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ベルリンの土を踏んだのは、一体何年ぶりだろうか。
こんなことが無ければ二度と訪れる-帰ってくる-事の無い街だった。
空港からタクシーで彼女が駆けつけたのは今ではすっかり様変わりをし、当時の面影がまるで映画のセットの中にだけ存在する、裏側に回れば張りぼての骨組みが見えるのではないかと疑いたくなる街角で、何とも言えない感慨を抱きながら微苦笑する。
彼女をここまで運んでくれたタクシーの運転手は彼女が女優である事を知っているようで、ちらちらと何かを言いたげに視線を投げかけていたが、彼女自身はその視線に答える余裕も何も無いほど先日思い浮かんだことをうまく実行するためにどう立ち回ればいいのかを考え込んでいて、昔と通貨も違うタクシー料金を支払って車から降りる際、もう怪我は良いのかと問われて我に返るほどだった。
ええ、もう良いわ、心配してくれてありがとう、これからまた女優として頑張るつもりだから応援してね。
何も考えること無く流れ出す言葉を僅かに赤面した運転手に笑顔で伝え、握手を求められてもいないのに手を差し出した後、走り去るタクシーを見送ったのはついさっきだった。
そして今、彼女が張りぼての現実と嘲笑したそこに、まるでこの世の総ての元凶があると言いたげな顔を向けていたのだ。
観光客が物珍しげに顔を左右に向けながら行き交い、地元で暮らす人達が過去の姿を思い出せない顔で行き交う様にも微動だにせず、当時の憎しみを思い出した顔で旧ソビエト連邦の兵士が大きく描かれた看板を見上げると、一瞬で世界が灰色の重苦しい自由も何も無い世界へと巻き戻ってしまう。
その感覚に引きずられないように両足を踏ん張って顔を上げた彼女は、背後から聞こえてきた己の名前に気付き、笑顔を浮かべて振り返ろうとした瞬間、そこにいるのは女優である己への憧れや好奇心から名を囁いた人なのか、それとも亡命前の己を知る人の声かとの疑問を抱くと夏に受けた傷が痛みを覚え振り返ることが出来なくなってしまう。
もし振り向いた先にいる人が今刑務所で罪を償っている男のように自分たちが亡命した結果何らかの迷惑を被った人で、再会することでその恨みをぶつけられると考えているのだとすれば自分は一体どうすれば良いのだろうか。
その思いは今まで感じたことが無いような恐怖となって足元から這い上がって彼女の身体を揺らしてしまい、蹌踉けた拍子に街灯に手をついて身体を支える。
こんな時、今までならばいついかなる時でも己を支えてくれる手があったが、一つは己の元を去って音信不通になり、もう一つはこの街のどこかでひっそりと息をしているはずだった。
無くした腕を嘆いて不満をぶつけるのではなく理由を聞いた上で一緒にいたいと伝えるため、ベルリンにいると連絡を受けてから10日近く経った今日、漸くウィーンからやって来られたのだ。
ベルリンにいるとだけ伝えた夫はこの広い街-亡命した当時は半分が壁で遮られていた-のどこにいるのか。何処で一人きりで傷を抱え込んでいるのか。
夫のことを思うと心配でいても立ってもいられなくなった彼女は、手をついた街灯に支えてくれてありがとうと伝えるように距離を取ると、当時の面影を残す古いビルやガラスがふんだんに使用されている現代的なビルを見上げ、必ず見つけていつも一緒にいること、一人にしないことを伝え、そして考えている事を実行するんだからとウィーンを出発するときに見送りに来た友人に伝えた言葉を胸中で呟き、負けないんだからと誰にとも無く呟くと旧ソビエト連邦の軍人の写真にあの時以上の強い意志を持って背中を向けて歩き出すのだった。
この街を逃げ出す前は世界は灰色で家族ですらも信じられないと思っていた日々だったが、その時でさえもこんなにも世界は暗くなかったと自嘲したのは、博物館がいくつも集まった島に渡る橋の欄干に腕をついて寄り掛かっていたヴィルヘルムだった。
壁を挟んだ向こう側の世界は虹色に輝いていて、ここでくすぶっているような悩みや苦しみなど一切無いパラダイスのような世界に感じていたが、実際命がけで愛する人とこの街から亡命した自分たちを待っていたのは、ある意味ここで暮らしていたとき以上に寄せられる好奇や忌諱の目だった。
その視線を受けつつそれでも亡命できた事に喜び二人で夢を叶えるために頑張ろうと今まで以上により強く手を繋ぎ、何があっても-一人の命を奪い一人が死んでしまっても構わないとの思いから命の危機にまで追いやっておきながら彼らの存在を忘れ去り向き合うことをせず、ただただ自分たちの夢のためだけに邁進していたのだ。
その事実に気付かされたのは逃げ出した街で妻が旧知の男に負傷させられた時に捨てた命に再会したからだった。
捨てた命は立派に成長し、血を流して倒れる妻の介抱を真っ先に行い、駆けつけた救急隊にも的確な指示を与えられる男になっていた。
妻の血に思考のすべてが吹き飛び何も考えられなくなっていた己とは対照的なその行動に助けられ、警察での事情聴取でも現場に彼がいてくれて良かったと褒める言葉を聞かされた気がするが、あの時の己は本当に何も考えられなくなっていて曖昧な返事をしただけだった。
その後、神の計らいか悪魔の悪戯か亡命直後に一度だけ訪れた後は近寄ることすらしなくなっていたが、実際には自分達の知らないところで世話になった教会に運び込まれ、心配顔の息子に対面した時に部屋の隅で腕を組んでただじっと見つめてくる彼を見た瞬間、誰に言われるでもなくそれがあの夜捨てた命だと理解したのだ。
心の奥底にだけではなく記憶の中でも封印していた己の非道な行いの結果を突き付けられ、安堵に顔を緩める息子と壁にもたれて無言で見つめてくる妻に良く似た蒼い目が、お前の罪を知っている、今まで逃げてきたがこの先も同じように逃げ切れると思うのかと囁いているように思え、直視することが出来なかった。
それ故にノアが訝るほど彼との接点を持たず、世話になった教会の懐かしい人にもろくに挨拶もせずに飛び出し、裁判が終わると同時にあの時の様に妻とあの街から逃げ出したのだ。
嫌なことがあればすぐに逃げる。その癖は幼い頃から変わらないなと何処かから聞こえてきた声に嘲笑され、そんなことはない、仕事では逃げ出したことはないと反論するが、彼女を傷つけた男を殺しその死体を人に処分させて自分達の子供を、事件を思い出す、ひいては殺してしまった男のことを思い出すから見たくないと教会に捨てて街も捨てたのは誰だと続け様に嘲笑されて何も言い返すことが出来なくなってしまう。
お前の人生は世話になった人を捨てる事で出来ているんだなとも笑われて頭を抱えてしまったヴィルヘルムだったが、背後から遠慮がちに声を掛けられて蒼白なまま振り向いてしまう。
「……大丈夫ですか?」
随分と顔色が悪い様ですが大丈夫ですかと最近も経験した言葉を聞かされて、ありがとう大丈夫と答えようとするが、声を掛けて来たのがあの時と同じくシスターだと気付くと一瞬で時間が遡り、壁にもたれながら己を無言で糾弾してくる蒼い目が脳裏いっぱいに広がってしまう。
「あ、……ありがとう、大丈夫です」
心配を掛けましたと引きつった笑みで大丈夫と伝えても伝わるはずもなく、本当に大丈夫ですか、私達の教会が近くにありますので休んで行かれますかと誘われ、それが今目の前にいるシスターの言葉なのかそれともあの時のシスターのものかの区別が付かず、シスターの後ろに見える双眸に恐怖を感じていた時、聞き覚えのある声が投げ掛けられて藁にもすがる思いで顔を上げると、そこには心配と安堵を絶妙にブレンドした顔で肩を上下させる妻がいた。
「……マリー……?」
「いた……! やっと見つけたわ、ウィル!」
親切なシスター、探していた夫が見つかりました、ありがとうございます。
突然肩で息をしながら駆け寄って来たハイデマリーの言葉に呆気にとられどうすればいいか二人の顔を交互に見つめたシスターだったが、彼女に一つ頷くと探していた方が見つかり良かったですと短く祈った後、気遣う言葉を残して橋を渡っていく。
その背中をぼんやりと見送ったヴィルヘルムの隣にハイデマリーが並んだものの、やっと見つけたと感慨深げに呟いた後は何を言うでもなく、ただ静かに眼下を流れる水面に目を向けるだけだった。
いつしか秋の街には夜の帳が降りる合図に太陽が赤く染まり出し、二人欄干に腕をついて肩を並べて水面の所々を赤く染める太陽が角度を変えて行く様をじっと見つめていた。
二人の背後を足早に帰路に就く人や、一日中観光であちらこちらを見回った後にふと足を止めた橋の上から見える景色に心を奪われている人などが数えきれないほど通り過ぎたが、それでも二人どちらからも動くことはなく、ふぅと小さな溜息をついてハイデマリーが顔を上げた時にはすっかり太陽が姿を隠し街灯に明かりがともり始めていた。
「……DDR博物館なんてあるのね」
私たちがここで暮らしていた頃には考えられなかった博物館だと笑い、ホーネッカーやブレジネフといった旧東側の指導者達も自分たちが正しいと思っていた世界が崩壊し、博物館の中や歴史の教科書の中にだけしか存在できない正義だと知ればどれほど悔しがるのでしょうね、それとも社会主義のはずなのに自分達だけは私腹を肥やし庶民は軽さのあまり水に浮くとすら言われたトラバントに乗ることが精一杯の中、当時の西側諸国の車を乗り回し趣味の狩猟のために家を何件も持っていたりしたから満足したのかしらとくるりと振り返って欄干に背中を預けて星が瞬き始めた空を見上げる。
「存在する理由がある限りベルリンの壁は何年も存在する、だったかしら」
確かその言葉を聞いたのはノアが出来たことが判明した頃だからそれから一年もしないうちに壁は崩壊したのよねとも笑った彼女は、顔を上げることなく返事もしない夫へと顔を振り向け、ただただ感慨深い溜息をこぼす。
「ね、ウィル。急にいなくなって心配したとか……そんなのは当たり前だから今更言わなくても分かるわよね」
「……マリー?」
「だから、私が言いたいのは一つだけ」
彼女の言葉にヴィルヘルムが顔を上げてどんな言葉で己を責めるのかと、脳裏から消え去る事のない蒼い双眸に見据えられ、まるで死刑台に上がる直前の死刑囚の様な気持ちになってしまう。
「あなたがいてくれて良かった」
他の人へ迷惑を掛けたり人生を狂わせて苦しませたとしても、それでもあなたがいてくれて良かった。
驚きに目を丸くするヴィルヘルムに向けて一歩足を踏み出したハイデマリーは、呆然とする夫の手を掴んで両手で挟んだ後、軽く手を組み合わせて照れた様な笑みを浮かべる。
「あなたがいるから、私もここにいるの」
一緒にこの街から逃げようと誘ってくれた時、何があってもこれからどんなことがあってもあなたと一緒に自分達の夢を叶えると決めたのと、出会った頃の様な笑顔を浮かべて小さく首を傾げるハイデマリーに手を引かれ、彼女の柔らかな腕の中に包まれたと理解した瞬間、言葉にできなかった感情が迫り上がってくる。
「この街、昔は本当に大嫌いだった」
今も嫌いだし見たくない場所も沢山あるけれどそれでも懐かしいと思えるようになったのはきっと今までの日々が充実していたからだと夫の背中を抱きながら囁くと、でもそのせいで何人もの人を不幸にしたという後悔の声が聞こえてくる。
その声を聞きたくなかったが今までのように顔を背ける訳にはいかないと腹に力を込めると、震える髪に頬を当ててそうねと目を閉じる。
「ね、ウィル、こんな所じゃゆっくり話もできないからホテルに行きましょう」
どこのホテルを取っているの、私はまだだからあなたのホテルに行きましょうと顔をあげ、夫の頬をそっと両手で包んで視線を合わせると、女優でもない母でもない、この街で出会った頃のような笑みを浮かべて夫の目を見開かせる。
「……マリー……っ」
「ね、ホテルでゆっくり話しましょう」
「うん」
陽が沈み街灯の明かりが地上を照らし出し道行く人たちも足早に行き交うが、川に架かる橋の上で抱き合う男女の姿に好奇心に目を向けつつも特に何をいうでもなく通り過ぎて行く。
自分たちの人生に橋の上で抱き合う男女の存在がどれほどのウエイトを占めるのかがわかるはずもなく、また路傍の石と同じ軽さに感じるのだろうと夫に向けていた意識を少しだけ通行人に向けた彼女は、夫が頷いて顔を上げてくれたことが嬉しくて安堵の溜息を溢すのだった。
ヴィルヘルムが泊まっているホテルは部屋の窓からモニュメントとして残している壁が見える場所に立っていて、窓を開ければ落書きだらけのそれが見えていた。
それを見ながらたった一人で夫は何を考えていたのかとカーテンを握り締めて溜息を零したハイデマリーだったが、振り返った先で顔を伏せてベッドに腰掛ける夫を見てしまえば何を考えていたのかなどどうでも良くなり、先程告げたように生きていてくれた、それだけで良くなってくる。
だから彼女はさっきのように腹を括るために深呼吸をし、演技ではない笑みを浮かべつつ夫の名を呼ぶ。
「ウィル、私、やりたいことがあるの。話を聞いてくれる?」
その声はこの街で壁を隔てた向こう側にある自由な世界に飛び出したいのと付き合い出したばかりのヴィルヘルムに伝えた時と同じで、さすがにそこから何かを感じ取ったのかヴィルヘルムが顔を上げる。
「でも、その前にあなたのしたいことを聞きたいわ。教えて」
ここには私しかいないしあの時のように親友でさえも疑わないければならない状況じゃないと戯けたように肩を竦めた彼女は、夫の隣に勢い良く腰を下ろすとベッドのスプリングの反動を借りて夫の肩に頭を乗せて楽しそうな笑みをこぼす。
「……マリー」
「教えて、ウィル。何がしたい? 今一番したいことは何?」
何でも良いわ、あなたの望みを全身全霊で叶えてあげると笑う妻を眩しそうに見つめた夫だったが、何度か躊躇うように口を開閉させた後、時間を巻き戻したいと掠れた声で伝え、出来ないだろうと冷笑してしまう。
「……そうね、リアルの時間を巻き戻すことは無理だわ」
でもあなたの中の時間を戻すことは出来る、いつの時代に戻りたいのと寄りかかっていた夫の肩に更に寄りかかる様に身体を傾げると、支えることが難しくなったのかヴィルヘルムの体がベッドに沈み、半ば乗り上げる様に彼女も倒れこむ。
「……ヨハンと……彼、に、謝りたい……っ」
頭に血が上ったとはいえ暴力をふるう必要は無かったし、その結果死んでしまったからゲオルグに処理を頼むなんて本当にどうかしていた、それに辛い過去に直面する勇気がない弱さから生まれたばかりの子供を捨てるなんて到底許されることじゃないと、何もかもを思い出した結果の罪の重さに打ち拉がれた声で妻に告白すると、覆い被さったハイデマリーがしっかりとヴィルヘルムを抱きしめ、うんと頷く。
「そう。彼らに謝りたいのね」
「ああ……っ! ヨハンには……地獄で謝るしかない、だろうけど……」
まだもしゲオルグが健在ならば直接謝罪をしたい、そして何よりもまず先にあの夜捨てた自分達の初めての子供であるリオンに謝りたいと、初めてハイデマリーの前でその名を呼んだヴィルヘルムは、彼女の反発や動揺を覚悟していたがその言葉に対しても返って来たのはうんと言う穏やかな同意の声だった為、驚きに目を見張ってしまう。
「そうね……私達、謝らなければならない人が沢山いるわね」
沢山の人に迷惑をかけて来た、そしてこれからまた沢山の人に迷惑をかける事になると夫の肩に頬を預けながらハイデマリーが自嘲気味に笑みを零すと、ようやく妻の様子がいつもと違うことを認識した顔でヴィルヘルムが顔を上げる。
「マリー?」
「……時間を物理的に戻すことは不可能だわ。でも……」
あの時しなければならなかったことから逃げ出したこと、それに対する行動ならば今からでも出来ると笑うハイデマリーの真意がわからずにもう一度名を呼んで先を促すと、起き上がった彼女がヴィルヘルムの手を引っ張ってベッドに向かい合う様に座る。
「今更とかどうして黙っていたとか……色々言う人も出てくるでしょうし根掘り葉掘り聞かれるでしょうね。今まで築いて来た女優とフォトグラファーの地位も喪ってしまう」
でもあなたを失う事に比べればどれも蚊に刺された程度の痛みもないわと夫の頬を撫でながら笑顔で頷いたハイデマリーの前、ヴィルヘルムの顔に一瞬で血の気が戻り、血が通った事で全身に力も巡ったのか目の前にいるハイデマリーを抱きしめ、そのままベッドに再度倒れ込んでしまう。
「マリー……っ!」
「……あの当時の刑事さんがまだいるかどうかは分からないけど、私の事件の時に担当してくれた刑事さんに話をしましょう」
そして法律的に罪を償うことが無理ならばせめて道義的に償うために、あの困っている人達に決して門を閉ざさない人の好い教会を頼らせてもらいましょうと夫の背中を撫でながら目を閉じたハイデマリーは、覆い被さるヴィルヘルムの口から湿り気を帯びた声でうんと返されてこの時初めて安堵の溜息を零し、ついでに涙も目尻から一つ二つとこぼしてしまう。
その涙は怪我から復帰して必ず女優として舞台に戻ってくることを約束した先日のインタビューに対する申し訳なさよりも、今まで忘れていた罪の大きさに今後自分たち二人で立ち向かえるのかという不安から零れ落ちたものだったが、己以上に不安と後悔を抱えている夫をこれ以上心配させない為に唇を噛み締め、もう大丈夫だからとかすかな嗚咽を零す夫の背中をただ優しく撫で続けるのだった。
久しぶりに二人で一つのベッドで眠り不思議とすっきりとした朝を迎えたヴィルヘルムは、穏やかに眠る妻の顔を見下ろしてその頬にキスをすると、静かにベッドを抜け出して顔を洗う為にバスルームに向かう。
鏡に映る顔はまだやつれていて暗さを残していたが不健康さは薄らいでいて、昨日ハイデマリーに己の思いを吐露し聞き入れ受け入れてもらえたことがこんなにも安心できることだったのかと自嘲してしまう。
ただ、今からもう四半世紀以上前の話を何も知らない人達に訴えたところで困惑されるだろうし取り扱ってくれないだろうという不安はあり、どうするべきか思案していると背後から眠そうな声で名を呼ばれたことに気付く。
「おはよう、ウィル……」
いつも朝は早いわねとあくびを堪えながら背後から抱きしめられて微苦笑し腹の前で組まれた白く細い手を撫でたヴィルヘルムは、朝食を食べたら昨日の話を実行する為に話し合わないかと鏡の中の己の身体に隠れている顔に問い掛けると、そうねという小さな声とそれを上回るどちらか分からない腹の虫の音が響き渡り二人同時に吹き出してしまう。
「食べるものを食べないと、ちゃんとした考えもできないわね」
「そうだね」
すると決まれば気持ちも楽になった、だから今は空腹を満たそうとくるりと振り返って妻の顔を見下ろした夫は、見上げてくる蒼い双眸にキスをし、ありがとうと昨日は伝えることのできなかった言葉を囁くと同じ言葉が返ってくる。
それがより一層力を分け与えてくれた様で久しぶりに感じた空腹感に苦笑し、ホテルで朝食を食べてもいいしどこかのカフェで食べてもいいと笑いながら互いの頬にキスをするのだった。
結局ホテルで朝食を摂った後、二人は別々にメールやメッセージ、電話といった手段で今後迷惑をかけるであろう人達に連絡を入れては盛大に驚かれたりしつつも自分達の過去の罪を償う為の行動に理解を求めたが、最も理解しそして許して欲しいと思っている息子のノアには連絡が付かず、事件を担当してくれた刑事にも忙しいのかそれとも休日だからか連絡がつくことはなかった。
ハイデマリーのマネジャーは涙声で制止したが、もう決めたことだ、今後の事は弁護士に一任するから彼と十分に話し合って決めてくれと告げ、今まで仕事面で支えてくれてありがとうと感謝の思いも伝えて通話を終え、俳優仲間や仕事関係者の中でも特に親しい人達にもそれぞれ電話をかけて数日中にちょっとした事件になるかも知れないがウィルと二人で乗り越えていくつもりだからと相手に反論も何も与えない様に完璧な笑顔と口調で伝えていた。
ヴィルヘルムは仕事を任せていた部下達に連絡をし、久しぶりのボスからの電話に部下が涙声で心配していたと返す声に申し訳ないと詫びていたが、ハイデマリーよりは感情に震える声でしばらく周辺が騒がしくなるかも知れない、詳しいことは弁護士に任せてあるから弁護士と相談する様に、今回のことについて何を聞かれても知らないと答えるんだと指示をしまた連絡すると絶句する部下に伝えて電話を終え、満足げに溜息を零す。
「……後は弁護士に連絡するだけね」
「そうだね。それは……彼方に着いてからでも大丈夫じゃないかな」
そろそろホテルを出てあの街に向かおうかと小さく笑うヴィルヘルムにハイデマリーも頷くが、あの日は粉雪が降っていたが今日は秋晴れねと窓の外へと顔を向けてポツリとこぼす。
「そう、だね」
「……再出発を決めるのに相応しい日よね」
ヴィルヘルムが背後から妻を抱きしめて顔を寄せると妻の声に明るさが増し、振り返りながら夫の頬にキスをする。
「……行きましょう、ウィル」
やると決めたのだ、いつまでもここでうじうじとしているのは性に合わないわと立ち上がって腰に両手をあてがい、ベッドに座ったまま見上げてくる夫に誰もが魅了される様な笑みを浮かべたハイデマリーは、あの日の様に手をヴィルヘルムに向けて差し出す。
『行きましょう、ウィル』
たった今呟かれた声があの日のそれと重なり自然とその手を掴んで立ち上がったヴィルヘルムは、あの頃に比べれば少しだけふっくらした妻の身体をそっと抱き締め、やり遂げようと自らに言い聞かせる様に呟き、もちろんという心強い言葉を過去と現在の彼女から囁かれて大きく頷くのだった。