陽も西へ堕ちる星と為る頃、私は、トリニティの中庭で見渡していた。
辺りには、講義へ急ぐ者、残った時間を趣味で潰す者、意味もなくぶらつく者など、十人十色だ。
「中々の平穏だな」
長年の勘と云うだろう。
安静の地を求める数多の人で構成されるこの世界というのは、外も中も地獄と等しいとは
聞いたが、案外にもそうではないようだな。
丁度、木陰がかかるベンチを見つけた所で、私は腰を下ろした。
暫しの茶の薫りを合うような平穏に浸っていた所、突如、空に人影が映り出した。
「おや?」
先程絡んできた人と同じような人が私へ落ちていっているようだ。
私は妖精を宿らせ、軽く弾いた。
ガキン!
「ぐっ!?」
…余計な傷を刻んだ気がするが、 本が少し汚れるほどの些細な事だ。
ダッダッ
「すいませーん!」
「ん?」
道の向こうから走ってくる人。どうやら私に用がありそうだ。
「今ここに、人が飛んでこなかったっすか?」
「ああ、其奴なら」
ベンチの側で倒れている人を指差す。
「あぁ、ここにいたんですね、ありがとうっす!」
「にしても傷だらけじゃ…」
私は沈黙を保つ。
「あ、そういえば…」
「君、ヘイローついてないっすね」
「冒険家さ、ここで少し羽休めしてたのでな」
「あー?待ってくだいさいっす…」
前兆もなく、考え込んだが、すぐさま私と視線を合わせた。
「まぁいいっか!すいません、私の先輩が少し暴れちゃって…」
「元気があるとは良い事だな」
「はは…」
「じゃあ、この子回収して戻りますね!」
「ふむ、そうだな」
「ん?どうしたんっすか?」
「もしやり遂げたらなら、少し話し相手になってくれないか?」
そうさ、この都市をもって探求したい。
「えぇ?まあ、別にいいっすけど…」
「そう、有難いね」
「なら私はここで待っておるからな」
「わ、分かりましたっす」
そう言った仲正イチカは、自分の場所へ急ぎ足で帰った。
「待っていたぞ、イチカ」
「はは、なんとか終わらせて戻ってきたっすよー」
小一時間ほど、待っていればイチカは迷う事なくこちらへ向かってきた。
「少しは躊躇うと思っていたが、かなり大胆だな」
「私がお前を攫うと考えてたらどうしたものか」
「攫われても大丈夫なんで…それと」
「別にそんな事考えてないっすもんね」
「そういうならそうだろうな」
「ありゃ?」
「あ、そういえば私、いいカフェ知ってるんすけど」
「よかったらそこで話でもしませんか?」
「手厚い配慮をどうも、では言葉に甘えて…」
イチカは、前進する。
「それじゃあ、行くっすよ!」
「まさか、ここまで手扱ってくれるとはな」
「だって、ここの通貨持ってなさそう…って思ったからすかね」
「ふふ、それにしても…」
「おや?紅茶苦手っすか?」
「否、良い薫りだとな」
「合いそうでよかったっす!」
イチカは読心術でも操っているかのように、立て続けに物事が進んでいる。
こんな道端に、これ程もない薫りの紅茶があるとは。
お互い、紅茶を嗜む静寂な時間をひと時過ごし、私から口を開く。
「イチカよ、お前の属する組織は如何なるものだ?」
「私っすか?正義実現委員会っす」
「正義か…」
「まあ、実質警備組織ですけど」
「成程」
正義程、不確定で不安定なものはない。
正義とは、俗に己の思考の押し付けだ。
正義と名乗れば、如何なるものも己の都合の良く湾曲させることだってできる。
それが都市の意志による導き。
だが、この都市と等しいことでもないだろう?
「正義とは…如何なるものだと考える?」
「え?急に哲学的な…」
「私の箪笥にはこれといった噺しかないのでね」
「教師でやってたんっすか?」
「其れ程私の身分でも訊きたいのかい?」
「あぁ、まぁいや…」
「ふむ、それで正義とは如何なるものだと考えるかね?」
「正義っすか?それは、正しい行いをすることですよね?」
「辞書から引いたもので有ればそうだろう、然し私が欲するのはそう単純ではない」
「ん?」
イチカは当然だと口を開きそうな顔だ。
「今までに、正義と謳う者も居ただろう?」
「そっすね、そんなこと言ってる人ほど、とんでもないことしてますけどね…」
「では、其れが正義だと考えたことはあるか?」
「無いっすよ、一度も」
「私が言いたいのはお前が掲げる正義が正しくあるかだ」
「あー、そういう感じっすか」
「如何にも」
「でも、私の周りの人達はそういう目で見られたりは…」
「手が届く領域なら…だが罪者達は勿論、無関係の者からはどう観られてるかね」
「その領域がこの都市の大部分では無いだろう?」
「その大勢に不正と定義されたなら、お前の正義は揺らぐだろうか?」
「うーん…」
イチカは暫く思考を巡らせた後、予想外の言葉を口に出した。
「私達、よく悪く見られたりしてまっすから…それに」
「私達の正義は決して変わらないっすよ」
「なかなかの信念を持っているな」
「ふふ…あ、冷めちゃったっすね?」
「冷めた紅茶は嫌いかい?この余韻もなかなか味わえるぞ」
「そうっすね…勿体ないし、飲みますか」
その後は、しばしば雑談を挟み紅茶を堪能した。
「そろそろ、時間が迫ってきているのではないか?」
「えっ?あ、もうこんな時間っすか?」
「もう済んだことだ、日が沈まぬ間にさっさと戻っておくれ」
「ありがとうございます、では!」
立つ鳥跡濁さずだな。イチカはもとの場所へ素早く戻り、
私は1人になった。
“ここにいたんだね”
「おや?」
此処に訪れてから聞き馴染みない声、男の声だ。
振り向けば、白を基調としたジャケットを羽織り、あるマークが刷られたプラカードを
首に下げた男が私へ練り歩いてきた。
“ビナー…で良いのかな?”
「お前は…」
目を凝らすと、先程のプラカードには『シャーレ』と書かれている。
この者は、あの“シャーレの先生”か。
「成程、シャーレの先生か」
「お前も同じく女性だと考えていたがまさか男性とはな」
“まあ、こんな世界だったらそう思っちゃうよね”
「それはさておき、如何なる理由で私の元へ訪れてきたのか?」
“ナギサから連絡があってね、しばらくは私のところで引き取る事にしたんだ”
「まるで幼き者を扱うようだな」
“はは、まあ初めての事態だからこっちが上手く対応しないとだし”
「初めて?」
“ここで話すのもなんだし、オフィスに行ってから話そうか”
「私は立ち話は好まない者なのでね、そうさせてもらおうか」
シャーレの先生によって連れられたオフィスと云われる場所は、
天に届きうる高さと都市に馴染む色で塗られたビルだ。
室内に入れば、商業施設顔負けの様々な機能がその中に詰められていた。
シャーレの先生が云うには、生徒の為だと云っていたが、其れでも膨大だ。
エレベーターへに乗り、このビルを上に突き進んでみれば、シャーレの先生の職場と云われる
部屋へ導かれた。
其の部屋とやらも、図書館の様な物揃いで其れ等は一種の神秘を漂わせていた。
“ようこそ、シャーレへ”
「相当良い場所だな、手に余るだろう?」
“はは、流石に規模がでかいよね、これも生徒のためだから”
「それでは、私は腰を下げるとしよう」
“ここにあるソファでも使ってもいいよ”
「すまないが、硬い椅子が好みなんだ」
“はい、どうぞ”
「有難いね」
椅子用意したシャーレの先生は、準備を済ませたのち書類が載った机に座り、向きあった。
“さーて!やるか! ”
「お前の為すべき事は、本当にお前の荷に合うものか?」
“私は先生だからね。これぐらいやれないと”
「時には逃げても良い事を忘れないでことだ」
永く待っていたが、シャーレの先生は、未だに減らぬ書類と向き合っている。
部屋から見える空は、すっかりと星が浮かび上がる黒い空と塗り替えられている。
「もう良い時間ではないか?」
“え?何が?”
「休息さ。幾ら働こうとしているのだ?」
“それは、もちろんこの書類全部処理するまで”
「…人という存在はいつしか限界が訪れるものだ」
「少しでも限界を引き延ばすのに、休息は存在するのさ」
“でも…”
「お前は何かに縛られているのか?責任に駆られる人こそ限界を迎えやすい」
「ほら、一旦休んで此方にいらっしゃい」
“…いやぁ、はは”
苦笑いしてシャーレの先生は、言葉に従い、私が座る席の向こうで腰を下げた。
「シャーレの先生よ、お前は普段コーヒーでも飲んでいるのかい?」
“眠気覚ましにね、もうこれなしじゃ生きられないよ”
「相当なコーヒー中毒だな、どっかの坊やに似ているよ」
「だがお前の様な人には紅茶が勧められている」
“え?そうなの?”
「一つに気分転換で紅茶を嗜む者が一般的だ」
「それと…ほれ、紅茶だ」
雑談の内、お湯が沸いた様で、私は紅茶を労いを添えて注いだ。
“ありがとう、ビナー”
「では先程の続きだが、紅茶は仄かな甘味と芳ばしい薫を有している」
「其れ等が構成する成分は、眠気覚ましに効くと云われる」
“紅茶ってカフェイン入ってるんだ、でもコーヒーの方が…”
「自ら苦味を味わいにいくのかい?甘味と薫から始まる黎明も中々ではないか?」
“うーん、私はあの苦味が好きなんだけどね〜”
「物好きな奴だな。」
“はは、じゃあありがたく…”
コーヒー中毒にも関わらず、シャーレの先生は幸福を発見した顔で紅茶を嗜む。
安価な紅茶だが、定番な薫も又楽しいな。
「よく紅茶の薫を味わってくれ」
時刻も戌の刻。そろそろ伺っても良いだろう。
「さて、お前に訊きたい事がある」
“うん?”
シャーレの先生は、既に嗜んだ後だ。
感情が揺らいだ様だが、直ぐに笑みを浮かべる。
「お前は何かと異端だな」
“異端?男だから”
「物事には幾つか結び付かれる糸があるのだ。私はもう一反を伺いたいのだよ」
「では訊こう。如何にして脆く尊い身体でこの地獄に乗り込んできたのか?」
“地獄?ここが?まさか私にとっては天国だよ”
「其の天国は、死後の黄泉の国の隠喩か?」
“君はそんな目で見ていたのか?”
「如何にも」
そう肯定すると、シャーレの先生の表情は少し歪んだ。
此奴にとって、この都市に何か意味を持っているのか?
「お前は好んで地獄に行く者か?」
“そうだよ”
「では如何なる意味が?」
“どうして地獄だと思ったんだ?”
「論点をずらすとはね…まあ良いだろう」
「この都市では、如何なる瞬間でも死の境界が引かれている」
「特に天輪を有していないお前にとってな」
“…ヘイローか”
「如何にも。其れでも私は、お前が縛られる理由がある考えている」
“理由ね…“
シャーレの先生は永く悩ませていたが、やっと其の答を口に出した。
“…悪いけど、それには答えられないかな…”
“私には、ここにいる理由が分からない。動機も誰かに連れてかれたかも分からない”
“何もかも分からなかった初めは、逃げ出したい気持ちもあった”
「なら逃げれば良かったのでは?」
“うん…だけどね”
シャーレの先生は言葉を詰まらせたのち、答えた。
“やり遂げないといけない使命がどこかにあったんだよ。それだけ”
「其の理由でしがみついているのか、哀れだな」
“哀れだね。だけど今日を頑張らない理由にはならないさ”
“理不尽だけど、生き甲斐もあるからね。今は楽しんでいるよ”
「自由人め」
“ま、自由かって言われたら違うかもね”
“さーてと”
シャーレの先生は腰を上げ、再び書類が載せられた机に向かう。
「…星を導く者か」
今宵の二等星は、より仄かに煌めいているようだ。
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