テラーノベル
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森の奥には、忘れられた小さな村があった。
地図には載っている。
道もある。
人も暮らしている。
それなのに、どうしてか誰もその村の名前を覚えていなかった。
昨日までそこにいた旅人は、翌朝には首を傾げる。
「あれ……俺、ここに来たことあったっけ」
村人たちは笑って答える。
「さあ? きっと夢でも見たんじゃないか」
そうして今日も、何事もなかったように日常が続いていく。
――ただ一人を除いて。
「おいしい林檎はいかがですかー?」
赤い籠を抱えた少年が、村の入口で声を張る。
透き通るような声だった。
太陽の光を浴びた林檎は、宝石みたいに赤く輝いている。
「甘くて、綺麗で、ちょっとだけ不思議な林檎」
「食べればきっと、明日が少し楽になるよ」
少年――伊波ライは、いつものように笑った。
けれど。
「……誰、お前」
村人の一人がそう言った。
伊波は一瞬だけ目を伏せる。
けれど、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「そっか」
「じゃあ、初めまして。俺、ライって言います」
それが彼の日常だった。
昨日林檎を買ってくれた人も。
昨日笑い合った人も。
次の日には、自分のことを忘れている。
名前も。
声も。
一緒にいた時間も。
全部まるで最初から存在しなかったみたいに。
「……お前」
村外れの古い木の下。
伊波が一人で林檎を洗っていると、突然声をかけられた。
振り向く。
青い髪の少年が立っていた。
鋭い目をしている。
けれど、その奥にはどこか疲れた色があった。
「誰」
伊波が尋ねる。
少年は少しだけ眉を寄せた。
「それ、こっちの台詞」
「俺?」
「ああ」
少年は伊波を見る。
まるで珍しいものを見るように。
「お前、昨日もここにいただろ」
伊波の手が止まった。
「……え」
「昨日、林檎売ってた」
「……覚えてるの?」
思わず出た言葉だった。
少年は不思議そうな顔をする。
「何を?」
伊波は黙った。
その反応で、少年は何かを察したらしい。
「お前」
「忘れられるのか」
静かな声だった。
伊波は笑う。
「よく分かったね」
「普通じゃないから」
「ひどいなあ」
軽く笑ってみせる。
けれど少年は笑わなかった。
「名前」
「え?」
「名前くらいは覚えておく」
伊波は少し驚いた。
そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
「……伊波ライ」
「小柳ロウ」
「ロウ?」
「ああ」
「不思議な名前だね」
「お前に言われたくない」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
普通なら気まずいはずなのに。
伊波には、それが妙に心地よかった。
「なあ」
小柳が林檎を見る。
「それ、食べたらどうなる」
「幸せになる」
即答すると、小柳は怪しむように目を細めた。
「怪しい」
「ひどいな」
「じゃあ、お前は食ったことあるのか」
その質問に。
伊波は少しだけ黙った。
「……ない」
「なんで」
「売るための林檎だから」
「自分のためには使えない?」
「そういう決まり」
小柳は林檎を見る。
赤くて、綺麗で。
でもなぜか少し寂しく見えた。
「変なの」
「何が?」
「人を幸せにするものを売ってる奴が、一番幸せそうじゃない」
伊波は返事をしなかった。
図星だったから。
夕暮れ。
伊波は村を出る準備をしていた。
いつものことだ。
明日になれば、ここにいる理由もなくなる。
どうせ誰も覚えていない。
「おい」
背後から声がした。
振り返る。
小柳が立っていた。
「また来るのか」
「林檎売りだからね」
「じゃあ」
小柳は少し迷ってから言った。
「明日も来い」
伊波は目を瞬く。
「……覚えてる保証ないよ」
「ある」
「なんで?」
小柳は少しだけ目を逸らした。
「知らない」
「でも」
「お前が忘れられるのは、気に入らない」
伊波は笑った。
久しぶりに本当に嬉しくて。
「変な人」
「お互い様」
その夜。
小柳ロウは紙切れを一枚取り出した。
そして、そこに何度も名前を書いた。
忘れないように。
消えないように。
誰かが存在した証を残すように。
――伊波ライ。
けれど彼はまだ知らなかった。
その名前を守ろうとするほど。
その少年を覚えていようとするほど。
失う日が近づいていることを。
コメント
1件
読了しました〜!😭💕 忘れられちゃうライくんの切なさがすごく刺さる…。そんな中で「お前が忘れられるのは、気に入らない」って言うロウくん、かっこよすぎません!?名前を書き続ける夜のシーンにグッときました。最後の「失う日が近づいている」の一文で鳥肌…続きが気になりすぎます!!
742
夢汰🌩️

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