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第2章 雨粒のひととき
店内に通され、足を踏み入れたそこは、歩くたびに床が軋む。
ギッと鳴るその音がなぜか愛おしくて、思わず立ち止まって、大きく足を踏み込んだ。
〝ギギッ――ギッ〟
そんな様子を見た店主はクスッと笑った。
「俺もやっちゃうんだよねそれ――」
さりげなく出されたふかふかのタオル。
「雨が止むまで、ゆっくりしていって…珍しく今日は空いてるから」
店内を見回すより先に、柔らかくて心地の良い匂いが鼻を掠める。よく見ると、ここは喫茶店でも山小屋でもない。壁に大きな鏡が並び、その前に椅子が等間隔で置かれている。
「美容室…ですか?」
そう尋ねた俺に
「ふふっ、よく喫茶店と間違って入ってくるんだ。君もその類かな?……ほら、もっとちゃんと拭いて」
近い……
服と服が擦れ合う程の距離まで近付いた男は、踵を上げてうんと高い俺の頭を必死で吹き上げる。その仕草が何とも可愛らしく、屈まずにいたら、
「しゃがみなよ?君って意地悪だね」
そう言ってまた笑ったその笑顔に時が止まった気がした。
〝どうした?〟そう言って頰を伝う雨を優しく撫でるようにタオルで拭いた彼が離れていくと、再び香った彼の纏う匂いに、思わず腕が伸びる。
迷う間もなく、指先が彼の腕を捉えていた。
「いい……匂いですね」
小首を傾げて笑った彼は、雨の降った日はシャンプーの香りが店内に残りやすいから、と言った。でも、その匂いじゃない。きっと彼が付けている香水の匂いだ。さりげなく香る優しい匂いに、腕が離れなかった。
「まだ拭いて欲しいの?……そうだ、ここ座って」
「初めまして記念日――特別に乾かしてあげる」
濡れたレインコートを脱ぐのを、背後から手伝う彼にとっては、普通の距離なのだろう。
俺だけがその距離に慣れずに、胸は勝手に鼓動を速める。
椅子に促され、鏡越しに目が合うと何だか急に恥ずかしくなり目を逸らすと、至近距離まで顔が近付いてきて覗き込まれる。
「お客様如何なさいましょうか?」
そう言って鼻に指を当てクスクス笑う。屈託なく笑うその顔を、ずっと見ていたいと思ってしまうほど……可愛かった。
「またきてよ……次も雨が降ったら」
「もちろん雨が降らなくても――」
扉に手をかけ俺の背中に手を振る彼は、俺が何度も振り返るたび笑顔で見送り続けていた。
きっとまたあの店を俺は訪ねるのだろう。
何故だかそう思った。
それが、自分の中に残っている誰かの影を確かめたいだけなのか、それとも――
目の前にいた彼自身を、もう一度見たいからなのか。
その違いを、まだ言葉にできなかった。