。そんなことかと思った。

「あらそうなの?じゃあ優ちゃんはバナナでも食べてて。」

「いや、お腹いっぱいだからいいや。ご馳走様ー。」

ママとの会話を終え逃げるように二階に行こうとすると、

「優香、風呂沸かしてさっさと入っちゃって。」

お姉ちゃんに言われてしまったから、私は返事をする。

「はーい。」

今日はよもぎ風呂なんだな。私は言われた通りさっさと入ってお姉ちゃんと交代した。

しばらくすると

「優香!」

二階にいた私が呼び出される。行きたくないなと思いながら階段を降りた。

「これなによ!お風呂の縁にこんなの置いて汚いじゃない!さっさと捨てなさいよ!」

なんのことか分からずお風呂の縁を見ると、よもぎの葉っぱだった。

お姉ちゃんが嫌がりそうな細かい葉っぱを取っておいたのを捨て忘れてしまったのだ。

「今捨てるね。」

「気持ち悪いのよ!」

よもぎを取ろうとするとドアが開いた。

「なんだうるさいな」

お姉ちゃんが怒鳴るからパパが来てしまったのか。

「こいつがお風呂の縁にゴミを置きっぱなしにしたの!」

どうせ反論しても伝わらない。私の言葉はなかったことにされる。

「お前後から入る人の気持ち考えろよ。さっさと謝れ。」

さっさと謝ってしまった方が楽だと私は知っている。

昔だったら怒ってただろうな。

でももう私は抜け殻になってしまったんだ。


一回きりなら些細な出来事。でも毎日話が通じないと、声が出ないような、一人で話しているような気分になる。相手は目の前にいて、本当は聞こえているし、理解できるはずだと知っているから、辛い。

しかも笑顔で、少しでも機嫌を損ねないように常に気をつけなければいけない。

家族なのに。

幸せな家庭を見る度に胃袋がねじ切れそうになる。

埃も積もれば山になる。

本当に。大きい山に。


もう、疲れたな。



【第四章】

いつもの図書館の帰り。優香が突然口を開いた。

「ねえ、今度の土曜日、海、行かない?私たちのことを誰も知らないような田舎を通って。」

「…いいね。名案だ。」

「連絡もせずに居なくなったら、思い通りに動かなかった私たちを責めるかな。」

珍しく、そんな分かりきったことを優香が口に出した。

でも、その気持ちが俺には分かってしまった。

俺らは小学生の頃、いやもっと前から本音を笑顔の裏に貼り付けて、見えないように必死に隠してきた。

もう、疲れたんだ。

ふらっとどこかへ消えてしまいたい、なんて何度願ったことだろう。

俺らの場合は小さな軋みが侵食して身体を蝕んだ。だからこういう願いや行動には何の前触れなんか、無いんだ。




約束の土曜日。本当は土曜授業があった。

でも、私たちはなんの音沙汰もなく、消える。

電車に揺られ、かなり田舎まで来た。私たちが住んでいたのはそこそこの都会だったから、海に近づくにつれて田んぼや森が広がっていくのはなんとも心地よかった。

翔太は私の隣で電車の窓によりかかって寝ている。その綺麗な横顔を見つめながら、抜け殻になってしまった私たちは、何がいけなかったんだろう。何でこんなつらい思いをしなければいけないんだろう。なんで、耐えてこなければいけなかったんだろう。

そう思った。


俺は優香に揺らされて、起こされた。ここが観光地化されていない田舎の海に一番近い駅なのだ。ここから海に向かっても線路は引かれていたが、人がほとんど住まなくなったから電車が通らなくなったらしい。俺らはこの駅から歩いて海に行くことにした。

支払いをしたあと、優香は線路に飛び降りた。線路の合間から雑草が伸び、周りを見渡せば田んぼや森しか見えない。

「私、田舎の線路の上、歩いてみたかったんだよねー。」

そんな呑気な会話に笑えてきて、久しぶりに素で笑った。俺も線路に飛び降りた。そしてニヤッと笑って見せた。昔の俺らに戻った心地だった。


『赤くなってきた空を仰ぎながら雑草の伸びる線路の上をひたすら歩いた。』


空が暗くなってきた頃、私たちはやっと海に辿り着いた。

「さて、着いたけど、何しようか。」

しばらく海の堤防の上で座って話した。

私たちは本当に抜け殻になってしまったんだなと思った。


「ねえ、綺麗な貝探さない?」

私は提案した。

「いいね。昔、俺が海に行った時のお土産に貝、渡したことあったよね。」

懐かしいなーと言いながら翔太はよいしょと立ち上がり、貝を探しに行った。



「あった。」

私はそれを私のバッグの中に入れた。

そして、家から持ってきたノートがあるのを確認して、手紙を書いた。




優香と二人で綺麗な貝殻を見せあっていると、後ろから車が来る音が聞こえてきた。

俺らは顔を見合せた。

そして虚ろな目で振り返り、これからどうなるのか、考えることも諦めた。

すると、優香が俺にバックを押し付けるように渡した。

「これ、次会う時まで持ってて。中見ていいよ。」

俺は次会えるまでのお守り的な、ジンクス的なものなのかと思って、受け取った。


パトカーとはまた違う車から降りてきたのは俺の母さんだった。

「翔ちゃん!なんで私に何も言わずに出掛けるの!」

母さんは怒り狂っているのか、泣き叫んでいるのかわからなかった。

「まあ!優香ちゃんじゃないの!」

俺は血の気が引いた気がした。

「あなたが翔ちゃんをこんな教育の悪いことに付き合わせたのね!」

やっぱり。母さんは、母さんが作りあげた俺を疑うより先に優香を疑うだろうと薄々思っていた。

「母さん、優香は関係ない。俺が誘った。」

俺は母さんに駆け寄った。

「嘘よ!翔ちゃんはそんな子じゃないことは私が一番よく知ってるわ。」

今にも泣きそうな顔をして母さんは俺を抱きしめると、急に横をすり抜け、優香の方に歩いていった。

俺は母さんを追いかけた。優香に何かするかもしれない。俺は自分の母親なはずなのに何をするか分からない怖さがあった。

母さんは早歩きで優香に近づくとパシンと頬を叩いた。

「母さん!」

「ほら、翔ちゃん帰るわよ。」

母さんが俺の腕を掴んで後ろに引っ張る。

どうせいつも自習して帰りは八時過ぎなのに九時を過ぎたくらいでこんな警察沙汰にして、優香を叩いて、

俺の母親はこんな人だったのか。分かっていたけれど、あまりにも酷い。


優香、ごめん。

優香はしゃがみこんでしまっていた。

俺は母さんに引きずられながら優香のほうを振り返った。

優香は立ち上がろうとした。その時、ふらっと倒れ込むように海に落ちた。


俺は母さんの腕を振りほどいて、走って、急いで海に飛び込んだ。後ろから警察の人も飛び込んでくるのが見える。優香はもうかなり遠く流されていた。

俺は必死の思いで肺がちぎれる程に泳いで優香の服を掴んだ。




事件から三日経って優香は目が覚めた。俺は警察の人に俺の家庭と、優香の家庭について優香が海に落ちた日に話していた。

警察の人も少しおかしいと思っていたらしく、思ったよりすんなりと話を聞いてくれた。

その結果俺は親と離れて暮らすことになった。今は児童保護の施設にいる。

優香は目が覚めた時の家族との様子を見て決めるということになった。




──ふらっと落ちる感覚。私の目にはこちらに向かって走ってくる翔太が映った。


立ち上がる時にめまいと頭痛が襲って上手く立てなかっただけだけれど、このまま海に流されてしまうのもいいかもしれない。

大嫌いなこの世界と大好きな君を瞳に映して





落ちたところから記憶はないが、翔太が泣きそうになりながら私を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

どうやら私は目が覚めてしまったらしい。私の周りには泣き狂っているママと、期限の悪そうなパパと、つまらなそうな顔をしているお姉ちゃんと妹がいた。

「翔太くんのお母さんに叩かれて海に落ちたんでしょう。」

違う。私の言葉を聞いて。

「ママ、違う。私、体調が悪くて、ふらついちゃっただけなの。」

「翔太くんのお母さんとはもう関わらないようにしようね。ごめんね。ママがあんな子の親と関わったから。」

「あんな子?」

「翔太くんが優ちゃんを海なんかに連れていったんでしょう?優ちゃんは勉強しに行ったのに」

「違う。私が誘ったんだよ。」

「翔太くんのお母さんに言われたのね。そんなこと気にしなくていいのよ。優ちゃんは勉強をしに行ったの。いい子なの。」

「ママ、聞いて!違うの!私が誘って海に行って!私は体調が悪くて!落ちたの!」

私は久しぶりに泣いた。もうなんかどうでも良くて、嫌になってきて、涙が止まらなくなった。

すると、警察の人たちが入ってきた。

「お母様方、少しよろしいですか」

そう言ってママとパパは連れていかれてしまった。お姉ちゃんと妹も外に出された。

警察の人が近づいてくる。

「私は児童相談所の職員だよ。今まで辛かったね。こんなに心も身体も壊れてしまうほど耐えてきたんだね。まともに動くこともままならなかったでしょうに。

翔太くんから事情は聞いたよ。翔太くんは家族と離れて過ごすことになったから。」

話を聞いていると、警察だと思っていた人たちは全員家族内トラブルを専門にしている人たちだったことがわかった。

「優香ちゃんはどうしたい?家族と暮らしたいかな。」

「私は、もう、嫌です。」

「そっか。じゃあ家族とは別で暮らす方針で話を進めるね。」

こんなにすんなりと終わるものなのか。

なんだか拍子抜けした。

でもやっと言えた。やっと、

涙はもうでていなくて、家族の機嫌取りのために笑う必要もなくなったんだと思うと本当に抜け殻になってしまった気がした。





【第五章】

私は専門家を介した相談の末、結局親からお金を貰って一人暮らしを始め、一年間休学して、今年の夏からまた学校に通う事になった。

一年の間、翔太には会えなかった。お互い次々に変わる環境に忙しくしていた。翔太は児童保護のような施設にいて、今年からは私の住むマンションの近くで一人暮らしを始めたそうだ。

私は目覚ましをセットして明日に備えて早く寝た。




事件の後、次々変わる環境の中、一人暮らしが始まり、引越しも終わり初めて息を着いた時、そういえば優香のバックには何が入っていたのだろうと思い、開けてみると、そこにはノートとペンが入っていた。なんのために渡したのか分からず、ノートを開けてみると、手紙と貝が挟まっていた。

『翔太へ

桜貝を見つけた。幸せを呼ぶって聞いたことあるんだ。

だからこの桜貝を翔太にあげる。』

普通に渡せばよかったのに、なんて思ったけど、不器用な優香は、もう身体がボロボロなのにも気が付いていてそれでも最後まで、消えるその瞬間まで耐えようとしていたんだろう。死ぬ前にこれを俺に残していくつもりだったんだろう。

バカだよ。優香。だったら俺と一緒に逃げてよ。こんなくだらない毎日から一緒に逃げようって言ってよ。





朝は涼しく、清々しかった。学校に行く足もしっかりと地面をつき、軽かった。蝉が鳴き、汗が肩と腕に滴り落ちた。私はセーターもマスクもしていなかった。

そして、同じクラスにはまた、今日から登校している翔太の姿も見えた。

私は教室に足を踏み入れた。



放課後、私はいつもの図書館に行った。今日は勉強とかこつけて家から逃げるためでは無い。翔太と、一緒に帰ろうという話になったからだ。重苦しいだけだった図書館も夕陽が入り、少しの風がすり抜けて、とても気持ちがいい。

「優香、お待たせ。何してたの?」

「なんか、こんないい場所だったっけって」

「確かに。気持ちが変わるとこんなに変わって見えるんだね。

優香のくれた桜貝、効果的面だったね。

今日まで預かってたもの、返すね。」

私は死ぬまで耐えるしか道がないんだと思いこんでいたあの時に渡した、最後だと思っていた贈り物の桜貝。翔太には生きて欲しいと本気で願ったあの夜の桜貝。

「それまだ持ってたんだ。」

「一人暮らしの整理が終わってから初めて開いた。」

バッグを受け取りながら、久しぶりに声を出して、張り付けない笑顔で、笑った。


そしてまた、同じ帰り道を二人並んで帰った。



今度は手を繋いで。寄り添って。




私は、私たちは『抜け殻』の空蝉を抜け出して、『今を生きる』空蝉になる。

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