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序章 愛悲の昨夜編 第5話「赤い涙が落ちた後、戦争来たる」
宵の口頃。雲に隠された夜空から、微かな月光が降り注ぐ天使村で。
二人の神が闘っていた。
「名もなき神」と「アルテミス」。互いに守る者のために。
そんな中、アルテミスは赤い涙を流した。
名もなき神は双剣を下げたまま、ただアルテミスを見つめていた。
その涙の異様さに背筋が凍る。
涙は心の信号。崩壊する時、涙は黒赤となる。
「……お前、なんだよその涙……?」
恐怖と罪悪感の混ざる声だった。
「アルテミス様のお顔が怖いよ…血が……」
少女も怖かった。だが、それよりも苦しんでいる様子のアルテミスが痛々しくて、もう見ていられなかった。
赤い涙が目に染みる。そんな状態でもアルテミスは弓を持った。
「勝たなきゃ……始末しなきゃ…」
言葉が途切れるたび、涙がぽたり、ぽたりと落ちる。
「本当にやめろ!病院に……行け」
「ゼウス様は……絶対……
我が王よ……」
声がかすれ、弓を持つ腕が震え、膝が今にも折れそうに揺れる。
(アルテミスが苦しんでる……それも全部ゼウス野郎のせいで)
名もなき神の奥歯がきしむ。
それでも──アルテミスはかむしゃらに弦を引いた。
「一本だと……また斬られるだろう……」
赤い涙が弦に落ちる。
「だから……五本同時に射る……!」
「…面白い、来いよ」
一本一本が土地を変えるほどの破壊力を秘めている。それでも怖くない。
「本気、出します『五天貫矢』」
弦を離し、五本の矢が同時に放たれた。
矢は名もなき神に向かって飛ぶ。
「そこ」
名もなき神は軽く身をずらし、簡単に避けた。
五本の矢は空を裂き、名もなき神の背後へ抜けていく。
その時だった。
「……これで最期だ」
矢が生きているかのように軌道を変えた。
名もなき神の背中に向かった。逃げ場のない“死”の軌跡。
名もなき神はすぐさま、それに気が付いた。
(見えてはないけど。これ後ろから来てるな)
そして──低く、短く、呟いた。
「星空剣技──『土輪斬』」
次の瞬間、名もなき神は双剣を握りしめ、大きく回転した。
左手の緑青の剣が先頭を、右手の銅の剣がそれを追う。鬼ごっこのような剣さばきが一周。土星の環を描く。
彼の斬撃に刻まれた周囲の空気も、時間も、五本の矢の軌道すらも。
名もなき神を中心に“無”へと還る。
回転を辞めた直後、空気と時間が息を吹き返す。
軌道を斬られた五本の矢は力を失ったただの物体として地に落ちた。
「必ず標的を消す技だぞ…なぜ落ちてる」
「アルテミス、お前の能力はある程度予想できていた。
『絶対(オート)命中(エイム)』だろ?」
「そう思った理由は?」
「お前の弓矢という遠距離武器と『狙撃の名手』という肩書き。その二つと俺の経験上から絶対命中だと予想した。どうですか?」
アルテミスは狂気を上げて笑った。
「アハ……アハハハハ……!」
涙のほかに、喉まで崩壊した。
「外来神、貴方は本当に強くて『天界の脅威的』存在だな」
「いや、お前の攻撃が単純すぎるだけだ」
アルテミスの笑いが一瞬止まる。
「……単純……?」
「単純だよお前は」
その声がまぎれもなく近かった。
名もなき神はアルテミスの右斜め後ろに回り込んでいた。台風よりも速く、静かな動きだった。
アルテミスが違和感を感じて振り向こうとすると──
「さっきの仕返し」
名もなき神の右手の銅の剣のみねがみぞうちを打ち抜いた。
「しまっ!……意識が…」
視界がぼやけ、やがて白くなり、気を失った。
アルテミスは地面へ倒れ落ちた。
名もなき神は双剣をさやへしまった。
「今度こそ勝ちだ。命がけの闘いだったけど正直、少し楽しかったぜ」
手元の弓矢を拾う。
「これは俺が預かっておこう」
(なんか、泥棒みたいで嫌だな……)
(でも、こいつに持たせたままだとまた俺らの命が狙われるし…没収!)
「アルテミス様!」
少女が涙目で駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!?」
名もなき神は落ち着いた静かな声で答えた。
「大丈夫、力加減しておいたから命に別条はないよ」
少女はアルテミスのそばに膝をつき、震える指でそっと頬に触れた。
「でも……赤い涙が……こんなに……」
名もなき神は腕を組む。
「うーん、それな……強いストレスで起きる現象だからな……俺の加護は病気と怪我と呪いは治せるけど、心までは治せないんだ」
「……私、いつか誰かを救える者になりたい。
心身もろとも……」
「ライトちゃん、覚えとけ。お前はいつか必ず誰かを救える。だから今は『その気持ちを忘れずに』歩く。それだけでいいよ」
(落下した俺を無傷で助けてくれたんだから。できる!きっと)
「それだけでいいなら歩いてみるよ」
名もなき神は「ふふっ」と笑い、顔をあげた。
パキッ!
その直後、一粒の小石が少女の足首に衝突する。
「痛たっ!」
少女が足元を見るより早く、名もなき神の背筋に冷たいものが走った。
ゾクゾクした風が吹く。
アルテミスの体がかすかに動く。
「おいおい、急所打ちしたのになんで…」
その声に反応するように、アルテミスの首がゆっくりと持ち上がる。飢えたゾンビのようにゆっくりと。
赤い涙は少しだけ引いたが、まだ残っている。
そして膝を抑え、立ち上がる。
「お前の武器は俺が預かった。さっさと降参して寝とけ」
アルテミスの目に戦意はもうなかった。
「いえ、今日はもう戦いませんよ。今日は」
「どういうことだよ?明日も戦うっていうのか?」
アルテミスは深刻そうに息を吐きながら下を向く。
「どうせ、みんな死んでしまうから……です」
少女は情報を処理できず、心拍数を増加させて慌てた。
「なんで死んじゃうの……?いや、死にたくない!」
名もなき神が少女の肩を持つ。
「落ち着け、アルテミス説明してくれ」
「は、はい……
外来神さん、最近天界があれていることをご存知でしょうか?」
「荒れている……?」
名もなき神は眉をひそめる。大気圏から落ちてから今に至るまでの出来事を順に思い出す。
「あ、あれだ!」
落下時と帰還時に見た「焼けて荒れ果てた地」だった。
「もしかして、あれの事ですか?」
「やはりあなたはご存じでしたのですね」
名もなき神は背中をかいた。
「…で、続きは?」
アルテミスは喉を震わせながら言葉を選ぶ。
「今日が……『戦争前夜』なのです」
その言葉は風よりも冷たく、少女の胸に突き刺さった。
「嘘……やだ!私…生きたい。大切な人、緑々とした自然、青空を綺麗に飛ぶ鳥さん……」
少女は歯を強く食いしばる。
名もなき神は黙って見ているしかなかった。
「全部失いたくない!」
その叫びにアルテミスの耳がなる。
「鼓膜が痛いですが……決定事項なので避けられません」
そう言うとアルテミスは後ろを向き、歩き出す。
「おい!」
名もなき神の威圧がアルテミスの足を止めた。
「せめて理由ぐらい吐け!」
「……理由、ですか……」
声は震えているのに、言葉だけは妙に整っていた。
「私にもわからないのですが最近、天界全体に『邪気』の予感がするのです……」
「邪気……?」
少女は座り込み、頭を抱えた。
「アルテミス、それは理由じゃない。見えないもののせいにするのは言い訳だ」
「……言い訳……」
その単語を噛みしめるように繰り返した。
「理由を知らないなら帰れ」
「どうして急に……!?」
名もなき神は上を指さす。
空は灰色から黒雲に変わっていた。
空が光り、数秒後に音が鳴る。
「悪天候ですね……」
名もなき神は口を閉じたまま、三拍七秒子で瞬きをしながら睨んでいた。
「分かりました……」
アルテミスは再び歩き出す。足音も影もなく、振り返りもせずに。
少女は白い頭でただ座り、名もなき神は警戒と切なさの眼差しで見送った。
月までが完全に隠される。
この光景が決定的戦争前夜ということを天界に叩きつける。
名もなき神は一ミリたりとも動こうとしない。
「帰ろうよ」
「俺は帰るところがない。外来神だから……」
あまりにも重い。返す言葉がない。
「…ライトは青龍を背負って帰ってくれ」
少女は仕方なく大樹の下を見た。
だが、大樹の下に青龍の姿は一切なかった。戦う前はちゃんとそこに寝かしたのに。
「青龍さんがどっかいっちゃったよ!」
まさにその刹那、多数の滴が名もなき神の頭をポツッ、ポツッと打つ。
次第にその滴は勢いを増し、髪を濡らして冷やしていく。
「雨が寒いよ……」
少女が寒さで震えている時、名もなき神は別の原因で震えていた。
「あいつ…………」
表情は怒っても悲しんでもなかった。
強いて言うなら無表情に近いというのが一番的確。
無表情のまま、彼は一歩、前へ出ようとした。
その足が地面を踏む寸前──
少女の小さな手が、彼の袖をぎゅっとつかんだ。
「…泊めてあげるよ」
意外すぎる反応に思わず振り向く。
少女は続ける。
「何も言わないでいいよ。名無し君の居場所は、私の居場所よ」
世界は静寂で寒い。
そこへ来た、暑すぎでもない温かい決意に涙する。でも微笑む。
「ああ、ありがとう……」
気が付けば時はもう、深夜だったが、眠れる気配が全くしない。
愛悲の日が去り、そして物語は「戦時中」という新たな楽章を迎える……。
コメント
3件
うわぁ…第5話、すごかったです…🥀 アルテミスの赤い涙、あれはもう心が限界ってサインですよね。それでも戦い続ける姿が痛くて、でも格好良くて。名もなき神の「単純だ」って切り返し、あれで彼の余裕と冷静さが伝わってきました。 最後の「泊めてあげるよ」は、涙が出そうになりました。あの少女の優しさが、この暗い世界で一筋の光みたいで…。 戦争前夜って終わらせ方、次の話が怖いけど楽しみです。CLUSTARさん、今回も重くて美しい話をありがとうございます🤍