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街中の街路樹が色付き、茶色の大地が飽きたからと黄金色の絨毯で覆い尽くすようになった11月の初めで、久しぶりにテレビを通して妻の笑顔を観ていたヴィルヘルムは、彼女が本格的に復帰をするのは年明けになるだろうとの言葉を聞き、ならば己も年明けからフォトグラファーの仕事に戻らなければと何処か他人事の顔で呟く。
彼女が怪我をする前までならば当たり前だった仕事だが、権威のある賞も取ってこれからというのに以前のように仕事に対するモチベーションが湧き起こらず、どうして仕事に情熱が向かないのかと考えた時、深く考えるまでもなく一人の男の顔が浮かぶ。
テレビがある棚の上に並ぶいくつかの家族写真で、若い頃の彼女と一緒に笑う己に良く似た顔立ちの彼は遠い昔事件に巻き込まれて思い出したくないと彼女が拒否したことで捨ててしまった自分達の息子だった。
二人にとっての初めての子どもを捨てた夜が脳裏に蘇り、頭を振ってその光景を追い払おうとするが袋の中から覗く二つの蒼い目に射竦めるように見つめられ、過去の幻影が現実の彼の身体を強ばらせる。
あの夜から何年が経過したのだろうか。
その十年後に生まれたノアだけが自分たちの子どもであると記憶の奥底へと封印し、死んだものだと思い込む事で更に頑丈に封印をしたはずだった。
その子どもが捨てた教会で生き延びただけではなく、今まで幾度か仕事をした事のある大企業のトップの秘書として働いているなどどうして想像出来ただろうか。
この夏に経験した事件は妻の負傷と回復、そんな妻を支える為に自身の仕事をセーブする事など経済的にも彼に大打撃を与えていたが、その中で偶然ーそれは神の思し召しか悪魔の悪戯か彼には分からなかったー出会ったのが、粉雪が降る夜に死んでも構わないとの思いながらも、それでも最後ぐらいは聖母マリアに看取られて欲しい思いから教会の礼拝堂に捨てた子どもと出会ってしまったのだ。
血を流す妻の傍できみは誰だとの言葉が零れたのは、捨てた子どもの事を既に封印し、己の子どもはノアただ一人だけだと太陽が東から昇ることを疑わない同じ気持ちで信じていたからだった。
死んだと思い込んでいた子どもに助けられた、その事実は彼自身も意識することのなかった腹の奥底に揺らめいていた記憶の箱にあの夜の粉雪と同じように静かに降り積もり、その重さで記憶の蓋が開いてしまったのだ。
トラムの中で調子が悪くなった時、手を貸してくれたシスターがまさかあの教会で遙かな昔に世話になった人だと思わず連れて行かれたが、その時も記憶の蓋は閉じていたために似たような光景をどこかで見たが別のどこかだろうと思い込んでいた。
だからその時彼が現れたことに心底驚き、その場に居合わせたノアの存在と彼の姿から総てを思い出してしまったのだ。
一度認識してしまえばもはや無視することもなかったことにすることも出来なかった。
その後、漸く地元の病院でのリハビリの許可が降りた事から妻とともにウィーンに帰る準備をし、その前に世話になっていながらも礼を言わないのかとノアに責められたこともあった彼への礼をするためにスポンサーだったバルツァーの本社へと向かい、そこで初めて冷静に彼と向き合えたのだ。
礼を言うと自分は何もしていないと返したが、正直、彼の気持ちを考えるよりもここで彼に対して礼を言っておけば今後顔を合わせることもないし、思い出した過去はまた扉の奥に封じればいい、自分たちの子どもはやはりノアただ一人だという強迫観念とこれ以上関わりを持たない事を教えるように儀礼的に礼を言ったのだ。
その後ウィーンに向かう列車の中で出発を待っている時に妻がぽつりと零した地獄に落ちるとの言葉から、あの場では何も言わなかったが彼女も自分達が対面した男がノアの存在で上書きした自分たちの初めての子どもだと察した事に気付いたが、だからといって何も言えず、ただ妻の肩を抱くことしか出来なかった。
ウィーンに戻ってからはリハビリに専念する妻の傍で少しずつ仕事に戻り始めていたが、権威ある賞を取ったからと言って座っているだけで仕事が舞い込んでくる事などあまりなく、スタッフに指示を出して仕事を受けてもらったりと少しずつ忙しくなり出していた。
そんな矢先にノアが文字通り血相を変えて書類を握りしめながら家にやって来たが、その時突きつけられた逃れようのないDNA鑑定の結果を知っても、事実を思い出した今さほど動揺はなかった。
その時彼の心にあったのは突きつけられた事実により、彼が認知を迫ってくればどうするという恐怖よりも、今まで巧妙に自らをも騙すように隠してきた過去をノアに知られてしまった恐怖の方が大きく、彼に対する法的手段や認知などはどうでも良い事だった。
人の顔色がそこまで悪くなるのかと驚くほど血の気の引いた顔でどうしてと詰め寄るノアが納得できるような説明をすることが出来ず、言葉を荒げて彼女を責める息子に初めて手を出してしまったのだが、その日以降、ノアとの連絡がつかなくなってしまったのだ。
愛する息子が音信不通になった事実は彼と妻に多大な衝撃を与えたが、いい年を下大人でもあるしきっと一人でも何とかやっていけるだろうと安心したい一方、大切な子どもがと言う心配も大きく存在していた。
連絡がないのは元気な証拠と妻まで空元気の見本のような言葉を口にするようになってから暫く経過した頃、今では自分たち親子にとって決して忘れることの出来ない場所となったあの教会で世話になっているという短いメッセージがノアから届き、慌てて返信をしたり電話をかけてみたりしたがそれが奇跡的なものだというようにまた音信不通になってしまったのだ。
居場所を教えられた安堵と息子の居場所が悪夢の発生源である事をたった一度の連絡から知り、本能的に怯える気持ちと息子に会いに行きたい気持ちが綯い交ぜになり、その連絡以降、彼は夜眠りに落ちる際に睡眠導入剤の助けを得なければならなくなってしまっていた。
目を背け続けた過去を突きつけられ、愛する息子が大きく口を開けた過去の淵に一人佇んでいるが飲み込まれる夢を見ては嫌な汗とともに目を覚ます回数も増え、妻に心配されるほどになっていた。
眠りの浅い夜を越え朝を迎えてもぼんやりとしたまま一日を過ごすことが多くなった彼だったが、夫の様子を気遣いつつも妻が長時間拘束されない軽い仕事を受けた後、これから徐々に復帰し始める事を教えられてもう今までのように支え続ける必要はなく己の仕事に戻ってもいい安堵と、心配だが妻はこれぐらいのことで沈んでしまうような存在ではない、今までどれ程辛く苦しいことがあろうとも顔を上げて周囲を太陽のように照らす俳優だったと思いだして素直に彼女の復帰を喜んだのだ。
その結果がテレビに映し出されていて、リビングのソファでそれを見ていたヴィルヘルムは、妻の本格的な俳優への復帰が年明けだと知ると同時に旅行に行きたいという思いが心に芽生える。
今までならばフォトグラファーの仕事で国内外を訪れていたが、妻の看病の為に傍を離れることが出来なかった為、随分と長い間外界と断絶している気持ちになっていたのだ。
その気持ちを払拭できれば仕事へのモチベーションの低さも一緒に消え去るのではないかと先の展望に光明を見いだした彼は、ラップトップを開いて妻とともに訪れたい旅先を探し始めるが、芸術の秋に代表されるような風景の良い欧州各地のサイトを見てみるものの、先程期待した心が浮上するような感覚が訪れず、一つ溜息を吐いてマウスをクリックしてしまう。
クリックしたのは色づく街路樹の写真だったが、次いで開いたページは彼の過去やその他大勢の人達にとっても忌々しいであろう街の今でもある種の象徴となっているベルリンの壁が映し出され、亡命先のテレビを通して見た当時の東ドイツの国家評議会議長とソビエト連邦の最高責任者か誰かがキスをしている絵が映し出され、あの時常に感じていた辛気くさい空気と嫌悪感が沸き起こり、思わずブラウザを閉じてしまう。
歴史的な意義や風刺が利いたそのイラストだが彼にとってはただただ醜悪なものに思え、気分の悪さを咳払いで追い払った後、もう一度ブラウザを立ち上げて旅行先を検索するが、その時、一人旅という言葉が脳裏に浮かび、彼女とともに逃げ出したベルリンを一人で訪れてみたいという思いが不意に芽生え、今まで避け続けてきた街への思いがわき起こってくることに気付く。
当時の西側と呼ばれた街を経由して辿り着いたウィーンから向かった時、あの街はどんな顔を見せてくれるのだろうか。
己の中のベルリンは、晴天も曇天もあるはずなのに常に色彩が喪われた世界で、人々が吐き出す空気や工場から立ち上る煙も総てが灰色のようだった。
亡命先で初めて色を感じた事を思い出し、灰色の世界に暮らしていた人達は壁の崩壊によって総天然色の世界に足を踏み入れたのだろうが、その時何を感じたのかを急に知りたくなる。
亡命してきた自分達を哀れむような視線に唇を噛み締め、フォトグラファーとして成功してからは己を蔑んだ人々の醜悪さやその陰に隠れている悲哀を写真に収めてきたが、今あの街を闊歩する人々はどのような陰を抱えて壁が崩壊した後の世界で生きているのか。
もし亡命せずに今もあの街で暮らしていれば、自分は彼女は一体どうなっていたのだろうか。
灰色の世界でも思い描いた夢を叶えていただろうか。それともそんなのは一握りの人間だけが叶えられるもので、夢だ何だのと言えるの若い証拠だと場末のバーで愚痴をこぼす老人にでもなっていただろうか。
選択しなかった道の先のゴールは何処なのかも想像出来ずに微苦笑しつつも一人でベルリンに向かいたい気持ちを抑えられなくなった彼は、スマホに仕事が終わったから今から帰る、良かったら俳優仲間と久しぶりにご飯を食べに行かないかという妻のメッセージにも気付かず、リビングから飛び出して国外で仕事をする時に使っている小さなスーツケースを引っ張り出してくる。
何日間の旅行になるのかもベルリンの何処を訪れるのかも分からず、ただそこに行きたいという強い思いに突き動かされてスーツケースに手慣れた様子で荷物を詰めたヴィルヘルムだったが、その蓋を閉めた瞬間、理由も分からないで己を突き動かしていた衝動がふっと消滅したことに気付き、スーツケースの前に座り込んでしまう。
憑き物が落ちたとしか言い表せない顔でその場にへたり込んでいたヴィルヘルムは、何をそんなに慌ててベルリンに向かいたかったのかと呟くが、本当に行きたいのはここではないどこかだと胸の奥で呟き、自らの内から聞こえてくるその声に驚愕のあまり目を見開いてしまう。
その感覚は遠い昔に鬱屈とした思いを抱え、灰色の空に押しつぶされそうになりながら感じていたものであり、人々から哀れみの目で見られ同類だと思っていた男に妻をレイプされた結果、生まれた子どもを捨てざるを得なかった時にも感じていたものだった。
そう気付いた瞬間、座っている事も出来ない程全身の力が抜けてスーツケースに突っ伏すが、心の奥底から沸き上がってくる感情を堪えきれず肩を揺らして嘲笑の声を上げてしまう。
今までならば愛する妻や息子が傍にいることが多く、こんな風に精神的に不安定になってしまってもどちらかが助けの手を差し伸べてくれていたが、今周囲を見回しても誰もおらず嘲笑を自らに浴びせながらヴィルヘルムが思い浮かべたのは逃げ出したという一言だった。
灰色の空気から、人々の哀れみの目から、妻の思いを優先すると言いながらも実は己も生まれたばかりの彼を見たくない一心で捨てて逃げ出したのだ。
皆どれほど辛くても苦しくてもその場に踏みとどまり、己が果たさなければならない責任から顔を背けることなく向かい合っているのに、己はそのすべてに背を向け逃げ出したのだ。
夢を叶える為になどと言いながらも実はただ全てを投げ捨てて逃げたのだ。
逃亡の果てのこの街で得られた名声が、妻の作り物めいた笑顔を画面越しに見る事実だと気付いて顔を上げたとき、テレビボードの上に並べられた数々の受賞の証であるトロフィーなどが目に入り、何も考えられずにそこに並ぶトロフィーや記念の楯を手でなぎ払う。
室内に響くそれらが床に落ちて壊れる音やぶつかりあう音にも肩を揺らして嘲笑していたヴィルヘルムは、トロフィーの破片を高級で履き心地の良い室内履きで踏みにじりながら感情の籠もらない声で呟く。
「……僕は、逃げたんだな」
向き合わなければならなかった事から、血が上って咄嗟に殴ってしまったとはいえ、その責任を取って警察に出向く事も、生まれたばかりの子どもには何の罪もないと抱きしめることもせずに妻の尋常ではない様子に怯えて元凶だとばかりに彼を捨て、己が心を開いていればきっともっと良くしてくれた人達に後ろ足で砂をかける様に逃げ出したのだ。
己の半生は愚かにも面倒事に向き合わずに逃げ続けた情けないもので、そんな自分がこんな立派な賞を受け取る資格などないと嗤い続けるが、発作のようなそれが収まった後にソファに倒れ込むように座り、己の本心と直面した疲労から目を閉じてしまうのだった。
ハイデマリーが夫からの返信がないことを訝りつつ自宅に戻ったのはその日の仕事を終えた夕刻だった。
秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので、夏に比べればあっという間に日が沈み黄色や赤に色づく街路樹も人工の光にひっそりと照らされるようになっていた。
そんな中を久しぶりに仕事を終えられた満足と興奮にいつまでも頬を紅潮させながら自宅へと事務所スタッフの車で戻った彼女は、車内で何度かメッセージや電話をかけても返事がない夫にどうしたのかと小首を傾げながら自宅のドアを開け、夫の名を呼びながらリビングに向かう。
「ウィル? いるの?」
夫婦のどちらかが家にいるときは必ず玄関ポーチの明かりを点す習慣があったのだがその明かりもなく呼びかけに返事もないことからどこかに出かけているのだろうか、それにしては何か様子がおかしいと思いつつリビングのドアを開け、部屋の惨状に絶句してしまう。
「……何、何があったの……!?」
彼女の目の前に広がる光景はまるで空き巣に入られた部屋のようで、テレビボードの上に並んでいたはずの夫だけではなく彼女自身も自慢に思っていた数々の受賞を示すトロフィーが床の上で砕け散っていて、彼女が国内外で受賞したトロフィーや楯も同じく床の上に散らばっていた。
テレビやソファといった家具は彼女が家を出たときのままだったが、自分たち二人が苦労を重ねながらやっと手にした賞などの記念品やノアが生まれた祝いに購入した有名な陶器メーカーのイヤープレートなども総て飾っていた棚から落とされていて、毛足の長い絨毯の上で粉々に砕かれていた。
呆然とその場に立ち尽くしていた彼女は目の前の現実が信じられないと呟き、蹌踉めきながらソファへと向かうと何時間か前の夫と同じようにソファに倒れ込んでしまう。
ソファから見える家具の総てのドアが開け放たれて中身がリビングの床に散乱している事に気付き、ソファから飛び起きた彼女はベッドルームに駆けこむと貴金属や貴重品を収めているキャビネットを開けて安堵の息を零す。
キャビネットに並ぶ宝飾品や腕時計など所謂金目のものには一切手が付けられておらず、サイドテーブルに飾ってある去年のノアの誕生日に一緒に撮った家族写真がなくなっている事に気付き家に充満する異様な空気に自然と身体が震えてしまう。
もし強盗がこの家に入ったのならば真っ先に探すのは貴金属や金目のものだろう。
それらには手も付けずにベッドサイドに飾っている家族写真や自分たちの頑張りが目に見える形になったトロフィーや楯を壊す理由が分からずに一体どういうこととベッドに力なく座り込むが、そんな彼女の目に開け放たれたままのクローゼットの扉が飛び込み、一瞬で違和感を覚えてしまう。
「……え?」
彼女の違和感の元はクローゼットの中に仕舞ってあるはずの、夫が国外に仕事に出るときに必ず使っていたスーツケースが無くなっている事だった。
その違和感に気付いてベッドの上を這うようにクローゼットのドアの前まで近付いた彼女は、仕事の時に着ているポケットがいくつもついたベスト、スーツケースなどの夫にとっての必需品が無くなっている事に気付くと、ベッドから飛び降りて夫の仕事道具であるカメラを収納している部屋のドアを開け放ち、その場にへたり込んでしまう。
「そ、んな……」
身体の震えを止めることが出来ずに震えた声で呟いた彼女の前、家族や命の次に大事だと話していた夫にとっては掛け替えのないはずのカメラ達が、無残にも壊されてリビングと同じように床の上に散乱していたのだ。
今まで撮り溜めた写真のネガやデジタルカメラで写したデータが収められたディスクやメモリーも、何故こんな酷い仕打ちを受けなければいけないのかと彼女に問いかけるように床の上で窓から入る夕方の残光に照らし出されていた。
こんな所を夫が見ればショックのあまり倒れてしまうのではないかと連絡がつかなくなっている夫の気持ちを思って顔中から血の気を引かせてしまった彼女だったが、強盗の類いでは無いと知ってしまった今、家をこんなにも荒らしたのは夫自身か音信不通になっている息子しかいないことに気付き愕然としてしまう。
いつも笑顔で己の思いを優先してくれる優しい夫が今までの過去を消したいと思った結果、仕事道具であるカメラもそれで写した数々の写真も一緒に壊してしまったのだろうか。
夫が自ら壊したとは思えず、まただからといって連絡を絶ってしまったノアが帰ってきて両親が大切にしているものを壊すことも考えられなかった彼女は、床に座り込んだままどうしてと誰に問いかけるでも無く呟いてしまう。
目の前の惨状が一体誰によってもたらされたものか冷静に思案する余裕が彼女には無く、友人であり長年この業界で一緒に働くアルノーに電話をかける。
三回のコールで出たアルノーに彼女が混乱していることを教えるように口早に言葉を捲し立てるが、落ち着いてくれ何があったと問われてハッと我に返り、震える深呼吸を繰り返した後、家に来て欲しいとぼそぼそと伝えてしまう。
『マリー、何があった?』
「アルノー、お願い、上手く説明出来ないの。家に来てちょうだい』
その言葉を伝えるだけで精一杯だった彼女は、わかった、とにかく今から向かうと答えられて安堵の溜息を零し、通話を終えたスマホを床に落とすと顔を両手で覆い隠してしまうのだった。
駆けつけてくれたアルノーに家の中を見せた彼女は、彼女と同様の驚きを隠せない友人に誰がこんなことをしたのかしらとリビングのソファに力なく座りながら問いかけるが、言いにくそうにする友人へと顔を向け、誰がと問いかけること自体が白々しいと自嘲する。
「……ウィルよね、きっと」
「そうは思いたくないが、外からの侵入の形跡もないし金目のものが残されている事を思えば家のものがしたと思うのが妥当だろうな」
友人が気遣いつつ返してくれる言葉に頷きつつクッションを抱え込んだ彼女は、どうしてこんなことをしたのよと今は不在の夫を思い浮かべている顔で呟き、クッションをきつく抱きしめる。
「どうしてよ、ウィル……!」
あなたや私が頑張って来た証のような記念品をどうして全て壊してしまったの、それと、同じく大切に記念日や行事毎に撮っていた写真も何故全て無くなってしまっているのかその理由を知りたいと悲嘆にくれた声で呟いたハイデマリーの肩をアルノーが心配そうに抱き寄せ、きっと彼にとって堪え難い大きな何かがあったんだろうと目を伏せると、それは何と問われて返事に窮してしまう。
「それは……」
「ウィルにしか分からない事よね……あなたに八つ当たりするなんて間違っているわね」
友人への八つ当たりを素直に詫びた彼女はとにかく掃除をしなければならない事、家の中の惨状はリビングだけでは無くベッドルームも彼が仕事部屋としても使っていた部屋もだと流石に頭痛を堪える様な顔で呟くと、誰か事務所のスタッフを呼んで片付けさせるかと問われるが、ウィルがいなくなったことやノアがいなくなった事をあまり公にはしたくないから呼ばないで欲しい、呼ぶならマネージャーだけにしてと友人に懇願し、部屋の片付けをするためにソファから立ち上がる。
ガラスでできたトロフィーや瀟洒なデザインのものも粉々に砕かれてしまい、原型をとどめていなかった。
ここまで破壊するほどこれらに対して苛立ちを覚えていたのかと思えば、この賞を受賞した時のあの喜びようは一体何だったんだとの思いが芽生えるが、あの時の感動や感激に嘘偽りはなかったはずで、それらを目にしたくないという強い衝動に駆られて壊してしまったのだろうか。
己の過去の実績を壊してしまいたくなる様な衝動とは一体何か、そんな衝動を生み出した感情の根源は一体何かと思案しつつ掃除機でガラスの破片を吸い込んでいた時、奇跡的に真っ二つになっているノアが生まれた年のイヤープレートに気付き手に取って破片を合わせてみる。
小さなカケラは仕方がないが、二つの大きな破片がピタリとくっ付き、このプレートを購入した時の光景が蘇る。
ノアが生まれたのは11月9日の夜で、陣痛が来たのになかなか生まれる気配が無く随分と産みの苦しみを味わってしまったのだが、無事に生まれた後に病室にノアと共に向かった彼女は、呆然とする夫に出迎えられやっと生まれたわよと産着に包まれて眠る息子の顔を見せたのだ。
その時、夫が呆然としているのは長時間に及んだ出産から無事に妻と息子が帰還したことに感動しているからだと思っていたが、病室のテレビから流れ出すボリュームを下げられてはいるがそれでも歓喜のものとわかる声やクラクションなどの人々の喧騒の声に気付き、息子を腕に抱いたまま彼女もテレビを見たのだ。
それは彼女達が決して越えることが出来ないと思い、事実よほどの強運や事情がない限りは越えられなかったベルリンの壁が開放され、その間に存在していたチェックポイントを満面の笑みを浮かべて手を繋いだりポケットに手を突っ込みながら歓喜を押し殺しさりげなさを装って通過する人々の姿が映し出されていた。
特に有名なチェックポイント・チャーリーを東から西へ、また西から東へと行き交う人々の顔は歓喜に紅潮している様で、それを呆然と見守った二人だったが、急に泣き始めた息子の声に我に返り、泣き止まない息子をベッドにそっと寝かせると、どちらからとも無く手を伸ばして互いの背中を抱きしめあった。
『……壁が、みんな壁を越えられたのね』
『ああ……こんな日がまさか来るとは……』
しかも自分達にとっても記念となる息子が生まれた日にまさかベルリンの壁を市井の人々が満面の笑みで大手を振って自由に行き来できる様になるなんてと呟いた彼は、小さな、それでも精一杯の泣き声をあげる息子を優しく抱き上げ、名前をノアにしないかと涙ぐんだ目で彼女を見つめたのだ。
『……ノア?』
『ああ。壁が解放された日に生まれた男の子だ。僕達をまだ見たことがない世界にきっと連れて行ってくれる』
生まれたばかりの息子は新たな世界へと僕達を導いてくれるだろう、だからノアと名付けたいと穏やかさの中にも揺るがないものを秘めた声で告げられて反対する理由もなかった為、夫の手からそっと息子を抱きとり、ようこそノアと微笑みかけたのだった。
その夜の光景を思い出しつい涙ぐんでしまった彼女だったが、二つに割れたプレートにマジックで殴り書きされている文字があることに気付き、アルノーを呼んで一緒にその文字を読んでいく。
「……ベルリン、チャーリー……?」
「チェックポイント・チャーリー!? ウィル、ベルリンにいるの……!?」
今まで家族の間でも決して話題にすることのなかった街、ベルリンに一人で出向いているのかとアルノーと顔を見合わせたハイデマリーは、とにかく夫の居場所がわかった安堵に胸をなで下ろすが、メッセージや電話に出てくれるだろうかという不安を拭い去ることはできず、友人の前で夫に震える手で夫に電話をかける。
『……マリーかい?』
「ウィル……! 今ベルリンにいるの!?」
どうして何も言わずに一人でベルリンに行ったの、それよりも家の中やカメラを壊して一体どういうつもりと電話に出てくれた安堵からつい捲し立ててしまったハイデマリーは、彼女の言葉が終わると同時に夫がポツリと呟いた言葉に限界まで目を見張ってしまう。
『……逃げ出した先で得たものなんて何の価値も無い』
そんなものはただのガラクタだと今まで聞いたことがない暗い声で笑われて思わず身体を震わせたハイデマリーは、とにかくベルリンにいるのならホテルを教えて、私も向かうからと口早に懇願するが、電話の向こうから聞こえてくるのは穏やかとは言い難い息遣いだけで不安を覚えた彼女がウィルと夫の名を呼ぶ。
「ウィル、お願い、ホテルを教えて!」
『……マリー、もうノアの誕生日を三人で祝うことはできないね』
もうすぐ訪れる最愛の息子の誕生日を毎年の様に自分たち三人やその友人達と祝うことは出来ないだろうねと感情の籠らない声で教えられて息を飲んだ彼女は、脳裏に再びノアが生まれた夜の光景が思い浮かび、ウィルと夫の名を叫ぶが、彼女の願いも虚しく通話は途切れてしまう。
その後何度掛け直そうが夫が電話に出ることはなく、居た堪れない顔で見つめてくる友人に情けない顔で笑った彼女はソファに力をなくした様に座り込んでしまうのだった。