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第二章 小さな光
第十話 旅立ちの朝
ダイチとの約束から数日が過ぎた。
ジントは少しずつ、自分の部屋の物を整理していた。
長年過ごした小さな部屋。
窓際の机。
古びた本棚。
小さなベッド。
どれも見慣れたものばかりだった。
床に置いた鞄を見下ろしながら、ジントは本棚へ視線を向ける。
「薬草の本は持っていこうかな……」
呟きながら何冊か手に取る。
旅先でも役立つだろう。
それから机へ向かい、引き出しを開けた。
そこにある一冊の本へ手を伸ばす。
黒い表紙。
中央に刻まれた月の紋章。
『月蝕記』
あの日
地下の禁書庫で見つけた本だった。
まだ何も分からない。
けれど。
自分の正体を知る手掛かりがあるとしたら、きっとこの本だ。
ジントは静かにそれを鞄の底へしまった。
◇
その夜。
薬屋の奥では、いつものように夕食が並んでいた。
温かなスープ。
焼きたてのパン。
香草を使った簡単な料理。
二人だけの食卓。
マーサは、ジントがダイチと街を出ることを知っていた。
けれど何も聞かなかった。
何も止めなかった。
静かな時間が流れる。
やがて
ジントがぽつりと口を開いた。
「……ばあちゃん」
マーサが顔を上げる。
ジントは皿へ視線を落としたまま続けた。
「俺……」
声が少し震える。
「ずっと、心配ばっかり掛けてきたよね」
マーサは黙って聞いている。
「ごめん……」
小さな謝罪だった。
マーサはしばらく何も言わなかった。
そしてふっと微笑む。
「何を言うかと思えば」
優しい声だった。
「あんたは私の大事な孫なんだよ」
ジントが顔を上げる。
「心配するのは当たり前さ」
皺だらけの手がそっとジントの頭を撫でる。
「あんたの幸せを、誰より願っているんだからね」
その言葉に。
ジントは何も返せなかった。
ただ胸の奥が温かくなった。
◇
そして
旅立ちの朝がやって来た。
窓から差し込む朝日で目を覚ます。
いつもと変わらない朝。
なのに
今日だけは違っていた。
ジントは静かに支度を整える。
黒いローブを羽織る。
荷物を詰めた鞄を肩へ掛ける。
思っていたより鞄は軽かった。
けれど、
胸の中は不思議なくらい重かった。
階段を降りる。
薬草の香り。
木の軋む音。
何もかもが胸に沁みる。
奥へ入ると、朝食の準備をするマーサと目が合った。
「おはよう、ばあちゃん」
「おはよう」
マーサが穏やかに笑う。
「よく眠れたかい?」
「うん」
いつものように皿を並べる。
いつもの席へ座る。
お茶を注ぐ音。
スープの湯気。
何一つ変わらない朝だった。
だからこそ、
ジントは思ってしまう。
もしかしたら
これが最後かもしれない。
そんな考えが頭をよぎった。
表情が曇る。
すると、
マーサがそっと手を握った。
温かい。
幼い頃から何度も触れてきた手だった。
「何も心配することはないさ」
優しい声。
「まずはしっかり朝ご飯を食べな」
皺だらけの目元が柔らかく細まる。
「もうすぐあの子が迎えに来るんだろう?」
ジントは小さく笑った。
「うん」
-–
食事を終え。
片付けをしていると。
店の扉のベルが鳴った。
カランカラン。
「おはよー!」
元気な声が店中へ響く。
「ジントのばあちゃん!」
思わず笑ってしまう。
「おはよう、ダイチ坊っちゃん」
マーサが答える。
「今日も元気だねぇ」
「もちろん!」
即答だった。
「ジントは奥だよ」
足音が近付いてくる。
ひょいと顔を出したダイチが笑う。
「おはよ、ジント」
「おはよう」
ジントは思わず目を瞬かせた。
紺色の外套。
腰には剣。
旅用の丈夫な靴。
そして
背中には大きな荷物。
「……多くない?」
ジントが指差す。
ダイチは胸を張った。
「だって色々必要やろ!」
「いや絶対多いって」
「ていうかジント少なすぎや!」
「重いの嫌だし」
「そんなもん俺が持ったるわ!」
ジントは吹き出す。
「ダイチが潰れるよ」
「潰れへん!」
二人の笑い声が店に響く。
それを見て
マーサも静かに微笑んだ。
◇
支度を終えた頃
マーサはジントに小さな袋を渡す。
中には、傷薬や熱冷ましの薬、
結界石や魔物よけの鈴など、
旅に役立ちそうな道具が詰められていた。
「きっと役に立つよ」
「ばあちゃん、ありがとう」
胸が熱くなる。
◇
やがて
二人は店の外へ出た。
初夏の風が吹く。
柔らかな陽光が街を照らしていた。
数歩歩いて足を止める。
振り返る。
そこにはマーサが立っていた。
十七年間。
本当の孫のように育ててくれた人。
泣き虫だった頃も。
熱を出した夜も。
黒い瞳に思い悩んだ日も。
ずっと傍にいてくれた人。
マーサは静かに微笑む。
「気を付けて行っておいで」
その言葉に。
ジントは強く頷いた。
「うん」
少しだけ声が掠れる。
「ばあちゃん」
マーサが首を傾げる。
ジントは笑った。
「行ってきます」
マーサも笑う。
「いってらっしゃい」
その声に背中を押されるように。
ジントは歩き出した。
隣にはダイチがいる。
二人並んで街道へ向かう。
朝日を浴びながら。
未来へ向かって。
マーサは、その背中が見えなくなるまで見送っていた。
やがて二人の姿は街角の向こうへ消える。
静寂が戻る。
初夏の風が吹いた。
マーサはそっと目を閉じる。
朝日が眩しかった。
照らされた二人の背中が、瞼の裏へ焼き付いて離れない。
大きくなったねぇ。
心の中で呟く。
そして、閉じた目の端から
一筋の涙が静かに零れ落ちた。
けれどその顔は、どこか誇らしげに微笑んでいた。
まるで
我が子の旅立ちを見送る母親のように。
第二章 完
コメント
1件
あ〜もう読んでて胸がぎゅーってなったよ…😭💕 ジントが「心配ばっかり掛けてきたよね」って言うシーン、じんわり来たし、マーサの「あんたの幸せを、誰より願っているんだからね」が優しすぎて涙腺崩壊した…! 旅立ちの朝の「いつもと変わらない朝なのに違う」感じ、すごく伝わってきたよ。ダイチの荷物多すぎて笑っちゃったけど、最後マーサが一人で涙する描写で全部持ってかれた…第二章完おめでとう!続きが待ち遠しすぎるよ〜⋆♡