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🌹第二章:埃と紅茶の距離
リヴァイの冷たい言葉を受けたイリスは、その場に深く頭を下げ、すぐに廊下の隅にある小さなサイドテーブルへと向かった。
(磨き忘れていた…完璧なリヴァイ兵士長の視界に入ったのだから、大失態だわ。)
彼女は持っていたハンカチを取り出し、指摘された机の端を丁寧に拭き始めた。もちろん、それはとうの昔に綺麗に磨かれていたのだが、イリスは兵士長の言うことに間違いはないと信じていた。その真摯な姿に、リヴァイは舌打ちをしたい衝動を必死に抑え込む。
リヴァイは、用件を伝え終わったイリスが立ち去るまで、無言で廊下に立ち尽くしていた。
「他には、何か…」イリスが恐る恐る顔を上げた。その瞳はまだ微かに潤んでいるように見える。
リヴァイは、自身の感情が制御不能になる前に、話を切り上げなければならなかった。
「無い。さっさとハンジのところへ戻れ。お前の失態のせいで、あの馬鹿が研究を放り出すようなことがあったら、次は容赦しないぞ」
彼はわざと「ハンジ」を呼び捨てにし、イリスの直属の上司を引き合いに出して突き放した。そうすれば、イリスは自分の非が、組織全体の迷惑につながるのだと思い、すぐにその場を離れるだろう。
「はい!直ちに戻ります!」
イリスは、早足で来た道を戻っていく。その背中が、角を曲がって見えなくなるまで、リヴァイは動けなかった。
(…全く、馬鹿な女だ。)
リヴァイは、イリスが去った後も残る、微かな紅茶と古い紙の匂いを感じながら、静かに目を閉じた。
(無駄な感情を出すなと言ったのは、俺自身だ。)
彼女の澄んだ瞳の奥に見た「庇護欲」。それは、イリスの純粋な優しさから来るものだということはわかっている。だが、兵士長として多くの部下の死を見てきたリヴァイにとって、自分に向けられる優しさは、同時に**「死」**と隣り合わせの脆さの象徴でもあった。
その日の午後、ハンジ分隊長の研究室。イリスは山積みの資料と格闘していた。
「いや〜、イリスは本当に助かるよ!リヴァイに怒られても、すぐに立ち直ってくれてね!あ、これ、例の実験体Bのメモなんだけど、紅茶でも飲みながら整理してくれない?」
ハンジはいつものように笑いながら、イリスの隣にカップを置いた。イリスは、リヴァイの叱責で乱れた心を整理するかのように、静かに紅茶に口をつける。
(…兵士長に言われた通り、机の端を磨き直したけれど、やはりどこか至らないところがあったのだろうか。)
彼女は、リヴァイが言及した「任務以外の無駄な感情」とは、彼への憧れのことだと理解していた。しかし、その感情を消すことなど、今のイリスには不可能だった。彼の完璧な戦闘技術、部下への密かな配慮、そして時折見せる深い孤独。すべてがイリスの心を捉えて離さない。
数時間後、廊下を歩くリヴァイの足音が、研究室の前に立ち止まった。ノックの音とともに、氷のような声が響く。
リヴァイ:「おい、ハンジ。報告書だ。あと、コーヒーを淹れろ」
「はーい!今行くよ、リヴァイ!」ハンジが慌てて立ち上がる。
リヴァイは、ハンジが入れるコーヒーの不味さを知っている。それでも、彼はこの時だけは、ハンジの部屋に入り浸るイリスの様子を確認しに来るのだ。
イリスは顔を上げず、資料の整理に集中しているふりをした。
(…また、何も言われずに通り過ぎていくだけだわ。)
しかし、その日、リヴァイはドアのそばで立ち止まったまま、口を開いた。
リヴァイ:「おい、そこの女。その紅茶、ぬるいぞ」
イリスは驚いて、カップを持つ手が止まる。リヴァイは、イリスが口にしたばかりの紅茶が、適切な温度でないことを、一瞬見ただけで見抜いたのだ。
「え…?」
リヴァイ:「淹れ直せ。…どうせ、またハンジが適当に作ったんだろう。そんな生ぬるいもので休憩するな。時間と気分を無駄にする。一からやり直せ」
リヴァイはハンジの差し出した報告書を受け取ると、それだけ言い残し、すぐに立ち去った。
イリスは、熱くなった頬を隠すように両手でカップを包み込んだ。
(…私が、休憩を取っていることを知っていた…?)
叱責のように聞こえるその言葉の裏には、**「冷えた体を温めろ」「しっかりと休め」という、誰にも悟られない「気遣い」**が隠されていることに、イリスは気づいていた。
リヴァイは、自分の**「庇護欲」を否定するために、常に「冷たい叱責」という名の防護壁を築いている。しかし、イリスは知らず知らずのうちに、その壁の小さな隙間から差し込む、彼の優しさの「熱」**を感じ取り始めていた。
(諦めるなんて、できない。だって兵士長は…)
イリスは、誰にも聞こえない声で、そっと決意を新たにした。