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第2話:野良猫の視線と、震える指先
若井side
回想:一年前の春
冷たい雨が降る夕方だった。
俺は駅前の楽器屋の軒先で、止みそうにない雨を眺めながら煙たい顔をしていた。
「……あ」
視線の先、横断歩道の向こう側に、同じ高校の制服を着た細い背中が見えた。
藤澤涼架だ。入学して一週間。おっとりとした喋り方と女子と見間違うような整った顔立ちですでに学年では有名だった。
(あいつ、傘持ってねーのかよ)
涼架は雨の中、街灯の下でぼーっと立っていた。いや、立っているんじゃない。何かを必死に探している。
「…おい、何してんだ、お前」
気づけば俺は、自分の傘も差さずにそいつの元へ歩み寄っていた。
「わっ……!若井、くん……?」
涼架はびくっと肩を揺らし、持っていた「何か」を背中に隠そうとした。
けれど、隠しきれなかった。
それは、ぐちゃぐちゃに破り捨てられたテストの用紙の束と、それ以上にボロボロになった小さなノートだった。
「…それ、なんだよ。お前の?」
「えっ…あ、これは…その、間違えちゃったから、捨てようと思って…」
涼架は力なく笑う。でも、その瞳は笑っていなかった。雨のせいか、それとも別の理由か、彼の指先は白くなるほど強く震えている。
「捨てようと思ってんなら、なんでそんなに大事そうに握りしめてんだよ」
俺が少し低い声で言うと、涼架はポロポロと涙をこぼし始めた。
静かな、声を上げない泣き方だった。
「……お兄ちゃんに、見せられないんだ。…これ、僕が頑張って書いたノートなんだけど、『無駄な努力だね』って…『僕の書いた参考書を丸暗記した方が早い』って、言われちゃって…」
涼架は、泥のついたノートを胸に抱きしめた。
兄という存在に否定され、粉々にされた自尊心を、それでも捨てずに拾い集めていたんだろう。
「…アイツ」
俺の中で、得体の知れないイライラが湧き上がった。
藤澤の兄貴が完璧超人なのは知っている。だが目の前のこいつが必死に書いた文字まで、ゴミ扱いする権利がどこにある?
「貸せ」
「えっ……?」
俺は涼架の手から、濡れてふやけたノートをひったくった。
「あ、返して!汚いし、もう使えないから…!」
「うるせー。……これ、お前の字だろ」
俺はあえて、一番ぐちゃぐちゃになったページを開いた。
そこには、几帳面すぎるくらい丁寧に書かれた数列の羅列と、自分なりのメモがびっしりと書き込まれていた。
兄貴の正解を写しただけのものじゃない。こいつが、こいつの頭で考えた足跡だ。
「……いい字じゃん。俺には書けねーわ、こんなマメなこと」
「……え?」
「お前が頑張ったことは、その完璧な兄貴が決めるんじゃねえ。…このノートが、お前がやったって証明してんだろ」
俺はノートを涼架の鞄に無理やり突っ込み、自分の被っていたパーカーのフードをアイツの頭に深く被せた。
「……前向けよ。お前、お兄ちゃんの付属品になりてーの?」
涼架はフードの中から、大きな瞳をパチパチさせて俺を見上げた。
そして、雨音に消えそうな声で言った。
「……初めて言われた」
「あ?」
「僕のノートを、『いい』って言ってくれた人。……みんな、『お兄ちゃんに教えてもらいなよ』って言うから…」
涼架は、袖でゴシゴシと目を擦った。
その瞬間、俺の胸の奥が妙にざわついた。
こいつを独りにしておいたら、いつか本当に消えてしまうんじゃないか。
その「兄貴」とかいう光に焼き尽くされて、透明になってしまうんじゃないか。
「…若井くん。あの、ありがとう」
ふわりと、涼架が笑った。
雨の中で咲いた、今にも折れそうな花みたいな笑顔だった。
現在
「おーい、聞いてた?滉斗?」
現実の涼架の声に、俺は思考を引き戻された。
目の前では、涼架が不思議そうに首を傾げている。
「あ……聞いてるよ」
「本当かなぁ?さっきから僕の顔、じーっと見てたでしょ。何かついてた?」
涼架は自分の頬をぺたぺたと触る。
相変わらず鈍感で、ドジで、放っておけない。
「…別に。お前、今日もお兄さんにお届け物すんだろ。さっさと終わらせてこいよ」
「うん、行ってくるね。あ、元貴たちが中庭で待ってるって!」
涼架が教室から出ていく。
その背中を眺めながら、俺はポケットのスマホを握りしめた。
待ち受けには、いつかこいつが笑いながらクレープを食べていた時の隠し撮りだ。
「…野良猫は、一度餌くれた奴を忘れねーんだよ。バカ」
俺は小さく毒づいて、涼架の後を追うように席を立った。
アイツの指先がまた震え出す前に、今度は俺がその手を掴んでやるために。
次回予告
[嵐を晴らす、最強の二人]
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