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大地に犇めく無数の丘のかつては個々に戴いていた尊き名を、敬意を失った人々が千古の昔に置き去ってしまった時代のこと。貴き者たちの長が長となってから二十六度目の冬を迎えていた。
古には楔という名で呼ばれていた丘を囲むように一つの国があった。沢山の貴き者たちが丘の周囲を領し、貴き者たちの長は丘の上に居た。
長の丘の東には東方領主の住まう都があり、領主の屋敷の広い庭には主の愛する魔法の庭があった。より良い人生を望む者なら決して寄り付かないその庭には真冬を過ぎてなお真夏の南国の如き濃緑の木々と煌びやかな花々が咲き乱れていた。灰色の空の下にあって激しい陽光を求めるように椰子が伸び、濡れた土を覆うように羊歯が繁茂している。
庭には二人の男。一人はまさに幾多の戦功を長にもたらし、東方領主に任じられた誉れ高き暁の槍。額の深い傷は戦の激しさを物語り、上着には勲を示す賞牌が煌めいている。
もう一人は遥かに若い男で、照り輝くような卸したての革の外套を身に纏い、他所の土地の小ぶりな帽子をかぶる貴紳、名を南風といった。
男たちは熱心に話し込んでいるが、その声は庭の片隅、屋敷の陰から庭を覗く妙齢の娘、椿の耳までは届かない。どのような会話をしているのか、ミジアンには想像する他ないが、東方領主である父は深く酔って昔の戦を語る時のように喜んでおり、貴紳は木々の一つ一つを指し示し、熱意をもって大袈裟な手ぶりで何事かを説明している。
ミジアンはじっとソドローの楽しそうな顔を見た後、再び屋敷の陰へと引っ込み、高鳴る胸を抑え、熱を持った頬を冷ますために息を整える。そして地面に置いていた、春に咲くべき紅菫の苗を拾い上げた。
そうして再び二人の様子を見ようと陰から顔を出した時、目の前には南風がいた。
ミジアンは悲鳴も出さずに飛び上がって尻もちをつく。
ソドローは快活に笑い、「失敬」と言って咳払いする。「時季を間違えた春の妖精かと思いきや、お嬢様でしたか。一体……おや? これは」
貴紳ソドローはミジアン嬢に手を貸し、土の散らばった紅菫の苗を拾い上げる。
見様見真似でソドロー様の魔術を試しました。というような言葉をミジアンは震え声で囁いたが、すぐ近くのソドローにさえ聞こえなかった。とはいえソドローも慣れたものでミジアンの為したこと、言おうとして言って自分には聞こえなかったことを察した。
ソドローは苗をあらゆる角度からミジアンの成果を観察しながら話す。「これを独学で? この季節にこの咲きぶり、しっかり根も張っていて、無理な育成にありがちな瘤跡もない。実に素晴らしい! これは春から保たせたのですか?」
いえ、種から。と地面に向かって囁いてミジアンは凍えて震えるようにかすかに首を横に振る。
「つまり、種から育てたのですね?」ミジアンが首を縦に振るのを確認して、ソドローは子供のような笑みを浮かべて、自分のことのように嬉しげに語る。「お嬢様がこれほど魔術にお詳しい方とは存じ上げませんでした。いやはや、もちろん花を愛する心優しい方とは存じておりました。私も何度か話し込んでしまいましたね。それにしても、領主さまの仰りようとはまるで……ああ、いえ、すみません。閣下もご息女のことを深く愛しておられるがゆえ、心配されてのことでしょうが」
ミジアンは父の評などまるで気にしていなかった。ただソドローの称賛の言葉が心の奥に刻み込まれ、鋳り型に流し込まれたばかりの青銅の鐘のように熱を放ち、いつか鳴り響く予感を秘めていた。
「このことはきっと閣下に御自慢されるんでしょうね?」純粋な笑みを浮かべてソドローはミジアンの言葉が聞こえるか、その代わりとなる身振りを待つが、主の娘は沈黙するばかりだった。「いえ、もちろん私の方からお話したいところですが――」
「ソドロー様!」と声を張って言ったのはミジアン付きの召使い友人だった。裏庭の方からやってきて責め立てるように言う。「ご主人様がお呼びですよ! それと以前にも、ご主人様ご自身からはお聞きになっておられないかもしれませんが、私の方から言伝てたように――」
「ええ、もちろん。忘れてなどいませんよ。では私はこれで」と言って、ソドローは威嚇する猛獣を宥めるような仕草をしながら屋敷の玄関の方へ歩き去った。
「お嬢様。あの男にご興味を持つのはおやめください」と召使いの女性ローワは言う。「確かに見た目は、それに立ち居振る舞い、それと言葉遣いは、紳士のようですが、魔法を使うのです。それすなわち魔法使い。妖しい幻惑で人を楽しませる仕事など、仕事とは言えません。お嬢様には相応しい方が……」
ローワの言葉を振り切ってミジアンは裏庭の方へ逃げるように立ち去る。
最も深い冬の最も深い夜のことだ。裏庭側の二階の端にある寝室で、ミジアンは寒気を覚え、寝台から這い出てくる。暖炉は燻り、白い煙が煙突を這い上っているが、部屋がこれほど冷えるにはまだ早いように思えた。
ふと目をやった窓際には苦労して魔法で育てた紅菫が小さな鉢で花を咲かせていた。その花が妙な光を放っているように見えたが、実際に光っているのは窓の外のようだった。あまり開くことのない古びた木板の窓蓋の隙間から光が漏れている。
ミジアンは窓に寄りかかり、その隙間から裏庭を覗くが、特に何も見えない。しかし何者かの話す声が聞こえた。
「直接父親に貼れば良いのではないか? こういう貴い身分の令嬢は自分で結婚相手など決められないと聞いたぞ。いや、あの男の態度を見ただろう。いきなり豹変して意見を反対にすれば怪しまれる。たとえば娘に懇願されるのでもない限りな。その後、父親の方に貼っても遅くはないさ。何。それほど難しくない。どころか第一段階はほとんど達成しているも同然だ。そうなのか? そうさ。あの熱い眼差しを見て気づかなかったか? 気づかなかったな。……まあ、いい」
自分と父の話をしていることにミジアンはすぐに気づいた。それも良からぬことなのは間違いない。何とか窓の隙間から、その不届き者の姿が見えはしないかと身を捩って様々に確度を変える。
しかしこの夜までミジアンに多くの幸いをもらたした幸運は、その時に限ってその場におらず、冬の冴え冴えしく輝く星々の元に赴いていた。
ミジアンの意に反して窓蓋を押し開いてしまう。そして裏庭に潜む不届き者と目が合った。
裏庭を見下ろすミジアンの鳶色の瞳と、二階の寝室を見上げる黒い複眼。
それは花を愛するミジアンのよく知る生き物だ。蜂頭の男。革鎧を身に纏った戦士の如き姿で、鬣の代わりに無数の蛇が生えた奇妙な馬に跨っている。同時に裏庭を演出する南国の木々が煙のように揺らめいた。
そうと認識した時には、生まれて二度目の、生まれたその時から数えて二十年ぶりに悲鳴を上げて、気を失った。
ミジアンが目を覚ますとそこは自室の寝台の中だった。不安げな表情で召使いローワが覗き込んでいた。ミジアンが目を開いたのを確認して誰かを呼びに飛んで行った。
ミジアンは上体を起こし、見慣れた部屋を見渡す。他には誰もいない。暖炉は猛り、暖かい。寝台から出ようとした時、ローワがミジアンもよく知る医者を連れて戻って来た。ローワの慌てぶりに反して医者は冷静に手短に診察をし、問題見当たらずという判断を下すと共に夢遊病の可能性を示唆するにとどめた。
ただしローワは父からの言伝、「大事を取るように」を携えており、ミジアンが部屋から出ることを許可しなかった。
「待ってください、ローワ」と言ってミジアンは呼び止める。「お腹が空きました。何か用意してくださる? ……どうかして?」
振り返ったローワは不思議なものを見る目でミジアンを見つめている。
「いえ、今朝は、お嬢様の声が良く聞こえるので」と言うローワはやはり頭を打ったのではないかと疑っているようだった。
「ああ、そうですね。そうかしら。でも、それは良いことではありませんか?」
「そう、ですね。その通りです」ローワは何度も頷く。まるで自分のことのように嬉しそうだ。「ああ、お食事ですね。すぐにお持ちします。寝ていなくてはいけませんよ」
ローワが去り、ミジアン以外誰もいなくなり、ミジアンは、ミジアンの魂は叫んでいた。
一体どうしたというのですか!? 私の体はなぜ私の言うことを聞かないのですか!? 誰か!? 私が私でなくなっています! 誰か! 助けて!
ミジアンは寝台に寝転がっているので毛布の柔らかさを感じた。暖炉の火は眩かった。温もりを感じた。爆ぜるのが聞こえた。炭の匂いを嗅いだ。しかし自分の思うままに自分の体を動かすことができなかった。いまや魂は肉体の牢獄に閉じ込められた虜囚だった。
朝、目が覚めると大きく伸びをした。そして窓際の紅菫の世話する。母と共に召使いに指示を出し、朝食の時は兄弟姉妹と歓談した。自身の仕事以外にも時には父母の仕事を手伝い、あるいは父母の代わりに仕事をした。
時間ができれば誰に憚ることなく、むしろ誰かの目がある時にばかり、ソドローの元へ赴く。そしてミジアンの魂にはまだ難し過ぎる魔術的な庭仕事をなぜか手伝うことができた。仕事の間と仕事の合間に、様々な魔術と植物の話をし、ソドローの見てきたもの、ミジアンの触れてきたもの、二人の愛したものの話をした。その瞳は魂を射抜かんばかりで、その唇から零れ落ちる言葉は情熱に燃えている。
ミジアンの知らない多くの知識と、ソドローの様々な表情をミジアンの魂は心の奥底に仕舞いこんだ。
初めは遠回しに諫めていた母も口を出さなくなり、娘には何も言わなかった父が庭のこと以外でソドローとよく話すようになった。
ミジアンにとって、それはまるで別の人生だった。古びた本の見飽きた物語から、丘の上に栄えた都の劇場で催される舞台劇に様変わりしたかのようだった。あり得たかもしれないが、ミジアンが主役である限りあり得ない、そんな人生が始まっていた。そして、しかし、それは、やはりミジアンが主役の物語ではなく、観客席から観賞する他ない喜劇であり、とりもなおさず悲劇だった。
ミジアンの態度の変容は誰もが驚き、疑い、しかし喜び、受け入れた。裏返したようにミジアンの魂は疎外され、肉体の奥底で涙を零す日々だった。
「ご主人様も、奥方様も、ご兄弟様方も誰も何も仰いませんが……」とローワが言って、区切った。
ある日、二人で春の始まりの祭日に相応しい花々の刺繍を衣装に施していた時のことだ。
ローワは続きの言葉を躊躇い、手を止めた自分の刺繍とミジアンの伏せた顔、そしてその手元にあるいつもより下手な刺繍へ視線を何度も行き来させた。
ミジアンもミジアンの魂もただ続きの言葉を待つ。
意を決したようにローワは口を開く。「やはりあの男、ソドローはやめた方がよろしいかと存じます」
「お言葉ですね」とミジアンは刺繍に目を落としたまま呟く。
「ええ、ですが、これは私もまたお嬢様を想ってのことです」
「魔法使いだから、でしたかしら? それと出の知れぬ流れ者だから?」
「それもそうですが、それだけではありません。お気づきですか? お嬢様が変わられて、それはもちろんご立派なことですが」
ミジアンの魂は傷ついた。
「あの男もまた変わりました」とローワは言う。「その立ち居振る舞いから品が失われているのです」
それにはミジアンも気づいていた。耳を傾けざるをえなかった柔かな言葉遣いが粗野になり、いつも見せてくれた輝くような笑顔が時々弛んでいるように見えた。
「それは気づきませんでしたね」とミジアンは呟く。「恋は眼を曇らせるものですが」
ミジアンはむず痒くなって、目を閉じ、耳を塞ぎたくなったが叶わず、淡々と刺繍を施し続ける。
「ほとんど誰も気づいてないようですが私の目は誤魔化せませんよ。困ったもので、召使いの中にも熱を上げ……あ、いえ、すみません。そのようなことはありませんが。お嬢様、本当にあのような男と、ゆくゆくはご結婚なさるおつもりなのですか?」
まだ彼の気持ちを確かめてもいないのに。ミジアンの魂は呟く。
ミジアンの手が止まり、鮮やかながら不器用な春番紅花をただ見つめる。
「まあ、確かにお嬢様が熱を上げられた時と同様に、相変わらず見目麗しく、なりは立派と言えますが」ローワの言葉は止まらない。
そのようなことではありません。魂が呟く。
「とはいえあの優面に惑わされてはなりませんよ」
ソドロー様の良いところは外面ばかりではありません!
私のように陰気な者にも分け隔てなく快活に接してくださるんです!
その立場をわきまえながら決して物怖じしない方なんです!
ちょっと大袈裟なところはありますが、自信と隣人愛と植物愛に満ち溢れた方なんです!
魂は叫んだ。
だからといって何が変わるというわけでもなかった。
ふとミジアンの魂が気が付くと、ミジアンの体は屋敷の廊下を一人忍び歩いていた。真っ暗で星明りばかりが心許なく行く手を照らしている。
最後の記憶は、ミジアンの体が勝手に寝台に入り、ミジアンの瞼が勝手に閉じた時だ。
相変わらず、眼球一つ、指先一つ動かせない。しかし、ミジアンには何となく行く先が分かった。何度か一人想像し、魂だけで赴いたことはあるが、しかし自分の体が思い通りだった時には近づきもしなかった場所だ。
他の召使いと違って、ソドローの寝床は裏庭側に建てつけられた元は倉庫だった部屋だ。今でも大半は倉庫として機能している。ミジアンの足はそちらへ向かっているのだと、ミジアンの魂は確信し、そしてその通りにことは進んだ。
一体何をするつもりなのだ、とミジアンの魂は何百度目かの抵抗を試みるが、今度もまた失敗に終わった。そしてただただ成り行きを見守るしかなかった。
一度裏口から屋敷を出て、真冬の冷気の残る裏庭を凍えながら壁伝いに進み、ソドローの寝床へとやってくる。扉は閉まっているが、鍵などかかっていない。
ミジアンはそっと扉を開き、そっと扉を閉じた。中は屋敷よりは明るいがずっと寒い。手探りで壁の辺りに何かを探している。その冷たい物体の感触にはミジアンも慣れていた。剪定鋏だ。
その時、奥から物音が聞こえた。慌ただしく、切羽詰まったような。そして蝋燭の明かりが現れた。
ソドローが物陰に隠れていた燭台を掲げたのだった。ミジアンとソドローの目が合い、ソドローはほっと溜息をついた。
「ああ、お嬢様でしたか。一体こんな夜中にどうしたのですか?」
ミジアンは何も答えない。明るく答えることもなく、暗く呟くこともなく、鋏を背後に隠した。
「お嬢様? ……僭越ながら夢遊病の気があるという話は聞いていましたが。私の声が聞こえますか?」
ミジアンはゆっくりとソドローの方へ近づいていく。ソドローは訝し気に数歩下がる。
やめてください! 魂は叫ぶがその声は誰にも聞こえない。
「おい。何のつもりだ? 何とか言ったらどうなんだ」
聞き覚えのないソドローの口調を耳にし、ミジアンは悲痛な気持ちでいっぱいになる。自分でもどうすればいいか分からないのだ、と訴えることすらできない。鋏を固く握りしめるのを感じる。
ソドローが火に怯える亡霊を追い払おうとするように燭台をミジアンの方へ差し向ける。
ミジアンは足を止め、代わりに鋏を大きく振るう。燭台が弾き飛ばされ、蝋燭の火がソドローの寝台に移った。もう一度振るい、その凶器はミジアンの愛する人の心臓を目掛けていたが、すんでのところで突き刺さることはなく、身を翻したソドローは小屋の外へ飛び出す。
するとミジアンはソドローを追い、追いながらミジアンも知らない遥か西方の鎖された土地の言葉を唱える。それは木霊に囁きかけるための言葉であり、契約を結ぶための詩でもあった。ミジアンは三度鋏を開閉し、湧き水を重んじる国の兵士が戦に赴く際に勝利の女神に捧げる祈りの言葉を呟いた。
小屋の外では木々が、まるで蛇のようにうねっている。鎌首をもたげ、獲物を探すように枝を巡らせている。ミジアンは悲鳴をあげたかった。
ミジアンの体は躍る木々の間を通り、ソドローの姿を探す。ソドローは今まさに裏口から屋敷の中へ逃げ込むところだった。
ミジアンも後を追う。
「どういう魂胆か知らないが、お前の手の内は知ってるんだよ!」とソドローは逃げながら叫ぶ。
ミジアンはあれ以上呪文を唱えず、ただただソドローを追いかけるだけだった。しかしソドローの方が足が速く、中々追いつくことはできない。ソドローは逃げながら叫び、怒鳴り、そのために屋敷は目覚めつつある。召使いたちは寝床から這い出てきて、屋敷のどこかから弟か妹の泣き声が聞こえてきた。次第にソドローの寝床の倉庫が火事になっていることに人々は気づき始め、消火活動が始まった。
ミジアンとソドローは誰にも目をくれず屋敷で追走劇を演じる。樹木の蛇の魔術を警戒してかソドローは屋敷の外へは逃げ出さず、かといってミジアンは追いつくことができないでいた。
その内に火事は鎮まり、騒動は終わり、にもかかわらずいまだ屋敷の中を走り回っている二人の人物に誰もが気付く。何をしているのか問われるが、どちらも息せき切っていて答えられない。
とうとうソドローが力尽き、飛び込んだ部屋は広間だった。この屋敷に住む者全員が集うことのできる唯一の部屋で、今まさに人々が集まって無事を確認しあっていた。そこへ庭師兼魔術師の男ソドローと剪定鋏を振りかざした東方領主令嬢ミジアンが飛び込んできたのだった。
全ての視線が二人に集中し、特に追っているミジアン、さらにはその手の鋏へと集まる。
しかしミジアンの意に反し、ミジアンの体はソドローの元へ進む。
人殺しなど以ての外だが、これだけの人の前で東方領主の娘によって惨劇が起きれば、ことはミジアンを裁くだけでは終わらないだろう。
魂は泣き叫び、慈悲を乞う。しかし悪しき夢か幻に囚われたミジアンの肉体はようやく力仕事を終えた時のように首を揉み、鋭利な鋏を携えたままソドローの方へと突進した。
ミジアンの魂は全てを拒むように気を失った。
「初めは痴話喧嘩だと思いましたよ」とローワが言った。「お嬢様のあんな恐ろしい顔、このローワ、幼い頃からずっとお嬢様のそばにおりましたが、初めて見ました」
もうよして。そうミジアンは言ったが、ローワはよさなかった。
ミジアンは目を覚まし、全ての悪夢が現実に起こったことだと説明され、しかしその事情は想像とは違っていた。
寝台に横たわるミジアンのそばでローワは椅子に座り、話し続ける。
「祭日の為の刺繍をしていた日、召使いの中にも熱を上げるものが……、などと余計なお話をしてしまいましたが、その時のお嬢様の顔も珍しいものでした。てっきりお嬢様が嫉妬に狂われてしまったのかと。それにしてもまさかあの庭師が盗人とはね。なんだか凄い魔術師だなんだと謳っておられましたけど、それならけちな泥棒なんてするわけがありませんよ。それにしてもお嬢様もお嬢様です。助けを呼べばよろしいのに自分で止めようだなんて。まあ、お嬢様の気持ちを思えば、落胆なんて生ぬるい言葉では済まなかったのでしょうけれど」
もうよして。もう一度ミジアンは言ったが、ローワはよさなかった。
全てはソドローの自白によって説明され、騒動の幕引きとなった。
「ご主人様も慈悲深い、いえ、言わせてもらえば甘いですね。事を起こす前で何も盗まれていないからと罪に問わず、荷物をまとめる時間さえくださるなんて。そろそろでしょうか」
ローワが立ち上がり、窓蓋を押し開いた。あの怪物の姿を見て以来、一度もそこから裏庭を眺めてはいない。
「ほうら、噂をすれば」
ミジアンも立ち上がり、あの夜の恐怖の残り香の漂う窓のそばへ行き、おそるおそる覗き込む。まさに火を逃れた荷物をまとめたソドローが屋敷を立ち去ろうと裏庭を突っ切っていくところだった。
しかし庭の真ん中でソドローが立ち止まり、ミジアンは思わず顔を引っ込める。
ローワは窓の外を眺めながら呟く。「駄目ですよ。いくら恋仲だったからって最後に言葉を交わそうなんて考えては」
ミジアンは再び顔を出す。ミジアンほどではないが、ソドローも変わってしまったことは良く知っていた。もはやあの頃の気持ちは燠火になっている。
ソドローはソドローが手をかけた庭を最後に目を焼きつけようと見ていた。その目は、その表情はあの頃の目だった。
ミジアンは弾かれるように部屋を飛び出し、廊下を駆け抜け、階段を駆け下り、裏庭へ躍り出る。
ソドローがミジアンを出迎え、胸に手を当て、深々と頭を下げた。「お嬢様。申し訳ございません。ずいぶんと怖い思いをさせてしまいました。しかしもうあのような日々が戻ってくることはありません。どうか健やかに」
それに対してミジアンは答えず、ソドローも答えを待たず、背を向ける。裏庭を抜けて、裏門へ。
怖い思いをさせたのは自分のはずだ。ミジアンはそう考える。もしも自分に怖い思いをさせた者がいるとするならば。
貴方は誰なのですか!? ミジアンの魂がそう叫び、同時にミジアンの喉が叫んだ。「貴方は誰なのですか!?」
ソドローは一度足を止め、しかし振り返ることなく何事かを呟き、脇戸の方へ歩みを進めた。
しかしその肩をミジアンがつかむ。
「聞こえません!」
「刈る者」
背を向けたままそう言い残し、扉から出て行こうとするセーグスカーの首筋から、ミジアンは楕円形の札を剥がす。中央には剪定鋏を握った蜂の戯画が描かれている。
「これはなんですか? 私の首筋にも貼っていましたよね? そして私の体を動かす何者かは再び貴方に貼った」
すると男は悲鳴を上げて、這いずるように門から飛び出し、逃げて行った。
「え? ええ。ちょっと! セーグスカー!? 待ってください!」逃げていく男の背中からミジアンは紙札の方に目を落とす。「あの変わりよう。別人としか思えません。つまり、これが」
ミジアンは自分の手に札を貼りつけた。
すると自分の魂のそばにもう一人が寄り添っていることに気づいた。その感触はまさに自らの体をを奪われていた日々に感じたものだった。
やはり、貴方の方が私の愛した人でしたのね、セーグスカー。ミジアンの魂がそう言った。
お嬢様、変わられましたか? セーグスカーの魂がそう言った。
そうとも言えますし、そうではないとも言えます。ただ少し声が大きくなっただけです。言いたいことを全く言えない日々を過ごせばそうならざるをえません。それで、どうしてソドローを追い出したかったのですか? まさか本当に泥棒を?
実際に彼は、いや、我々はそのような生業をしていました。危ない仕事と面倒な仕事はしない男です。その札で私の力を得て、私に働かせてきました。ただ、今回彼はいつもより欲をかいてしまった。私をお父上に憑依させ、貴女と結婚して、全てを手に入れようと。
でも貴方はそうなさらなかった。それはなぜ?
それは……。
なぜ?
貴女をあの男に渡したくなかったからです。
どこの男なら良いのですか? 立場上、多くのお話をいただいています。
他の誰にも、私以外の誰にも渡したくなかったからです!
ミジアンの心臓は魂以上に高らかに鳴り響く。それはセーグスカーの魂もまた同様だった。
ですが私が東方領主の娘である限り、どこかの御仁が私を連れて行きます。どうするおつもりですか?
何か、この庭から失われても構わない物に私の札を貼ってください。
果たしてミジアンはその通りにし、再びあの夜の怪物と見えた。蜂頭の騎手が顕現した頃には人が集まっていて、ミジアンの父母もその中にいた。
「お父様! お母様! さようなら! 私のことは探さないでください! きっと幸せになってみせます!」
蛇の鬣の奇怪な馬にまたがる蜂頭の騎手は東方領主の娘ミジアンを脇に抱え、永久に連れ去った。