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憧れている男の子がいる。中学校の頃からとても人気のある、サッカー部の副キャプテンだ。明るくて、優しくて、誰とでも仲良くしていて、運動ができて、爽やかな笑顔が私の世界を眩しく照らす。
中学2年の時に同じクラスになったが、数える程しか喋ることができなかった。あの笑顔を見てしまうと、優しい目を見てしまうと、とても平常な心持ちではいられなくなってしまう。
人気者の彼には、私のことなんかきっとなんの記憶にも残っていないだろう。それでも私は当たり前のように彼に惹かれてしまった。何時も目で追ってしまった。女子バレー部のキャプテンと付き合ってると聞いたときは心が引き裂かれるような感覚を覚えた。そして、私なんかがそんな嫉妬をすることも情けなくて、余計に落ち込んだ。その二人がたった2ヶ月で別れたと聞いた瞬間、踵が浮いてしまった。喜んでしまった自分もみっともなくてどんどん自分が嫌になった。
たまたま彼の志望校を知ったので、なんだかんだ言い訳をして自分の志望校を彼と同じ高校に変えた。親も担任の先生も特に反対しなかったので、私は無事彼と同じ高校に通うことになった。
私は彼になにかアピールをするとか、話しかけようなどという勇気は持てない。いろんな妄想をした。朝たまたま一緒になって仲良く登校するだとか、いじめられている私を助けてくれるだとか。そんなことは当然起きなかった。
彼はやはり人気者で、とてもモテていて、浮いた噂が絶えず流れていた。私は1組、彼は5組で物理的に教室の距離も遠く、なんの接点もなかった。彼はますますかっこよくなっていった。私は廊下から彼を眺めていた。中庭の向こう、新校舎の廊下を歩く彼を見つけてしまったからだ。開け放たれた廊下の窓から流れ込む風が、彼の少し長めのサラサラな髪をなびかせる。
彼は珍しく一人で歩いていた。ポケットに手を入れて、少し下をむいて階段のほうへ歩いていた。仲間と居ない時の彼の真顔がなんだか新鮮で、私は目が離せなくなっていた。
彼の前から女子生徒が歩いてきた。彼女も一人で、ふわふわとしたゆるいウェーブの長い黒髪が風に揺れている。スマートフォンを見ながら廊下を歩き、そして彼とすれ違った。私はそれが自分だったらと夢想する。話が出来るチャンスだったのに、と。彼と彼女はお互い何の興味も示さず、なんてことのない景色のようにすれ違った。ただそれだけだと思ったが、その直後に彼がふと顔を上げた。私は次の瞬間、おもわず「え?」と声をだしてしまっていた。
彼は顔を上げるや否や、わざわざポケットから手をだして振り返り、彼女の手首を掴んだ。
彼女はビクッと彼の方を見た。手を振り払おうとしていたが、振り払えないようだった。そんなに強く掴んでいるのだろうか。彼女は怪訝そうに彼を見る。よくある、彼の顔をみて頬を緩めるというようなことはなかった。心底嫌そうに彼に何か言っていた。そして彼は、そのまま彼女の手首をゆっくり引き寄せて、彼女に何か呟いた。そして、その手を放したかとおもうと、そっと彼女の耳の下を手首で撫でた。私はゾッとした。彼のその行動と、そして見たことのない彼のおどろおどろしい欲に満ちた顔を。固まる彼女から一歩離れると、彼はたった今彼女を撫でた手首の香りを嗅いだ。そして、何事もなかったかのように、いつもの爽やかな笑顔で、彼女の横を通りすぎて行った。
彼女はしばし固まって、歩いていく彼を凝視していた。本当に遠退くのかを見届けるように。
私はいてもたってもいられずに走り出した。どうしたらいいかわからなかった。彼の男性性を垣間見た瞬間だった。一瞬は嫌悪感だった。しかしすぐに猛烈な嫉妬が巨大な雪崩のように襲いかかってきた。あの彼の男性としての興味が、あんなふうに向く相手が、もちろん私ではなかった。その事実は当たり前のことだと何処かで割りきっていたつもりだったのに、どす黒い夜の海が岸壁に当たってくだけ散るように、嫉妬というものは私の速まる鼓動に合わせて押し寄せ肥大し続けていった。
新校舎の入り口で彼とすれ違った。彼はすでに友達とつるんでいた。一瞬こっちを見ていたと思う。だが私はそんなことを考えられる状態ではなかった。まるで気付かないかのように走って通りすぎた。いや、気付いていて無視していると思ったであろう。なんとなく、彼の一瞥でそう感じた。
そして私はそのまま新校舎を進み、まるで怒りをあらわにして、ドスドスと早歩きをして、彼女の横をこれ見よがしに追い抜いて通りすぎた。その瞬間、彼が何をしたのか察してしまった。
とてつもなく良い香りだった。それは香水だろう。冷たい静かな雪景色のようだと思った。ひんやりとしていて、彼女が凛と咲く一輪の花のように思えた。ああ、彼もこの香りをかいでしまったのなら、これは仕方がないと、私はなんだか脱力感を覚えて歩みを緩めてしまった。足が重くなってきて、彼女の視界から消えたであろう階段までやっとたどり着いて、しばらくしゃがみこんだ。あれは私にはない、女性の魅力だ。
日も暮れて、私は家路につき、駅で電車を待っていた。昼間に込み上げた怒りや嫉妬や悲しさが、疲労となって身体全体を重く地面に引き込んでいるようだった。駅にたむろする鳩が飛び立つ音にふと顔を上げホームの端の方を見ると、彼が一人でベンチに腰かけて、同じく電車を待っていた。かつての私なら、なんとかして気付いてくれないかとやきもきしていたことだろう。そうして何も出来ずに電車に乗り、駅で声をかけることもなく反対の出口からそれぞれ家へ帰ることになるのであろう。しかし今の私は、そんな希望を抱くこともなく、ただなんとなく彼を横目で見ていた。
彼はしばらくスマートフォンを見ていたが、それを鞄にしまい、そして思い出したようにあの時彼女に擦り付けた手首の匂いをかいだ。
目を閉じて、うっとりとしているように見えた。昼間の光景を思い出しているかのように。手を下ろすと、ゆっくりと目を開けて、あの時のような顔で、虚ろににやりと笑った。
私は気付かれないようゆっくりと立ち上がり、駅の階段を登り、反対のホームへ向かった。そのまま急行電車に滑り込み、20分ほど電車に揺られて大きなデパートの化粧品売場まで真っ直ぐに向かった。あちこち見て回り、頭がクラクラするほど沢山の香水をためして、店員さんのセールストークに圧されながら、なんとか一つの香水を買うことができた。お金を持ってきていないことに気付いて、急いでATMへ向かった時は、店員さんに苦笑いされて恥ずかしかった。貯めていたお年玉で買った2万円の香水瓶は、それはもうキラキラと輝いていた。
彼女のような香りの香水が欲しかった。しかし、どんなに探しても同じものはなかったし、似たような香りでも私には似合わなかった。香りの似合う似合わないだなんて、今まで考えたこともなかった。私が選んだのは、結局なんだかよくわからない甘い花の香りの香水だった。
それでも寝る前に、そっと香水瓶の蓋を開けて香りをかぐと、気持ちが高揚するのが分かった。
しかし、学校にその新しい香水を付けていく勇気は出なかった。突然そんな香りを振り撒いて、いったい周りに何を言われるだろうかと怖かった。香水瓶を大事に鞄にいれて持ってきた。日中何度か彼を見かけた。私の心臓は今までのように無邪気に跳ね上がることはなかった。それがとても新鮮ではあった。でも私はまだ想像していた。彼が私に興味を示す瞬間を。
放課後になって、私はついに意を決し、トイレで香水を見に纏おうとした。ふわりと香るよう、スプレーした香水をくぐる、それで良いはずだ。しかし、頭に昨日の瞬間がよぎった。彼は彼女の耳の下をぬぐった。思い出すと、なぜかドキリとした。私は迷ったが、そっと手首にスプレーし、それを両耳の下へ擦り付けた。
急いでトイレを出る。誰かが香水臭いと呟いた。そんなことはどうでもよくなっていた。むやみに校舎を歩き続けた。時間からしてまだ部活には行っていないはずだ。どこかでなんとかしてすれ違わなければならない。何度も同じところを通ったりもして、怪訝な目で見られもした。結局何周目かでようやく、仲間と楽しそうに会話をしている彼を見つけた。私は汗ばんだ手を握りしめて、ゆっくりと彼の横を通りすぎた。緊張なのか、歩いていたからなのか、鼓動はいつもより少し早い。私は祈っていた。この香りが、何かしら彼に私を印象付けられなければならない。彼の心に何か届かなければならない。しかし、私は何事もなく彼の横を通りすぎて、階段を下り、下駄箱に着いてしまった。彼に腕を掴まれることはなかった。彼に耳の下を拭われることはなかった。私は彼女ではなかった。
人が沢山いたから、あの時とは状況が違うだとか、本当は何か彼は思っていてくれたのではないかとか、あとからあとからいろんな気持ちが沸いて出た。しかし、彼に手を掴まれなかったことにはかわりない。
帰り道に、香水を割って捨てようかと思った。一度は握って振り上げた。だが2万円の香水を割ることが出来ない自分がいた。それに、道端でこんなものを割ったら匂いで人に迷惑がかかるとか、割った瓶をどうするのかとか、そんな考えにこの衝動までも殺されて、どこまでも主人公にはなれない自分を鼻で笑った。
買った時はまるで魔法の変身アイテムだった。輝いていた。しかし今となっては、身の丈に合わない妙に華美な時代遅れの単なる瓶だ。背伸びして、店員さんに乗せられて、浮かれて買った、自分の醜い部分が凝縮した汚い液体だ。
なにも変わらなかった。彼は変わらず人気者で、私との接点はない。私は今も彼の笑顔を盗み見る。私の心臓はまた、彼に反応するようになっていた。私のクローゼットに、使わない香水瓶がしまってある。今はただ、それだけの事だ。