テラーノベル
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*この文章は七月一八日に書き始めたものです。
わたしの作品の内容に関する話が多いです。
長文です。
ども、極めて五月少女です。この名を名乗るようになってからは、こういった雑談やエッセイの類はしていなく、するつもりも無かったのですが、わたしが想定していたより多くの人が『キリトリ令嬢』を読んでくれていて――言わなきゃいけねぇことはちゃんと言うべきだ――と考えてこれを書いています。
改めて自己紹介から……極めて五月少女、少女とありますがゴリゴリの男です。心身ともに男でございます。七月一八日の今日、一八歳になりました。最終学歴は中卒で、高校を一年みっちり通った後に進級せず自主退学。現在は大学受験の勉強をしながらフリーターをしていて。皆さまご存じの通り、このテラーノベルの底の底で、まさに底辺という言葉を体現したかのような物語を書いています。
はい、わたしはどうやら一八になったみたいです。これは社会のレールを外れた若者と、逆に乗り過ごしてしまった年寄りに共通しがちなことと思うのだけれど、自分の年齢に実感が一切湧いてこない。バイト中だけは二年前から不思議と自分はもう成人しているってマインドで入れるのだが、それ以外だとわたしは未だに自分のことを中学三年生と思っている節がある。
というのも、最近よく夢を見るのだ。体育館だったり、アメリカだったり、異世界だったり、場所や状況は全く違うものの、そこにはたいてい中学三年の時の友達がいる。今でも関わりのある仲の良い人もいれば、久しぶり! が挨拶になるような人もいる。
今日見た夢だと、うん、記憶がうっすいけど、同じバスケ部の友達が出てきた気がする。一卵性の双子でそれなりに仲の良かった二人。わたしは二人と一年ほど前に会ったはずで、中学の時より大きく成長した二人を知っている。しかし、夢で見たのは中学三年の二人だった。
他にも親友の歴史ヲタク、小学三・四年の幼女のみを恋愛対象とするイカレ野郎(親愛を込めて)なんかも出てきた気がする。こっちの二人に関しては、先ほどの双子と違って今も交流があるのだが、それでもやっぱり夢では中学三年の時の姿をしていた。
わたしは高校を中退したが、学校に行かない生活を送っていると自然に鏡を見る時間が減る。一度も見ない週もあったと思う。バイトのある日の朝だって、どうせ帽子を被り、さらに汗で汚れるのだから、寝癖を直すのも洗顔もしなくていいかと思うことは多い。まあ、それは職場が公共交通機関を使う必要がある距離にあって、出発が六時一〇分とかの早朝っていうせいだけど。けど、鏡を見なくなってきていることは確かな事実だ。家のお手洗いに鏡がないことも大きい。
そういう生活をもう一年以上続けていると、自分の顔がわからなくなる。昨日はまさにそうだった。最近の日課なのだが、晴れている日はカメラと本を持ち、十五分ほど歩いて川へ行く。石でできた階段があるので、そこにタオルを敷いて腰を掛け、短い日には一時間、長い日には三時間ほど本を読む。
これまでほぼ読書をせずに生きてきたが、骨董品屋でスティーヴン・キングの『グリーン・マイル』という六つの分冊からなる小説が、まとめて二〇〇円で売られているのを見つけた。わたしはいつだったかに、キングの『書くことについて』という創作論を交えたエッセイを読んだことがある。物語への考え方だったり様々なところで波長が合う感覚、それでいて経験の差からなる新たな学び、これまでにない感動をよく覚えている。しかし、よくよく考えてみれば作品を読んだことがないじゃないか。きっと素晴らしいものに違いない。わたしは迷わず買った。
ついでに『ミザリー』も買った。これは九〇円とさらに安価だった。しかし、わたしの心をときめかせたのは『グリーン・マイル』の方である。
前に読書をしたのはそれほど遠い日ではない。二カ月前くらい? だった気がする。しかし、その時のわたしは脳みそのコンディションが悪かった。高校に行ってからわたしの頭はずっと咳をしていた。実質的には中学三年以来の読書だったと思う。集中力がなかなか続かず、六冊読むのに一〇日かかった。
……面白くて、面白くて、面白い! やはりわたしの直観は正しかった。やはりキングは信頼できる。そうだよ、わたしはこういう物語が書きたかったんじゃないか! これが正直な、読み終えた直後のわたしの様子だ。最高の気分――子供の時に観たアニメ『ヘボット』最終話に並ぶ高揚感があった。
その体験を経て、わたしは読書をするようになる。昨日読んだのはジョージ・オーウェルの『一九八四年』。これで二周目だ。結局のところ、名作と呼ばれている作品はちゃんと名作で面白い。特に当時から売れていた作家のものには、貫禄というかずっしりとした重みを感じる。商業的に見ても出来上がっている物語というのは、作る側としては一番勉強になるところが多いように思える。
話がすっかり逸れてしまったが、その散歩が終わって家に帰り、自分の顔を見てわたしは驚いてしまった。なんちゅーイケメンじゃー!! ランニングをしている同世代を見るたびに、わたしはやるせなさのようなものを感じていたが……いや! いざ汗をかいてみればイケメンじゃないか!!
ジョージ・オーウェルの重い物語のことは忘れ、シャワーを浴びながら歌を歌った。これまで恥ずかしくてできなかった、GLAYやB’zのような歌い方。いざやってみれば結構うまかったし、何より楽しかった。近隣住民よ、うるさくしてすまんな。
自認○○って言葉が少し前にネットで大量発生したけれど、それで言うとわたしは自認中学三年生。幼女でないだけまだマシなものの、日本の変態トップランナーどもと自分を比べるなんて失礼なこと。わたしは十分におかしいとちゃんと自覚しなければならない。
皆さん、本田◯佑さんの声で脳内再生。
「一八歳!?」
もう一度、今度は声に出してみよう。
「一八歳!?」
では、そろそろタイトルにもした今後の活動についてや、『キリトリ令嬢』などの真剣な話に移ろうと思う。まず、これは正直に言わせてくれ。みんなありがとう!!
そもそも本作は、わたしにとって評価を受けるための作品でも、完成度を求めた崇高な作品でもない。そのことを知ってもらいたい。
わたしには極めて五月少女の前に二つの雅号があり、どれもこのテラーノベルで活動していた。今は作品だけが過激だが、前の二つではそれ以外も過激にやっていた。テノコン受賞者が他サイトから逃げてきた社会人ばかりになっていることに怒り、「オレがヤッてやるぜ」とか吠えたりしていた。結局、作風のおかげでわたしが受賞することはなかったのだが……。
だが、受賞など結果を出すことこそなかったものの、なんやかんやでもう二年も物語をつくっている(始めたのが高一の八月)。多くの人がしているように――設定→プロット→執筆――とすればいいものをわたしは嫌い、そのうえイカれたテーマや演出を続けた。今こそまだ見れるものになってはいるが、初めの一年はとても物語とは呼べないような、まさに支離滅裂を体現したものをつくり続けていた。
当時は自分でもなぜこうしてしまうのかわからなかったが、今であれば多少はわかる。つまるところ、わたしは初めからずっと自分ができるヤツだと……替えの利かない面白さを持っていると確信できていたのだ。多くの人が要素を組み合わせて物語をつくる中、わたしは持っている物語を形にしようとしていたのだ。
プロと交流はないし、これが本当に少数派なのかはわからない。ただ、先ほど話に出てきたスティーヴン・キングの『書くことについて』を読む限りでは、キングはこれに似た書き方――おそらくは、これをより発展させた延長線上。わたしのような未熟者とは卓越した、圧倒的な技術の成すこと――をしていた可能性が高い。少なくとも完璧主義者のように、プロットを作り込む人間でなかったことは確かだ。
だから一流の世界では、わたしの物語の作り方は何も珍しいものじゃなく、むしろ王道ということもありうる。ほら、有名な音楽家が「神様が教えてくれた」とか何とか言うだろう? それと同じ。あくまでこれはわたしたちの中にあって、わたしたちがするのは単に言葉やら、個人の好きな表現方法で翻訳する作業なのでは、ってこと。
実はここでの文章はすべて、一度私の手書きで書いたものを、わざわざキーボードで打ち直して投稿している。わたしがそうしているのには、アナログのほうが~~とかいろいろな理由はあるけれど、一番はパソコンじゃ目が疲れちゃうから♡ 次に字が汚くて解読困難だから♡ 最後に万年筆という道具が好きだから。
そう、わたしは万年筆を使っている。セーラーという国産メーカーのキングプロフィットのエボナイトを使っている。値段は……各々気になった人は調べてみると良い。まあ、これは趣味だから……完全な趣味だから……。おかげでかなりのバイト代が飛んだけど、これは趣味だから……。
万年筆という道具はとても繊細で、ペン先を露出させた状態で落としたものなら、もうそれ以前と同じ状態での筆記はできないと思ったほうがいい。机ほどの高さからであっても、最悪の場合には二度と使い物にならなくなる。繰り返しになるが万年筆は繊細な道具であり、そしてそれゆえに一本一本に個性がある。同じ商品モデルであっても使えばわかる程度には違いがあるので、専門店であれば試し書きもしている。人見知りのわたしにはしばらく無縁だろうけど。
――平均的なペンによる筆跡と、その万年筆の個性から生まれる筆跡――この違いを海外ユーザーは翻訳と呼ぶ。
わたしは思った。一流の世界じゃどうとか、プロがどうとかは端から知らねぇよ。わたしはわたしで、わたしの物語をつくればいい。二年間、初めからずっとそうしてきたんだろうが。
万年筆における翻訳は、物語における翻訳と同じだと思った。同じ言葉なのだから当然だ。しかし、わたしはこれにどこか儀式的なものを感じる。書く道具が書くものと同じ思想に生きているというのは、現代的な価値観に生まれた私にとっても美しく感じられた。こればかりはわたしの感性のことであり、理屈で説明するのには限界がある。ただ、ここで最も重要なのは、わたしが万年筆を好きだということだ。それだけはわかると思う。わたしはこの万年筆が大好きなのだ。
『キリトリ令嬢』はチャットノベル形式で……これはさすがに手書きじゃない。わたしは本作を評価を受けるためのものでも、完成度を求めた崇高な作品でもないと言った。じゃあ、一体何のために書いたのだという話になるが、これもまた感性の話であり、理屈で説明するのには限界がある。
しかし、これは偏見なのだが、わたしのようなヤツの作品をわざわざ見ているアンタは、少なからず作る側としての人格を飼っているのではないか。もしそうならば、今から言うことがわかる人もいると思う。
「なーんか意図して無い、要らん事が起こる!!」
想像してみてほしい。あなたは幸福な家庭を持つ三〇歳、まだ言葉も使えない小さな娘が一人いる。ホワイトカラー職で毎日頭を悩ませる日々。それでいて飲み会やらゴルフやら釣りやら、上司との付き合いもなんとかこなしている。あなたは思う。
〈同級生との差は開いているんだろうが関係ない! 自分なりの早さで良いんだ、出世への道は着実に進めている!〉
趣味は小説を書くこと。先日、遂に五年をかけて構想を練った最高傑作の執筆が始まった。書くのが楽しくてしょうがなく夜更かしになってしまったが、おかげで十七話まで書き上げることができた。全体構想を考えれば少なくとも二〇〇〇話は超えるだろうから、まだまだではあるものの、一晩で一七話もかけたことに確かな誇りを感じる。
〈毎日二話ずつ書いていこう。今の俺ならそれぐらいやれる。〉
実際、しばらく問題なく書き進めることができた。それは三〇話までを投稿し、五〇話の執筆をしていた時のこと。キーボードを打つ手がふと止まる。頭が真っ白になるなんて言うが、その時のあなたの頭は本当に真っ白になっていた。この慣用句とは別の意になるが、血の気が完全に引いてしまったのだ。
〈ど……どうして!?〉
第三章はライトノベルの歴史に名を遺すであろう衝撃の結末を迎える。それは一話からずっと主人公を一途に愛していたメインヒロインの寝〇られだ。相手は魔王軍と裏で繋がっている(これは次章でわかる)教会の神父。主人公が名声を得過ぎてしまったことによる、神父の嫉妬心が原因でメインヒロインは狙われてしまう。初めはどこにでもいる子供想いの神父と思わせ接近し、毎日少しずつ魔族の特権である洗脳魔法(なぜ魔族の特権なのかというのが、実は終盤三八章で重要になってくるという、我ながら天才的な伏線。)を掛けていく。最終的に主人公の知らぬところでメインヒロインは神父の手に堕ちてしまう、というのがおおまかな物語の展開になる。
別に純愛過激派というわけではない、むしろこのシチュエーションが癖でやっている。しかし、あなたの手は一向に動かないのだった。
その理由はとてつもなく単純――このメインヒロインの心の強さであれば、主人公との愛の力で洗脳が解けてくれる必要があった。まったくの盲点である。終盤で最も大きな見どころになるその場面。洗脳魔法によって忘れていた過去と人類への恨みを思いだす主人公……そこへいくつもの声が流れてくる。それはこれまでの旅で主人公に助けられた者たちの声だった。
「一人じゃない……」そうつぶやく主人公。
「バ……バカな!?」魔王(第五章でメインヒロインを失った主人公の心に付け込んできた女。なお、第二〇章で「私のことはいいから……あなたは先へ進んで」と言って大軍を相手にし、死んだものと思われていた。この後にその正体が魔王であることが明かされる。)すら言葉を完全に失う。洗脳魔法を愛が破ったのだ。
――あなたはこのような展開を考えていた。しかし、この愛で洗脳魔法を破ることができるというのが問題だった。何を思ったのかあなたは、メインヒロインにヤンデレ属性を追加してしまっていたのだ。これも癖であるため仕方ないと言えば仕方がないのだが、癖ゆえに性欲で物事を考えすぎていた。
別にこの程度の設定であれば守らなくとも通常問題はない。ただ、この作品に関しては許されないことだった。この作品はあなたの最高傑作である、だって構想に五年の月日を労したのだ。たった一つの小さな設定の矛盾であっても、あなたは許すことができなかった。また、どうにかそんな我を殺したとて、この作品が駄作に落ちるのは間違いないことだった。こういった小説の投稿サイトには類友が集まってくる。あなたが許せたとしても、読者は決して許してくれないのだ。
〈ああ、わかっているさ。どうすればいいかなんて。洗脳魔法が対象の愛を消してしまうことにすればいいんだ。メインヒロインはヤンデレ属性を持つが、主人公は王道寄りの鈍感系だ。そういうことにすれば、このメインヒロインは当初のプロット通り、神父の手に堕ちてくれるはずなんだ……。だというのに……。〉
依然、あなたの手は動かない。そして、あなたはそれがなぜかを知っていた。よく知っていた。
ここまで執筆を進めていると、プロット段階では見えてこなかったメインヒロインの思考回路というのが理解できてきた。ただの記号的なヤンデレとばかり思っていたが、自然とその子なりの個性というのがあることに気づく。彼女はナイフを持たない、持つなら威嚇がより有効的になるようにチェーンソーを持つ。彼女は萌え袖をしない、手が汚れることより服が汚れるのを心底嫌うためだ。
あなたはわかっていた。彼女は神父の接近を許さない。だって彼女は、主人公の汗の臭いで朝食を充てられるほど嗅覚が鋭く、さらには主人公に「そういうところ、俺は好きだよ」と言われても、それが本心か確かめるために追跡及び盗聴をするほど、疑い深く相手を見る人間なのだ。
あなたにはもう、その作品を書くことができなかった。
……これらの文章は、万年筆を使うには気色が悪かったのでキーボードを用いました。おかげで眠たいです。七月一八日に書いて投稿するはずだったこの『今後の活動とか色々について』は明日に持ち越しだな(現在、二三時)。
かなり長く体験的にしたので、何か伝わったことはあるかなと思います。物語って意図せず動くことがあるんです。特に私のようなイカれたテーマや演出を好んでしまう性を持った人間には、ね。
(ここからは七月二一日に書いた。忙しくて。)
『キリトリ令嬢』はわたしにとって、ちゃんとした形に見える物語をつくるための習作だ。感覚的なレベルの話だが、書ける・書けないの二つがわたしの中にはある。それら――ただのTシャツが幼児用に見えるほどの巨体で盛大に腹が出ている。新種のラッコのような体勢をしているが、その両手にあるのはスナック菓子。――が死海にぷかぷかと散らばって、優雅に鼻歌を歌っているようなイメージ。彼らは性別も人種も使用言語もばらばらで、当然性格にはもっと個々で違いがある。わたしは彼らと話をしなきゃいけない。わたしが書けるかどうかは、彼らと話せるかどうかに掛っているのだ。
……わかりにくい例えでスマン。
彼らは多い、ほぼ無限に存在していると言える。これまでのわたしは、自分がその誰となら会話ができるのかを直接話すことでしか確かめられなかった。しかし、どうやらわたしには一般的な人間より性格に難があるようで、初めは仲良くできたとしても、徐々に嫌われてしまうようだ。
本作はそう言った問題を解決するための習作。どういうわけかはわからないのだが、とにかくわたしと生涯の友人になれるようなものが、わたしはわかるようになってきた。
読者の方なら知っているだろう。本作には直感的な思想によるところが多い。これもわたしの感覚的なところを、他でもないわたし自身が知るためにつくられた物語であるためだ。実は本作は、物語の設計図であるプロットを一切用いずに書かれている。そして、これも同様の理由。
一話一話のライブ感を重視しながら、今後のことをすべて頭の中だけで考えるというのは難しかった。しかし、だからこそ物語が破綻しないようにセリフであったり、他の技能で穴を埋めていくというような工夫が必要になったのはよかった。
現段階で必要なだけの技能は十分に得られたと思う。よって、わたしは次なる成長を目指すことにした。どこからその体制に変わるかは読者から見ても明確にする。『キリトリ令嬢』をプロットを用いて書く。
実際に書いてみなければ、どれほど書けるか、どのような変化があるかはわからない。だが、本作の完結するときには胸を張って「プロ志望」と言える程度の出来には最低限辿り着けたらと考えている。本作の結末がどうなるのかは未定だ。わたしは本当の本当にプロットを書いていない。設定がいくつかあって、それが長編に耐えられる量あるということ以外には、わたしもよくわかっていない。
しかし、良い結末になることは約束していい。それが山本紅里夢をはじめとしたあの世界にとってかは知らないが、少なくともこっちの世界の我々にとっては、物語として良い結末にできる。それぐらいできなきゃ、プロ志望(笑)って感じだろ?
このテラーノベルの底の底で、まさに底辺という言葉を体現したかのような本作が……本当はダイヤの原石だったのだと、そのことを知らしめてやろう。
さて、始めにも言ったが、わたしには「言わなきゃいけねぇこと」がある。
そして、わたしはこう思っている。「みんなありがとう!!」
というのも、『キリトリ令嬢』はわたしにとって習作だ。ただの習作とは言わない、わたしは本気で書いている。破茶滅茶で馬鹿みたいだが、あくまで本気で習作として書いている。ここまでのこの文章なんてまさにそうだ。わたしのつくるものは、イカれテーマと演出だけで読者はいっぱいいっぱいだというのに、最後の追い打ちとして、とんでもなく冗長だ。
本作をわたしはもう三〇話も書いたらしい。わたしの作品だ……最新話のPV数は五に満たないだろう、とわたしは考えていた。しかし。現時点での最新話PV数は十を超えている。一話には二〇〇PVもあるのだから、それを踏まえれば大失敗ではあるのだろう。しかし、わたしにとっては大成功だ。
特に二〇話以降からの唐突かつ冗長な過去編はあまりに意味不明で、一人の読者のつかない話も出てくるだろうと考えていた。だが、実際にはそれでも読み続けてくれた人がいた。何人なのかはわからないが、本作には読者がいる、わたしには読者がいる。ああ、なんてわたしは幸福だろう、恵まれているのだろう。わたしは本当に心から読者の皆さんに感謝している。
読者離れを対策しない物語など三流以下、ましてや対策しようとすらしてないのだから、本作は間違いなく駄作中の駄作と言えるだろう。
私が今から言うことが、作家側としてありえない発言であるということは重々承知している。恥ずべきこととも知っている。それこそ、プロ志望(笑)どころか「失格」と言われるとも思っている。何に対しての失格かはわからないが、とにかく強い意味を持った失格だ。
『キリトリ令嬢』は良い結末にする。だが、その結末まで本作が駄作であることは変わらない。読者離れについては考えないし、読者がいなくても書き続けられる。
これがいかに終わった発言で「失格」なのか。わたしが過激だった時に一方的に文句をつけていた、他サイトから逃げてきた社会人どものような人間には到底わからないことだろう。読者の皆さんの中にも、わからないという人はいるかもしれない。もし、そうならば考えてみてもらいたい。お前は誰のために書いている? 自分のためか? なら、なぜわざわざネットに投稿する必要がある?
つまりはそういうことなのだ。
本当に申し訳ない。読者の皆さんには本作を読む間、本来させるべきでないことを多くさせてしまうと思う。駄作好きであるなら別だが、そうでない人にはひどいことをしたと思う。いや、駄作好きであろうとも、この気持ちは変わらないが……。
ただ、これだけは言わせろ。「わたしは絶対に売れる」
それも、変わった作風やホラーとかそういうので売れるんじゃなく、圧倒的な実力で。お前らが思うよりも、ずっとずーっとでっかく売れてやる。自認中学三年生はな、まだ厨二病が抜けちゃいねんだよ。
単純なルートではあるものの、ちゃんと戦略も考えてはいる。それでいくと売れるのは早くて二年後ってとこかな。五年後までに売れていれば万々歳って感じだ。これを読んでるお前らは幸福だぞ、わたしと同じくらいに幸福だ。だって、これから未来で売れまくる作家の未熟な時を見れているんだ。ここまでの汚い文章を見ろよ、話の展開の仕方を。これがダイヤの原石かもしれないんだ。
いつか言わせてやるよ。「オレはあの極めて五月少女が、まだ酒も飲めなかった時からの読者なんだぜ」って。お前らはその時を楽しみに待っていればいい。その間にわたしは励むからさ。
最後に余談(キーボードでの執筆)。
こうやって通常ノベルを書くのは久しいことだったが、以前よりも格段に上手くなっていて自分で驚いた。文章についての技能はこの後から徐々に鍛えようと考えていたが、私が思っている以上に文章の上手さは、文章そのものよりも話をどう展開するかによるんだなと思った。だからストーリーが上手くなれば文章も勝手に良くなるし、プロットを覚えてしまえばもっと良くなるんだろうなぁ、と。
そして、そこまできてようやく文章そのものへ目を向けられる。正直に言って、現状のわたしの文章はひどいと思う。何がひどいって推敲されていないのだ。
最近になってようやく私にもわかってきたが、文章の良さの九割以上は推敲の実力で決まる。初稿なんて、推敲の経験を重ねていけばおのずと最適化されていくだろう。わたしはこれまで推敲を軽く見ていた。しかし、最近になってわかってきたのだ。推敲こそ真に命を込める作業なのだと。
わたしはプロットも書かず、文章も見直さずでここまで「キリトリ令嬢」を書いてきた。この作品が駄作なのは読者を考えていないというのもそうだが、それ以上に大きな問題がある。読者のことを考えられていない作品と言えば「天使のたまご」が有名かと思う。考えていないわけではないのだろうが、あそこまで表現方法があれだと、考えていないのと同義じゃないかと思う。
しかし、本作は圧倒的にそれ以下だ。そもそも「天使のたまご」は問題こそある作品だが、決して駄作と呼ばれていいようなものではない。ある程度の教養とある程度のモノづくり経験があれば、ちゃんと理解できるようになっている。わたしは教養不足で脱落したが。
本作のなにが駄作なのかというと、それはプロットがないということである。プロットがないことに利点はないのだということに、わたしは気づいた。そういったつくり方を経験することには大きな意味があったが、その経験さえ得られたなら、元々そこに合った利点は十分に技量で扱え切れる要素に変わる。プロットであっても、生な感覚を生かしてつくることが可能になるのだ。
そして、プロットをつくるということは、プロットにも初稿や推敲が適応できることになる。物語に命を込め、さらに良いものへと昇華させられる。
何とも当然の話である。しかし、何かをつくるとはそういうものだよな、とも思った。当然を重ねられない人間に、意味を凝縮させ、さらには飛躍させることなどできるわけがない。地道に設定を考え、表現として物語に工夫を凝らす、これだけなのだ。
わたしたちが気を付けなければならないのは、たった一つ。台無しにしてしまうことだ。読者に対してでも自分にとってでもない、作品の命を台無しにしないことである。これをしてしまった日にはわたしは、スティーヴン・キングの『ミザリー』よろしく狂ってしまうかもしれない。どうかその時には、わたしの大切な万年筆をすべて机から落とし、膝から崩れてそれらを拾い集めるわたしを、愛犬を亡くしたかのように泣きじゃくるわたしを、背後からタイプライターで殴り倒すことを勧める。
極めて五月少女
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俺がこのアプリ入れてる理由
みぅです🤍🥀 このエッセイ、めちゃくちゃ刺さりました。自認中3なのに「絶対に売れる」って言い切る強さ、好きです。読者への感謝と、作品の命を大事にしたいって気持ちが真っ直ぐ伝わってきて、胸が熱くなりました。『キリトリ令嬢』、まだ読めてないけど、これから追いかけますね。ダイヤの原石、ちゃんと見届けさせてください🌙