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第3章 測れない〝特別〟
今日は久しぶりに晴れた日。
俺にとっては普通の休日。
自然と彼の店へ足が向かっていた。
山の麓にあるその店は意外と俺の住む街からさほど離れておらず、三十分足らずで着いた。
店の扉に手を掛けた時、あの人の笑い声が聞こえた。
——誰と笑ってるんだ……?
店に入ると、店主が別の客と楽しそうに話している。肩を寄せ、笑顔を輝かせていた。――近い。
胸の奥がざわつき、思わず、扉の前で立ち止まった。
〝……なんで、俺じゃないんだ〟
声に出さずに呟く。居ても立っても居られず、雨宿りの理由もなしにドアノブに手を掛けると、カラコロと鳴るドアベルが今日は些か不愉快な音に聞こえた。
店主は気付かず、俺の存在よりも客との会話に夢中だ。
それでも、俺の心ははっきりわかる……
独占したい、そばにいたい。
〝やきもち、焼いてる……?〟
まさか……。小さな呟きに、少しだけ顔が熱くなる。
「あれ? ごめん、来てたの……気付かなかった。少し待ってて、もう直ぐ終わるから」
——来てたの……。いちいち癪に触る。
自分の心を落ち着かせるように、ソファーに身体を深く沈める。
「これ、飲んで待ってて」
そう言って出された温かいコーヒーに、少しだけ胸が温かくなった。その優しさが、誰にでも向けられているものだと分かってしまうから、苦しい。
彼と年齢が幾つも離れていなさそうな男性客が、〝しょうたは変わらないな〟なんて呼び合っているのを聞いて、胸がチクリと音を立てる。
〝しょうた〟はその客を〝ワタル〟と呼び、随分と親しげで、事あるごとに身体を触っている。
常連客の男が鏡越しに俺の視線に気付いたのか、不敵な笑みを見せた。
昔話に盛り上がる二人に彼との距離を感じる。自分は今し方知った彼の名前が、どんな字を書くのかさえ知らない。そんなくだらない事を気にして苛立つ俺は見っともない。
初めて知った彼の名前を俺は口に出して言える程彼のことを知らないことにチクリと胸が痛む。
「じゃ、お次の方どうぞ」
常連客の男は意地悪そうに笑いながら言うと、手をひらひらさせた。
店の外まで見送るしょうたの肩をいやらしく触り、耳打ちするように頰に顔を寄せて、何やらコソコソと話すと、俺はその様子をソファに沈んだまま、じっと、扉の向こうの二人から目を逸らせなかった。
彼の頰にワタルの唇が触れたような気がした――慌てたように仰け反った彼は耳を赤らめ恥ずかしそうに手を振ると、見えなくなるまで彼を見送っていた。
店内の明かりが溢れ、しょうたの白磁の肌を柔らかく照らしていた。しばらく余韻に浸るかのようにその場に立ち尽くしたしょうたは頰を赤らめ踵を返すと店内に戻って来た。
笑い声の余韻がまだ耳に残っていて、心臓が少しだけ早くなる。
「……やっぱ、気にしてたんだな」
自分の心の声に、思わず苦笑いする。
手のひらに収まる温かいコーヒーが、少しだけ現実に戻してくれる。でも、視線は自然と彼の方に向いてしまう。
ワタルが去った後、彼はゆっくり振り返った。
「……ごめん、待たせちゃった?」
いつもより少しだけ柔らかい声。その声だけで、体の奥がきゅっとなる。俺は咳払いをして、視線を逸らす。
「う、ううん、全然」
声が思ったよりも小さく、弱々しく聞こえたことに気づき、また少し顔が熱くなる。
彼は、俺の手元に置かれたカップに目をやり、軽く微笑む。
「あったかいの、好きでしょ」
その一言に、胸がぎゅっと締め付けられる。
「……うん」
素直に返すことしかできない自分が、少しだけもどかしい。数回訪れただけの俺の好みを知っているかのようなその口振りに心躍るのは馬鹿げているだろうか。
距離は近いはずなのに、心は遠い。ただの客とただの美容室のオーナーとの間には語れるような思い出も時間も何もない。
「晴れてるのに来てくれたんだ。嬉しいな」
俺の心の中で、焦燥と期待が混ざり合う。
その「嬉しいな」は、客に向けられたものだと分かっている。
分かっているのに、胸の奥が小さく跳ねた。
「暇だったから……髪切ってもらえる?」
晴れたから来たわけじゃない。暇だったからでも、髪が切りたかった訳でもない。ただ、ここに来たかっただけだ。彼はくすっと笑って、俺の前に腰を下ろす。
「ふふっどこ切るの?十分短いけど?じゃぁ襟足だけ少し整えようか?特別にシャンプーもしてあげる」
その〝特別〟の意味を、俺は勝手に測りかねて、カップの縁を指でなぞりながら黙って頷いた。何か言えばいいのに、喉の奥が詰まったみたいに声が出ない。
ただ、彼が近くにいるという事実だけが、やけに大きく感じられた。