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木蓮が雅樹の部屋で一夜を過ごした朝の事だった。玄関先には目の落ち窪んだ面立ちの母親が座り込み、リビングのソファには激高した面持ちの父親が腕組みをして待ち構えていた。
「な、なによ」
「木蓮、あなた何処に行っていたの」
リビングテーブルには取り分けられた寿司にラップが掛けられていた。2階の廊下には睡蓮の気配があった。
(ーーー疑っているわね、そりゃそうか)
親に叱られながらも木蓮の意識は睡蓮へと向かっていた。睡蓮は常日頃、木蓮と雅樹の間柄を疑っていた。木蓮の無断外泊など以ての外だった。
「木蓮!聞いているのか!」
「あ!はい!ごめんなさい!」
「いくら見合い相手だからと言って伊月くんと、伊月くんとっ!」
「は、はいーーー?」
午前0時を過ぎても帰宅しない、 LINEも携帯電話も繋がらない娘の行方を探していた蓮二は恥を偲んで伊月に連絡を入れた。伊月は平謝りで深夜のドライブに出掛けたが車の故障でホテルに一泊する事になったのだと答えた。
「お、おまえ、まさか!」
「ま、まさかってなにがよ」
「伊月くんと!」
父親にしてみれば考えたくもない行為だが、木蓮と伊月が男女の関係になったのではないかと心配しているのだ。
「まっつ、まさかーーぁ」
「本当だな!」
「本当よ!」
単純な父親はそれで納得したが同じ女である母親とすれば木蓮の腰を庇う歩き方には思い当たる節があった。木蓮が自室の扉に手を掛けたところで母親はその手に小箱を渡した。
「ーーーなに」
「今度はちゃんと使いなさい」
「今度ってなっ!」
握らされたのはコンドームだった。昨夜見た物の色違い、母親は木蓮と伊月が男女の仲になったのだと思い込んだのだ。
その一夜について伊月は木蓮に問う事は無かった。ただ一言、木蓮は睡蓮の代わりではないと微笑みかけ、有言実行|1ct《カラット》の婚約指輪を木蓮の左の薬指に嵌めた。
「あんた、本当に私で良いの」
「ヤモリを背中に入れる事はありませんよ」
「じゃあ私も木工用ボンドは使わないわ」
睡蓮の結婚式を控えた大安吉日に木蓮と伊月の結納の儀が行われた。それを見届けた睡蓮は安堵のため息を漏らし、木蓮はその姿を見逃さなかった。
「この度は、木蓮さまと息子伊月に、素晴らしいご縁を頂戴いたしましてありがとうございます。本日はお日柄もよく、これより結納の儀を執り行わさせて頂きます」
木蓮は伊月の顔を見た。
(ーーー伊月が私の旦那さんになるの)
伊月の母親が前に進み出て結納品を木蓮の前に置いた。
(全然、実感が湧かないんですけれど!)
「そちらは私ども田上家からの結納でございます。幾久しくお納めください」
緊張の面持ちの木蓮は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。幾久しくお受けいたします」
ピンポーーン
結納の儀で着慣れぬ振袖に辟易していた木蓮が普段着に着替えた頃、玄関先で田上さんがひとつの宅配便を受け取った。
「木蓮さん、木蓮さん」
「なに、私に届いたの?」
「はい、差出人の名前が無いんですけど」
「げっ、伊月の彼女とかからじゃないの!?」
田上さんは眉間に皺を寄せて孫の身の潔白を証明しようと力説し始めた。
「嘘、嘘、冗談よ」
「木蓮さんが言うと嘘か本当か分からなくて困ります!」
「そうーーー?」
「本音が見えないというか、あぁ、もう!あっ!お鍋!お鍋!」
(ーーー本音が見えない、か)
さすが幼少期からの付き合い、田上さんの言う事は的を得ている。
(ーーーーさぁて、なにが入っているのか)
木蓮は手のひら大の小さな包みにカッターナイフを差し込んだ。
(マジ虫とか|鼠《ねずみ》の死骸は勘弁してよね)
ところがその箱の中にはもっと厄介な物が入っていた。
810号室の鍵
深紅のヴェネチアンガラスの指輪
携帯電話番号が印刷された名刺
(ーーー雅樹から)
それは結婚式を控えた和田雅樹からの《《最後の愛の告白》》だった。
(ーーーなに、いつでも来いって事なの)
木蓮はそれを箱ごと燃えないゴミの袋に捨てようと立ち上がったがその膝はフローリングの床に崩れた。
(捨てられる訳ないじゃないの!)
部屋を見回した木蓮はクローゼットの上に埃まみれの茶色い箱を見つけた。ドレッサーの椅子を運ぶと背もたれに掴まり背伸びをした。
「おおおおっと!」
椅子の脚が傾き一瞬均衡を崩し掛けたがなんとか持ち堪えた。
「ーーーうっわ、埃くさっ」
ウェットティッシュで表面を拭くとそれは木彫りで臙脂色のビロード張りのオルゴールだった。金具はやや錆びているが少し力を入れれば蓋は簡単に開き、中には小さな鍵が入っていた。
(音は鳴るのかしら)
木蓮はオルゴールを裏返しツマミを巻いてみた。
(ーーー無理か)
ツマミは巻き戻る事は無くうんともすんとも言わなかった。
(これが良いわね)
木蓮は鍵が掛かるこのオルゴールに雅樹からの《《最後の愛の告白》》と自分の想いを閉じ込めた。
ーーーーーーー
数日後
荘厳なパイプオルガンが奏る静粛な時間。祭壇には白いタキシードを着た雅樹が花嫁を待っていた。
(ーーー雅樹)
「新婦様、お父様のご入場です」
マホガニーの重厚な扉、その光の中には睡蓮が立っていた。白いチュールレースのウェディングベールはシャンパンゴールドのドレスの裾に波打った。ヘッドドレスには水面の様なアクアマリンのスワロフスキーが光を弾き、八重咲の薔薇のウェディングブーケにはシャンパンゴールドのサテンリボンが螺旋を描いた。
(睡蓮、綺麗だわ)
睡蓮はモーニングを着用した父親の肘に手を添え2人で深々とお辞儀をし深紅のバージンロードを静々と歩んで来た。父親は感極まり既に目元が赤く腫れている。参列席には八重咲の白い薔薇と白いサテンリボンが飾られそれは一直線に祭壇の雅樹へと続いていた。
「汝、|和田 雅樹《わだまさき》は、この女、|叶 睡蓮《かのうすいれん》を妻とし、良き時も悪き時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」
「誓います」
「汝、叶 睡蓮は、この男、和田 雅樹を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、夫を思い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻のもとに、誓いますか?」
「誓います」
結婚指輪の交換が行われ、雅樹は睡蓮の左の薬指にプラチナの指輪をゆっくりと嵌めた。木蓮の頬には真珠の様な涙が溢れ、心中を察した伊月はハンカチを差し出しその右手を優しく握った。
(あの隣に私が居たかった)
重々しい教会の鐘の音が頭上で鳴り響く。雅樹の肘に手を添えた睡蓮が横を通り過ぎる。その頬は桜色に色付き聖堂の外で薔薇の花弁を撒く親戚や友人に微笑み掛けていた。
(ーーー木蓮)
不意に雅樹の視線が木蓮に注がれ時間が止まった様な気がした。
「木蓮」
「あ、ごめん」
伊月は雅樹を睨みつけると木蓮の肩を抱き寄せた。その姿を目の当たりにした雅樹は一瞬驚いた表情をして見せたが会釈をし視線を下に落とした。
新婚旅行はハワイ、ラナイ島を選んだ。睡蓮には初めての飛行機、初めての海外旅行、そして雅樹との初めての夜を迎える。本来ならば挙式後翌日には出発するところだが雅樹の業務都合で日本出発は翌々日となっていた。
「睡蓮、伊月くんが来るから今夜はうちで泊まりなさい」
「先生が、どうして?」
「海外への旅行が身体に障るのではないかと心配されてね」
「ーーーやっぱり影響があるのかしら」
「あちらは乾燥しているらしいからね」
「ーーーそう」
睡蓮は常用薬が妊娠出産に悪影響が有るのではないかとの懸念を抱くようになり自己判断で服用を中止していた。ブラウスの上から聴診器をあてた伊月は不可思議な面持ちになった。
「睡蓮さん、呼吸が乱れていますが薬は飲まれていますか?」
「え、と、は、はい」
その面差しの変化を伊月は見逃さなかった。
「睡蓮さん、自己判断での服用中止は危険ですから処方された通りに続けて下さいね」
「あの、先生」
「はいなんですか」
「お薬は、赤ちゃんに影響はありますか?」
睡蓮の口から「赤ちゃん」という言葉を聞いた伊月はなんとも微妙な気持ちになった。それは木蓮が《《どこかに泊まった》》と聞いた時よりも胸の内が騒めいた。長年恋焦がれた睡蓮がとうとう人妻になるという事実、以前木蓮に「睡蓮が幸せな事が自分の幸せ」だと断言した筈がそうではない自分が居る事に気が付いた。
(なにを馬鹿な事を、私は木蓮の婚約者なんだぞ)
「睡蓮さん」
「はい」
「喘息の方でも妊娠、出産をされていますよ」
「そうですか」
安堵するその横顔に胸が痛んだ。
「ご心配な様ですから産婦人科への紹介状を書いておきます。旅行から戻られたら一度いらして下さい」
「ありがとうございます」
「ネフライザーの予備はありますか?」
「はい」
伊月は蓮二と美咲に頭を下げると聴診器を鞄に仕舞い、周囲を見まわした。
「今夜は、木蓮さんは」
「婚約のお祝いだのなんだのと街に出掛けて行ったよ」
「そうですか」
「手の付けられん娘だが宜しく頼むよ」
「はい、それでは失礼致します」
睡蓮は和かに手を振りながら伊月を見送った。
「先生、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
睡蓮の穏やかな雰囲気、血色の良い肌、伊月はその微笑みを与えられる相手が自分で無かった事を悔しく思った。
「おやすみなさい」
「あぁ、まだ冷えるから暖かくして寝るんだぞ」
「やめてよ、子どもじゃないんだから」
睡蓮はあと1日でこの自室で眠る事も無くなるのだと感慨深く手摺りに掴まり階段を上った。あと数段というところで途切れ途切れにオルゴールの音が聞こえて来た。それは父親が誕生日に買って来てくれたおもちゃの木製のオルゴール、小さな鍵が掛かる子ども心にも気分が弾む物だった。
(ーーーメリーさんの羊)
それは木蓮の部屋の中から聞こえて来た。
(木蓮は出掛けているのよね)
そっと扉を開けて見たがやはり部屋の中にその姿は無かった。暗がりに目を凝らして見ると廊下の明かりに照らされたドレッサーの上に《《それ》》が有った。悪いとは思ったが急に鳴り出したオルゴールの音に惹かれ睡蓮は四角い箱を持ち上げた。裏返すと錆びたツマミがゆっくりと回っていた。
(ーーー鍵は掛かっているわね)
興味本位だった。
(私のオルゴールの鍵でも開くのかしら)
睡蓮は自室のチェストの上に置いてあったオルゴールの蓋を開き、中から小さな鍵を取り出すと踵を返して木蓮の部屋に駆け込んだ。ゆっくりと曲を奏でるオルゴール、その鍵穴に鍵を差し込み右に回すとそれは《《開いた》》。
カラカラカラ
何かが転がる音、蓋を開けた睡蓮の表情は凍り付いた。シーリングライトのスイッチを押すと光を弾く深紅のヴェネチアンガラスの指輪、見た事のない810号室と書かれた鍵、夫の名刺。
(どういう事!?)
睡蓮は見てはならない物を見てしまった。
成田国際空港のロビーには和田家、叶家、そして木蓮の姿があった。
「いってらっしゃい」
「気を付けてね」
伊月は病院勤務の為、睡蓮と雅樹の新婚旅行の出立を見送る事は出来なかった。然し乍らそれで良かったのかもしれない。何故なら笑顔で送り出す筈の木蓮の表情は固く沈んだものだった。
(伊月、あんたは来なくて正解よ)
教会で参列者席から見上げた睡蓮のウェディングドレス姿、雅樹のタキシード姿に伊月と木蓮は言葉を失った。特に伊月は中学高等学校以来10年以上の間、睡蓮に思いを寄せていた。
(ーーー見ていられないわ)
それは木蓮が雅樹と出会い恋焦がれた半年そこそこの恋情とは比べものにならない。
「いって来ます!」
満面の笑顔の睡蓮はチェックインカウンターで手続きを済ませる雅樹に寄り添い、手荷物検査場、搭乗口に向かう間、《《木蓮に見せ付ける》》様にその肘に手を添えた。飛行場を見渡すデッキ、搭乗口から飛行機へ向かう通路内も二人は腕を組んで歩いていた。
(ーー雅樹、あんたは睡蓮を私と同じ様に抱くのね)
ジャンボジェット機の車輪は胴体に格納され青空へと飛び立った。
「雅樹さん、見て、見て!街がおもちゃ箱みたい!」
「あぁ、本当だ」
「飛行機って雲の上を飛ぶのね」
「睡蓮さんは」
「国外旅行は初めてなんですよね」
「はい!」
睡蓮は昨夜のオルゴールの箱の事は見なかった事にしようと心に決めた。あの指輪、いやそれ以上に気に掛かる810号室の鍵、知ってはならない知らない方が良いとそう思った。
(雅樹さんを信じるしかない)
「ーーーん、どうしました?」
「どうって」
「顔色が悪いですよ、酔い止めの薬を貰いましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
突き抜ける青空、ダニエル・K・イノウエ国際空港に着陸したジャンボジェット機の機内通路、到着ロビーへと向かう連絡通路で雅樹は睡蓮の手を取り彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。
(ーーーそうよこうやってゆっくり年を重ねれば)
年を重ねれば雅樹は自分を木蓮のように激しく愛してくれる様になるのだろうか、答えは分かっていた。当たり障りの無い会話、穏やかな笑顔、そこに本当の和田雅樹の姿は皆無だ。
「睡蓮さん、車が迎えに来ていますよ」
「はい」
(結局、私は《《さん》》呼びなのね)
空港ロビーでは南国の匂いが二人を歓迎したが睡蓮と雅樹を取り囲む雰囲気はそれに見合う物では無かった。車寄せには黒いロールス・ロイスの運転手が待機していた。宿泊先はラナイ島のフォーシーズンズ リゾート ラナイ。
「ーーー海!」
「エントランスから海が見えるのか、綺麗な海ですね」
「泳いでみたいわ」
「泳げるんですか?」
「泳いだ事はないの」
エントランスの向こうには椰子が真っ直ぐに青空へと背伸びし、水平線が白く烟る浅青の海が煌めいていた。
どこまでも続く青。
(ーーーあいつなら飛び込んで行きそうだな)
睡蓮がウェルカムドリンクで冷を取っている間に雅樹はチェックインの手続きを済ませた。旅行会社が手配したチェックインシートに並んだローマ文字。
MASAKI WADA
SUIREN WADA
ボールペンを走らせサインをする瞬間、違和感と切なさを覚えた。
(和田、和田木蓮)
あれは1年前。
出張先のイタリアで探し出したこぢんまりとしたガラス工房での出来事だ。
<いらっしゃい>
木戸を開けた瞬間、雅樹の目に映ったのは木枠の陳列棚に並んだ色彩豊かなガラス棒だった。店の奥から白髪で丸眼鏡を掛けた高齢のガラス職人が顔を出した。
<お客さん、贈り物かい>
<女性なんですが>
<そのお嬢さんと会った時、瞬間的に感じた色は>
「ーーー赤」
<なんだって?アジアの言葉は分からん>
<赤、あの赤であれで指輪を作って下さい>
<あの色か!情熱的なお嬢さんだな!>
|溌剌《はつらつ》とした夏の花を思わせる無邪気な笑顔、飾らない言葉、にも関わらず家族や睡蓮に対する思い遣りは白く包み込む木蓮の花を連想させ雅樹を虜にした。
<白い花の模様は付けられますか>
<雛菊か>
<いえ、これです>
雅樹は携帯電話で画像検索し木蓮の花を見せた。
<あぁ、マグノリアか。じゃあ明後日取りに来てくれ>
<お願いします>
<代金は先払いだぞ>
その深紅の指輪に木蓮の名前を彫って欲しいと依頼した時、日本で睡蓮との縁談話が進んでいるとは思ってもみなかった。
「お待たせ」
「ありがとうございます」
「ポーターが荷物を運んでくれるから行こう」
「はい」
差し出す手のひらに睡蓮の手が握られる。傍目にはラナイ島に訪れた新婚夫婦だろう。そんな2人の内情は微妙だった。
「落ち着いた造りですね」
「平屋建てだから階上の物音に悩まされる事もないよ」
24室の別邸へと続く回廊はベージュを基調とした土壁で仕上げられていた。窪みにはキャンドルが置かれ夜にはライトが灯るのだと言う。
「素敵」
「気に入った?」
「はい」
「なるべく緑が多いホテルを選んだんだ」
「どうして?」
「少しでも湿気があれば喘息にも良いかと思って」
睡蓮はその心遣いに感動した。
(嬉しい)
こうして寄り添い暮らしてゆけばやがて子どもにも恵まれるだろう。《《木蓮なんて関係ない》》、気にする必要など無い。
「ありがとう」
ポーターが鍵を開けて5泊6日分の荷物を運び込む。チップを渡し扉が閉まると静けさが広がった。遠くに波の音が聞こえる。
「ベランダから海が見えるのね」
「少し狭いかな」
「そんな事、ない、です」
開放的なベランダから海が一望出来るオーシャンフロントのスタジオスイート。白を基調としたインテリアとファブリック、キングサイズのベッドがその大半を占めていた。
「ーーーベッド」
「そうだね」
あれ以来、睡蓮と雅樹は口付けを交わしていない。睡蓮は雅樹が自身に触れようとしない原因が《《木蓮なのではないか》》とそう考えた。そして雅樹は睡蓮に810号室の木蓮を重ねた。
バナナの葉に包まれた南国料理、香辛料の効いた海産物、2人はシャンパングラスを傾けココナッツミルクのデザートに舌鼓を打った。
「ホテルのディナーも良いけれどやっぱり睡蓮さんの料理が美味しいよ」
「ーーーーもう!」
「なに、牛みたいな声出して」
「さん、さん付け呼びは結婚したら止めるって言ってたじゃない」
「ごめん」
「呼んでみて?」
雅樹は顔を赤らめ、睡蓮はカトラリーを手に首を傾げた。
「呼んでみて」
「す、すいれ」
「呼んでみて」
「睡蓮」
「やだ、恥ずかしいーーーー!」
「睡蓮さんが呼んでみてって言ったから」
「ふふ、雅樹」
「睡蓮」
キャンドルのライトを|挟《はさ》み向かい合う二人は微笑ましい新婚夫婦だ。頬を赤らめながらシャンパンをオーダーする睡蓮の横顔は幸せそのもの。雅樹は小さく溜息を吐いて「これで良いのかもしれない」そう思った。
「ご馳走様でした」
「美味しかったね」
薄暗がりの土塀にキャンドルの灯火が揺れ風に騒めく椰子の葉、何処からか南国の鳥の鳴き声が聞こえて来た。
「酔っちゃった」
そう呟いた睡蓮は雅樹の腕にしがみ付いた。
(ーーーそっくりだ)
斜め45度から見下ろす睡蓮は木蓮に瓜二つだ。
「なに、なーーんか付いてる?」
「睡蓮、顔が真っ赤だよ」
「えへへ、シャンパン沢山飲んじゃった」
「そうだね、いつもあんなに飲むの」
「私ぃ、お酒はあまり飲まないの」
シャンパンを何杯もオーダーした睡蓮の足元は覚束なく身体からもアルコール臭が漂って来た。ふらつく肩を支えるとそれは華奢で木蓮とは違っていた。木蓮はどちらかと言えば標準体型、程よい肉付きで柔らかかった。
(ーーー細い)
喘息を患う睡蓮は全体的に華奢で触れると壊れそうな雰囲気を醸し出していた。面立ちは同じでも体格は生活環境で異なるという事を雅樹は初めて知った。
(これなら出来るかもしれない)
雅樹は今後の性生活について不安を抱いていた。追い求める木蓮の姉に身体が反応するのか気が気では無かった。そして睡蓮は飲み慣れないアルコールに身を任せ、《《はじめて》》の夜への恥じらいと緊張を解そうと懸命になっていた。
雅樹がシャワーブースから出て来ると天蓋が海風にそよぐキングサイズのベットの上にキャミソール姿の睡蓮が腰掛けていた。
「睡蓮、海風は身体に障るから閉めないか」
「このままで良いですか」
「分かった」
しっとりと濡れた亜麻色の髪、伏せ目がちな黒曜石の瞳。アルコールの酔いが醒め始めた睡蓮は雅樹から目を外らせた。
「怖いなら止めておく?」
睡蓮は首を横に振った。
「ーーー続けて下さい」
睡蓮の背中に雅樹が手を添え肢体はゆっくりとマットレスに倒された。唇が近付き思わず目を閉じる。
(ーーーあ)
睡蓮は雅樹から受ける初めての口付けに身体を強張らせた。木蓮に負けたくない一心で咄嗟に雅樹の唇を奪っていた時とは違う、柔らかくしっとりと吸い付く感触。
(え、なにこれ)
やがて舌が口腔内を這い回り睡蓮は酷く戸惑った。
(なに、なにこれ!)
「あ、ごめん。初めてだった?」
「はい」
雅樹の指先は恐る恐る胸の膨らみに触れ、突起を唇で啄んだ。
「ーーーあ」
(感じては、いるのか)
然し乍ら睡蓮とのセックスは木蓮との本能に赴くままの情熱的なセックスとは異なり、まるで説明書をなぞる様な醒めたものだった。雅樹の手は睡蓮の細い足首を掴み大きく広げた。
(ーーー)
睡蓮は顔を両手で隠したまま微動だにしない。薄い茂みに指を当てがうと水から飛び跳ねた魚の様に身体を反らせた。膣口は塞がったままで広がる気配はなかった。ゆっくりと指先を押し進めると滑り気を感じる膣内へと辿り着いた。前後させる度に腰が恐怖で震えているのが分かった。
「睡蓮さん」
「ーーーは、はい」
「止めておきましょう、すごく緊張している」
「大丈夫です」
雅樹は身を起こすと睡蓮の髪の毛を撫でながら優しい声色で囁いた。
「睡蓮さん《《も》》初めてなんでしょう」
睡蓮は一瞬、聞いてはならない言葉を耳にしてしまった。雅樹は何事も無かったかのように睡蓮に掛け布団を掛けると背後から抱き締めた。呼吸はやがて寝息へと変わる。
(ーーー810号室)
睡蓮の頬に涙が伝った。
その後、4日間の夜を共にしたが睡蓮と雅樹が交わる事はなく、雅樹は手足を強張らせたままの背中を抱きしめて朝を迎えた。
(睡蓮、どうしたんだろう)
雅樹は酷く困惑した。睡蓮は言葉少なで始終何かを考え込んでいる様で居心地が悪かった。それは以前2人で出掛けた白川郷へのドライブを連想させた。
「あぁ、日本の空気だね」
「そうね」
「体調が悪いの?」
「元気よ」
成田国際空港に降り立つ連絡通路に差し掛かると睡蓮は雅樹から距離を空けて歩き始め振り向きもしない。
「睡蓮、どうしたんだ」
「どうもしないわ」
「睡蓮!」
睡蓮は無言で雑踏の中を脇目も振らずに歩いて行く。ハワイへと出立した時の笑顔は消え失せその態度の豹変ぶりに戸惑った。睡蓮は雅樹に抱かれる事なく処女のまま新婚旅行を終えた。