最初にミュートにしたのは、酔っぱらいの笑い声だった。
金曜の夜、終電一本前。
吊り革につかまりながら、俺はスマホを握りしめていた。
新しく入れたばかりのアプリ「MuteField」の画面が、まだ見慣れない青で光っている。
「現実世界の“うるさいもの”をミュートしましょう」
ストアの説明には、そう書いてあった。
ARフィルターとノイズキャンセルを組み合わせた、だとかなんとか。
よく読めば胡散臭いが、そのときの俺は、目の前の光景にうんざりしていた。
「マジでさあ! 課長がさあ!」
向かいの席で、スーツ姿の三人組が大声で騒いでいる。
ビール缶を片手に、椅子に浅く座って、大笑い。
会社の愚痴、他部署の悪口、酔いぐさり。
耳をふさぎたくても、両手は鞄と吊り革で塞がっていた。
そのときだ。
アプリのカメラを彼らに向けると、画面上に薄い赤枠が浮かび上がった。
人物を認識しました、という小さなポップアップ。
そして、その下に、丸いミュートボタン。
[この対象をミュートしますか?]
迷うほどのこともなかった。
親指で軽くタップする。
世界から、音が一つ消えた。
酔っぱらい達はまだ口を動かし、身振り手振りで盛り上がっている。
だが、その声だけが、完全に聞こえない。
周囲の車輪の音、人の咳払い、アナウンスは普通に届いてくるのに、その三人組だけが、動画編集ソフトで音量をゼロにされたように黙っている。
「……マジか」
思わず声が漏れる。
なんだこれ。イヤホンもしてないのに。
アプリの左上には、さっきまでなかったアイコンが追加されていた。
ミュート中:3
試しに、彼らからスマホを外しても、ミュートは続いていた。
アプリを閉じても、電源ボタンを押して画面を真っ暗にしても、彼らの笑い声は戻ってこない。
代わりに、耳の奥には、しんとした安堵だけが広がっていた。
その夜、ベッドに入ってからも、俺は何度かアプリを開いては閉じた。
「バグだろう」と思う一方で、「もっと使えそうだ」とも思っていた。
◇
翌週の月曜。
朝イチの定例会議。
例によって課長の説教タイムが始まった。
「だから君ね、メールのCCの付け方がだな――」
俺の名前を呼ぶ前から、だいたいの内容は予測できる。
先週に送った報告書の行間まで読まれて、あれがどうとかこれがどうとか。
別に間違っていたわけではない。ただ、課長の“こだわり”に合わなかっただけだ。
丸椅子に座りながら、机の下でそっとスマホを開く。
スピーカーフォンみたいに喋り続ける課長に、カメラを向けた。
画面上に、また赤枠が浮かぶ。
「人物を認識しました」
そして、あの丸いボタン。
[この対象をミュートしますか?]
一瞬だけ、罪悪感がよぎる。
でも、すぐに、「テストだから」と自分に言い訳をした。
人類はボタンがあれば押す生き物だ。
タップ。
課長の口は、まだ動いている。
スライドを指しながら、身振りも大きくなる。
だが、その声だけが消えた。
代わりに、天井のエアコンの音、隣の席のボールペンのカチカチいう音がくっきりと聞こえ始める。
静寂というより、音の解像度が変わった感じだ。
「あ、これ、やばいな」
ミュートされた課長のセリフは、周囲の同僚達には普通に届いているらしい。
皆、真面目な顔で頷いたり、メモを取ったりしている。
俺の席だけが、世界から少し浮いているような気がした。
会議はいつもより短く感じた。
課長の声がないぶん、俺の頭に入ってくる情報は必要最低限になった。
部屋を出ると、スマホの画面に小さな通知が出た。
MuteField:ミュート中の対象が増加しました(合計4)
あの酔っぱらい三人と、課長。
合計四人分の声が、俺の世界から消えている計算だ。
通知をタップすると、アプリが開き、「ミュート・リスト」が表示された。
金曜夜の酔客A(自動識別名)
金曜夜の酔客B
金曜夜の酔客C
課長・○○
各項目の右側には、小さなトグルスイッチ。
[ミュート中]/[解除]
指をかけてみて、やめた。
どうせまた今週も課長の説教はある。
だったら、このままミュートしておいた方が、精神衛生上いい。
そのときは、本気でそう思っていた。
◇
三日後。
徐々に、違和感が積もってきた。
課長の声が聞こえないのは快適だ。
会議での時間も、耳は自由だし、メモも邪魔されない。
けれど、ある瞬間、何を話していたのか全く思い出せないことに気づいた。
「さっきの会議、どうでした?」
同僚の山田が聞いてくる。
彼はあまり課長に反発しないタイプだ。
「ああ……なんか、残業の…話?」
「え、そこだけですか? 結構がっつり、来期の体制とか説明されてたじゃないですか。
○○プロジェクトの件で、田島さんがリーダーになるとか」
俺の名前だ。
「マジ?」
「いや、マジです。
“本人の前で言ってやるのはプレッシャーをかけるためだ”とか何とか。
怒られてたから、逆に聞いてなかったんですか?」
聞いてない、というより、聞こえていなかった。
ミュートされた音声は、俺の世界から完全に抜け落ちる。
会議中、課長の口がどう動いていたかは覚えているのに、内容はゼロに近い。
スマホを取り出し、こっそりミュートリストを開く。
トグルスイッチは、相変わらず「ミュート中」のままだ。
指が、すこしだけ震えた。
――解除すればいい。
そう思いつつも、ボタンに触れられない。
今さら課長の声を取り戻したら、もう一度あの説教が始まりそうで。
怒鳴られた記憶がまとめて襲ってきそうで。
その代償として、大事な話も一緒に聞き逃しているのだとしても。
◇
ミュートの快楽に気づくと、人は加速する。
電車で子どもの泣き声がした。
アプリを開いて、ミュート。
次の瞬間、あどけない顔がただ口を歪めている映像だけが残る。
カフェで隣のカップルが大声で喧嘩していた。
ミュート。
動きと表情だけを見ていると、不思議なサイレント映画みたいだ。
家に帰れば、テレビのワイドショー。
芸能人の大げさなリアクション。
コメンテーターの説教じみた声。
テレビまるごとミュートすることもできたが、画面に映る司会者個人だけをミュートしたりもできた。
会社では、オープンスペースを歩きながら、タイピング音のうるさい同僚や、電話で怒鳴る営業を次々にミュートしていった。
おしゃべりな総務のおばちゃんも、いつの間にかサイレントになっていた。
MuteFieldのカウンターは、あっという間に二桁になった。
ミュート中:27
世界から、二十七人分の音が消えている。
いや、「人」だけじゃない。
自動販売機の音、お菓子売り場のジングル、ビル前で流れる企業のPRソングもミュートしていた。
静かで、快適な世界。
仕事は捗り、頭痛は減り、夜の寝つきも良くなった。
ただ、一つだけ、気になっていることがあった。
ミュートした対象のことを、だんだん思い出せなくなってきたのだ。
◇
水曜日の夜、自室のベッドでぼんやりと天井を見ていたときのこと。
「……俺、いつから一人暮らしだっけ」
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
ワンルーム。築五年。会社まで電車で三駅。
家具の配置も、自分で決めた。
でも、引っ越しのときの記憶がすっぽり抜けている。
ダンボールを運んだ友人の顔。
手伝いに来てくれたはずの誰かの笑い声。
そういうものが、一切、思い出せない。
スマホを手に取り、ミュートリストをスクロールする。
見慣れない名前が一つ、目に止まった。
日曜日。実家からの電話。
いつもの長電話。
俺の食生活、仕事、将来、結婚の話。
何度も同じ話を繰り返す、あの声。
日曜の夕方、スーパーの袋を片手にマンションに戻る途中で、その電話を受けた記憶が、ぼんやりと蘇る。
――あんたねえ、体だけは、ほんと気をつけないと。
――ひとり暮らしなんだから、ちゃんと栄養考えて。
その瞬間、あのときの自分の苛立ちも同時に蘇ってきた。
スーパーでレジ待ちしながら、延々と続くお説教。
スマホの画面を見たら、ちょうどそこにMuteFieldのアイコンがあって。
「試しに」と、ミュートしたのだ。
「あ……」
記憶が、途中で途切れている。
母の声が完全に消えて、そのまま「電話を切ったあと」だけが残っている。
俺は画面の「母」のトグルスイッチを見つめた。
[ミュート中]
小さなボタンに、世界一重い文字が乗っている気がした。
指先がじっとり汗ばんでくる。
解除しようか。
でも、解除したら、またあの長電話が戻ってくる。
食生活の話、近所の噂、親戚の子の受験の話。
うんざりしていたはずの音が。
それより俺は、もっと別のことが怖かった。
――もし、このミュートを続けたまま、母が死んだら?
葬式の場で、親戚達が泣いている中、俺だけが母の声をろくに思い出せない――
そんな未来が、一瞬で脳内に再生された。
ぞっとする。
その時、MuteFieldが勝手にポップアップを出した。
『長期間ミュート中の対象は、記憶から徐々に薄れていきます』
『ミュート継続日数:3』
「お前、勝手に説明すんなよ……」
喉が乾いて仕方がない。
冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、一気に飲む。
指はまだ画面の上で宙ぶらりんのままだ。
トグルに触れる。
スライドしようとして、やっぱり離す。
結局、その夜は、解除しないまま寝落ちした。
◇
翌日、昼休み。
社内チャットに、社報が流れてきた。
『総務部よりお知らせ:××ビルの前で、今朝、交通事故が発生しました。
警察より、当ビル入居テナントに対し、ドライブレコーダー等の提供のお願いが来ております。該当しそうな方は…』
通知を流し読みしながら、ふと画面の隅に映った写真に目が止まる。
通行止めのバー。制服姿の警官。
その背後に、ヘルメット姿の男の人が、誰かに事情を説明している様子が写っていた。
俺は、その口元を見た瞬間、違和感を覚えた。
――こいつ、声、聞いたことない。
いや、正確には「あるはずなのに、思い出せない」感覚だ。
写真の中の男は、ほぼ毎朝見ている相手だった。
ビルの前の交差点で、いつも通勤路に立っている交通整理の警備員さん。
緑のベストを着て、誘導灯を振って、「おはようございます」と声をかけてくる。
雨の日も、風の日も、同じ位置に立っていた。
うるさいとは思わなかった。
むしろ、ちょっとした慰めだった。
なのに、彼の声を具体的に思い出そうとすると、空白が広がる。
スマホを取り出し、ミュートリストをスクロールした。
そこに、見慣れない項目がある。
「……いつミュートした?」
記憶を巻き戻す。
たぶん、雨の日だった。
イヤホンをしていて、音楽の邪魔をされたと感じた瞬間。
「おはようございます!」といつもより大きな声で言われて、煩わしくなって。
反射的にアプリを開いて、ミュートした。
それだけだ。たったそれだけ。
ただの挨拶。
それを、一生分ごとミュートしてしまったのだとしたら。
俺は、リストの「近所の警備員」のトグルに触れた。
解除しようとした、その瞬間。
画面が一瞬、黒くなった。
「……あれ?」
再び表示されたとき、トグルはグレーになっていた。
ONでもOFFでもなく、押せない状態。
代わりに、小さな注釈が追加されている。
『この対象は、現実世界から退場しました』
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
心臓が嫌なリズムを刻み始める。
事故。
社報の写真。
あの警備員が、何かを説明していた光景。
あの後、どうなった?
慌ててニュースサイトを開き、地域ニュースを検索する。
朝の事故の記事が、小さく出ていた。
『××ビル前の交差点で、乗用車と男性警備員が接触。男性は軽傷』
――軽傷。
画面を見つめて、息を吐く。
よかった。死んではいない。
でも、MuteFieldは「退場しました」と言った。
それは、何を意味する?
その日の仕事は、ほとんど手につかなかった。
◇
翌朝。
ビルの前の交差点に、警備員はいなかった。
代わりに、見知らぬ若い男が立っていた。
同じ緑のベスト。
同じ誘導灯。
けれど、その人は俺を見ても、特に声をかけない。
すれ違いざまに、恐る恐る振り向く。
彼はただ、無表情で車の流れを見つめていた。
イヤホンを外しても、何も聞こえない。
MuteFieldを開いても、「近所の警備員」の項目はグレーのままだ。
『この対象は、現実世界から退場しました』
「軽傷って、書いてあったのに」
口に出してみると、それはただの言い訳にしか聞こえなかった。
退院して、別の現場に配置されたのかもしれない。
仕事を変えたのかもしれない。
いくらでも「そうじゃない理由」はつけられる。
けれど、MuteFieldの冷たい一文が、頭の中で響いていた。
もしかして、俺がミュートしたことで、何かが少しだけズレて、あの事故に影響したのでは。
そんな考えが、しつこく絡みつく。
◇
その晩、ようやく覚悟を決めた。
部屋の電気を消し、ベッドに座ったまま、スマホを持つ。
画面に浮かぶMuteFieldのアイコンが、暗闇の中でやけに明るく見える。
ミュートリストは、スクロールバーが小さくなるまで長くなっていた。
人の名前。
肩書き。
「自販機の宣伝音」「ビル前PRソング」といった機械の項目。
そして、一つだけ、他と違う項目がある。
特別:自分自身
いちばん下に、薄いグレーで表示されていた。
説明を読むと、「一定数以上の対象をミュートしたユーザーにのみ解禁される機能」とある。
自分の声をミュートする。
自分の心のノイズを消す。
そういった宣伝文句が並んでいた。
「そこまでいくと、もういいや……」
画面を閉じようとして、ふと、上の方に戻る。
リストの途中に、「母」の名前がまだ「ミュート中」で残っている。
ミュート日数:5。
注釈には、薄い文字でこう書かれていた。
『この対象のミュート継続により、記憶の欠損が進行中です』
「……嫌だな」
俺は、ようやくトグルに指をかけた。
スライドしようとした瞬間、MuteFieldがポップアップを出す。
『ミュート解除により、過去に抑圧された音声が一部まとめて再生される場合があります』
『それでも続行しますか?』
はい/いいえ。
この5日間の静けさ。
母の長電話がない週末の自由。
代わりに失いかけている、声の記憶。
俺は、「はい」を選んだ。
◇
世界が、一気にうるさくなった。
イヤホンもしていないのに、耳の奥に、膨大な音声データが流れ込んでくる。
――あんたねえ、ほんとに野菜食べてる?
――この前ね、お隣さんの息子さんがね。
――小さい頃、よくここで転んでたよねえ、覚えてる?
母の声。
日常のどうでもいい話。
同じことを十回は聞いた話。
それらが、早送りのテープみたいに再生されていく。
苦笑しながらも、涙が勝手に滲んだ。
うるさい。
でも、懐かしい。
そして、その「うるささ」の中に、自分がずっと欲しかった何かが混ざっている気がした。
――あんたが一人で暮らしてるって思うとさ。
――静かすぎやしないかなって、こっちは心配になるんだよ。
その一言で、胸が詰まる。
「……ごめん」
誰に向かって言っているのか分からない謝罪が、暗い部屋にこぼれる。
スマホを握る手が震える。
しばらくして、音の奔流はおさまった。
MuteFieldのリストを見ると、「母」のトグルはオフになっている。
ミュート日数の表示はリセットされ、「ミュート中」タグも消えていた。
代わりに、画面の上部に新しい表示が出ている。
『ミュート解除:1 記憶の復元率:部分的』
「部分的、ね」
全部が戻るわけじゃない。
消しゴムで擦ってしまった紙に、鉛筆でなぞり直すみたいに、輪郭だけが戻る。
それで十分だと思った。
俺は、連絡先アプリを開き、「母」に電話をかけた。
コール音が鳴る間、心臓がやかましく脈打つ。
「あ、もしもし」
受話口から、聞き慣れた声がする。
五日ぶりなのに、何年ぶりみたいに感じた。
「ごめん、ちょっと忙しくてさ。出られなくて」
嘘をつきながら、涙をこらえる。
本当は、忙しかったのは世界をミュートすることばかりだった。
母は、いつものように、どうでもいい話を始めた。
近所のスーパーがリニューアルしただの、猫が毛玉を吐いただの。
その全部を、俺は最後まで聞いた。
MuteFieldのことは、たぶん一生、母には話せない。
でも、話さなくていい秘密もある。
◇
翌週から、俺はミュートを減らし始めた。
酔っぱらい達。
カフェの喧嘩カップル。
部署の総務のおばちゃん。
PRソング。
エレベーターの「ドアが閉まります」。
全部は無理でも、少しずつ、トグルをオフにしていく。
解除すると、過去の音声が少しだけまとめて戻ってくる。
耳鳴りみたいに頭の中で響いたあと、すっと日常に溶け込んでいく。
課長だけは、最後まで残した。
彼を解除したとき、どれだけの説教が一気に再生されるのか、想像するだけでゾッとしたからだ。
でも、いつまでも逃げているわけにはいかない。
金曜の午後、ついにトグルをオフにした。
即座に、頭の中に、無数の「だから君はねえ!」が襲いかかってくる。
怒鳴り声。
ため息。
細かいダメ出し。
その合間に、ごくたまに、こんな言葉も混ざっている。
――そこは、実はよくやってるんだけどね。
――誰も言わないから俺が言ってやってるんだ。
面倒くさい上司の、本当にどうでもいい優しさ。
それを「どうでもいい」と切り捨てることもできるし、
こうやって一つの音として受け止めることもできる。
会議室のドアを開けると、課長がいつものようにそこにいた。
声は、普通に聞こえる。
少しうるさく、少し懐かしい。
「お、田島。ちょうどいい。
次のプロジェクトの件でだな――」
耳を塞がない。
MuteFieldを開かない。
ただ、目の前の現実の音を、そのまま受け取る。
怒鳴られ、褒められ、呆れられ。
その全部が、自分の人生のBGMなのだと、今さらながらに理解する。
◇
ミュートの数は、少しずつ減っていった。
ミュート中:6
完全にゼロにはならなかった。
どうしても我慢できない音もある。
駅前で毎朝叫んでいる宗教団体の拡声器とか、
昼間からベランダで夫婦喧嘩を実況してくる隣の部屋とか。
全部を抱え込めるほど、俺は聖人じゃない。
でも、以前のように、片っ端からミュートすることもなくなった。
ある夜、MuteFieldがアップデート通知を出した。
『新機能:「フィールド共有」』
説明文には、「自分のミュート状態を他者と共有できる」とあった。
友達や家族と連携して、共通の“静かな世界”を作りましょう、と。
画面の一番下。
小さく、共有コードが表示されている。
あなたのフィールドID:TJ-1028
誰かにこれを教えたら、その人も俺と同じ静けさを手に入れるのだろう。
でも、その代わりに、俺と同じ欠け方をするのかもしれない。
俺は、共有ボタンを長押しした。
すると、小さな選択肢が出てくる。
[共有する]
[この機能を隠す]
しばらく迷った後、「隠す」を選んだ。
MuteFieldの画面から、「フィールド共有」の項目が消える。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
「これは、俺だけのバグでいいや」
そう呟いて、スマホを机の上に伏せる。
窓の外から、夜風の音。
遠くの車の走行音。
隣の部屋のテレビの笑い声。
全部が、適度にうるさくて、ちょうどいい。
◇
翌週の日曜、母からまた電話が来た。
「ねえ、この前さ、ニュースで見たんだけど。
スマホで周りの音を消せるアプリがあるんだって?」
心臓が跳ねた。
「……へえ、そうなんだ」
「便利そうだよねえ。
お母さんも、隣の犬が夜中にうるさくてさあ。
そういうので静かにできたらいいのにって思ったんだけど」
俺は少し考えてから、答えた。
「まあ、使いすぎるとさ、静かすぎても寂しくなるよ」
「あら、珍しいこと言うじゃない。
あんた、小さい頃なんて、家の音全部止めたがってたのに」
「……そうだったっけ」
「覚えてないの?
冷蔵庫の音が怖いとか言ってさあ。
テレビも、洗濯機も、ぜんぶ止めろって泣いたんだよ」
母の笑い声が受話口越しに響く。
その音を聞きながら、MuteFieldのアイコンをホーム画面の隅に移動させた。
「今は、ちょっとくらい、うるさい方がいいかな」
「ふふん、そう?
じゃあ、そのうち、こっちにも遊びにきなさいよ。
うるさい家だから、覚悟しときなさい」
「うん。ミュートなしで行く」
母には意味がわからない言い方だろう。
でも、それでいい。
電話を切ったあと、俺はしばらく天井を見つめていた。
耳の奥で、冷蔵庫のコンプレッサーが唸っている。
隣の部屋から、人の笑い声。
上の階から、子どもの走り回る足音。
その全部を、ミュートしないことを選ぶ自由。
必要なときだけ、ほんの少しだけ音量を絞る自由。
MuteFieldをアンインストールはしなかった。
ただ、ホーム画面の二ページ目のフォルダの奥にしまった。
世界は、相変わらず少しうるさくて、少し優しい。
その真ん中を歩きながら、俺は時々、耳を澄ませる。
――あんた、ちゃんと聞いてる?
そんな声が、どこかから聞こえてくる気がするからだ。
そして、そのたびに、小さく答える。
「うん。今は、聞こえてるよ」
コメント
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満足感あるね