テラーノベル
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第1話:沈黙の支配
涼架side
学校での賑やかな時間は嘘のように、自宅の門をくぐった瞬間、空気が薄くなるのを感じる。
藤澤家の玄関はいつも磨き上げられていて、どこか無機質だ。
「…ただいま」
返事はない。けれど、リビングから微かに流れるクラシック音楽が、兄の在宅を知らせていた。
僕は鞄を抱え直して、逃げるように階段へ向かおうとした。
「おかえり、涼架。ずいぶん遅かったね」
背後からかけられた声に、肩が跳ねる。振り返ると、ソファに深く腰掛けた兄が、読みかけの本を閉じて僕を見ていた。
逆光で表情はよく見えないけれど、その声はどこまでも穏やかで、澄んでいる。
「あ、うん……。高氏、あ、高野くん達とちょっと文化祭の話で盛り上がっちゃって」
「そっか。友達と仲が良いのはいいことだね。…でも、涼架は流されやすいから。あまり変な子たちに影響されないようにしないと」
兄は立ち上がり、僕の方へ歩いてくる。
一歩、また一歩。
身長は僕とそんなに変わらないはずなのに、兄が近づくたびに、天井が低くなっていくような圧迫感を覚える。
「…みんな、いい人たちだよ。……あ、これ。今日預かったもの」
僕は逃げ場をなくす前に、鞄から三通の封筒を取り出した。
兄はそれを受け取ると、中身も見ずに、まるで不要なチラシのようにサイドテーブルに置いた。
「またこれ?涼架にはいつも手間をかけさせるね。悪いと思ってるんだよ」
口ではそう言いながら、兄は僕の髪に手を伸ばした。滉斗の乱暴な撫で方とは違う、熱を感じない、指先だけの愛撫。
「ねえ、涼架。今日、数学の小テストがあっただろう。結果はどうだった?」
心臓のがドクン、と跳ねた。
「えっと…七十点。…前よりは、上がったんだ」
「七十点か。……僕の時は、あんな簡単なテストで満点を逃したことはなかったけどな。やっぱり、涼架には僕がついていないとダメだね」
兄は悲しそうに目を細める。怒っているわけじゃない。馬鹿にしているわけでもない。
ただ、純粋に「自分より劣っている弟」を憐んでいる。
その真っ直ぐな善意が、ナイフよりも深く僕を切り刻む。
「ごめんなさい…。次はもっと、頑張るから」
「謝らなくていいんだよ。涼架は涼架なりに頑張っている。……ただ、僕の言う通りにしていれば、もっと楽になれるのに」
兄の指が、僕の頬をなぞる。
その指先が冷たくて、僕は呼吸を忘れて固まってしまった。
「今日、若井くんという子たちと一緒にいただろ。学校の近くの交差点で、涼架の肩を抱いていた」
「えっ……?見てたの?」
「偶然、車で通りかかったんだ。…あの子は、少し野暮すぎる気がするな。涼架の綺麗な雰囲気が壊されてしまう。…あの子とは、あまり深く関わらない方がいい」
「そんなことないよ!滉斗は……滉斗は、すごく優しいんだ。僕のことを、ちゃんと見てくれて……」
言いかけて、僕は口を閉じた。
兄の瞳の奥に、温度のない「何か」が宿った気がしたからだ。
「…へえ。僕よりも、彼の方が涼架を分かっている、と言いたいのかな?」
「……そういうわけじゃ、なくて」
「いいんだ。涼架が混乱するのは。…おいで、夕飯の準備ができているよ。今日は涼架の好きなオムライスを作っておいた。僕が作ったものなら、安心して食べられるだろう?」
兄は僕の腕を優しく、けれど拒絶を許さない強さで掴む。引きずられるように食卓へ向かう。
そこには、レストランのように完璧な盛り付けのオムライスが並んでいた。
一口食べると、確かに美味しい。
けれど、味がしない。
兄は楽しそうに、自分の模試の結果や、教授に褒められた論文の話を聞かせてくれる。
僕はただ、人形のように頷き、兄が提供する「完璧な正解」を飲み込み続ける。
(助けて、滉斗…元貴、高氏…)
心の中で叫んでも、この家の厚い壁を突き抜けることはない。
兄の支配は、暴力ではなく「完璧な愛」という形をしているから。
「涼架。どうしたの?手が止まっているよ。…食べられないなら、僕が食べさせてあげようか?」
「……ううん。食べるよ。…美味しいよ、お兄ちゃん」
僕は震える手でスプーンを握りしめた。
窓 の外は、夜の闇が僕たちを包み込んでいく。
この家の中では、僕は『藤澤涼架』ですらなく、兄という完璧な主人が所有する、出来の悪いコレクションのひとつに過ぎなかった。
次回予告
[野良猫の視線と、震える指先]
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