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第2節 桐生百合香『知らない街で』②
(ごめんね。芽生ちゃん。あなたの真心を踏み躙るような真似をして)
几帳面な雄二は、きっと百合香がいなくなったマンションの整理をしてくれるだろう。そのとき、芽生には気づかれないようにダメになったブーケをそっと処理して欲しい。
(雄ちゃんならきっとそうしてくれるよね?)
またしても雄二のことを考えてしまっていることに、百合香は小さく溜め息を落とした。
(雄ちゃん、勝手に離れてごめんね。大好きだよ……)
すべてが、遠い出来事のようだった。
まだ今日のことなのに。
ほんの数時間前のことなのに。
胸が苦しい。
苦しいのに、不思議と涙は出てこなかった。
泣けるほどの余裕が、もう残っていなかったのかもしれない。
ただ、ようやく雄二の不貞を終わらせてあげられるのだと思った。
(私のワガママのせいで……雄ちゃんにも長いこと、罪を共有させちゃったね……)
長かった。
本当に長かった。
終わらせなければいけないと思いながら、それでも終わらせられなかった日々が、ようやく終わった。
一度は自分を捨てた雄二に取り縋って、〝影の女でもいいから〟――。そう言い募って始めた、いけない関係。
それを、やっと終わらせることが出来た。
(これで良かったのよ……)
そのはずなのに、胸の奥にぽっかりと開いた穴が、決意を鈍らせようとしてくるみたいに、じくじくと痛む。それがすごく浅ましく思えて悲しかった。
(これだってそう……)
手の中の、下関行きの切符を見て、吐息を落とす。
ここ以外のところを選ばなければ、足がついてしまうかもしれないのに――。
(私、なにやってるんだろ……)
駅へ向かう車の中で、佐山はずっと気まずそうにしていた。
写真のことをお願いしてから、百合香が何も言わなかったからだろう。
佐山は何度か口を開きかけて、そのたびに言葉を飲み込んでいた。
それから、無理に話題を探すようにして言った。
「下関って、行ったことあります?」
と――。
百合香は、静かに首を横へ振った。
佐山は下関では、フグが有名で……地元ではフグと濁らず、フクと言うのだと教えてくれた。福にちなんでの縁起担ぎらしい。
百合香の門出に、その地がいいのではないか、と言いたいみたいだった。
佐山の不器用な提案に思わず「フク……」と復唱したら、日本で唯一のフグ専門の卸売市場である南風泊市場のことや、海峡メッセという展望台付きタワーのこと、それから赤間神宮や関門海峡のことをたくさん教えてくれた。
今思えば、不自然なほど一生懸命だった。
百合香が自分の告げた言葉で、旅立ちを言い出すかもしれないと予期していたのかもしれない。
そうなったとき、もし困ったらそこへ行けばいいと思ってくれていたのかも――?
そう考えると、佐山が下関の話になると妙に饒舌だったのにも頷ける。
南風泊市場。
海峡メッセ。
赤間神宮。
関門海峡。
まるで、自分がそこへ行くことを想定していたみたいに。
もちろん、そんなはずはないと……何となく百合香には分かっていた。
(なのに私、それが分かってて……)
この行き先はきっと、〝佐山の良心の呵責の賜物〟なのだ。
本当に百合香を送り出していいのか。
引き止めるべきではないのか。
そんな迷いがたっぷり乗っかった、下関というひとつの街への道行の提案。
何が正しいのか分からないまま、それでも百合香を駅まで送ってくれた佐山の、細い細い蜘蛛の糸。
百合香は小さく目を伏せた。
「……佐山くん、雄ちゃんに怒られてないかな」
ぽつりと呟く。
蜘蛛の糸を手繰り寄せられるかもしれないと思いながら、その提案に乗るように下関行きの切符を買ったのは、佐山の罪が少しでも軽くなればいいと思ったから。
下関にいたって、見つかってしまう可能性はきっと低い。
同じ町に住んでいても、待ち合わせでもしていない限り、知り合いに出会う可能性はそんなに高くないのだから。
そう言い訳をして、百合香はとりあえずの行き先として、下関行きを決めたのだ。
「でも本当は……」
見つけて欲しいから……だなんて、そんなこと、口が裂けても言葉にしてはいけない。
百合香の小さなつぶやきは、新幹線の走行音に紛れて、かき消された。
「……見つかりませんように」
心裏腹な願いを吐息とともにこぼしてから、百合香は(きっと大丈夫)と思い直す。
コメント
2件
佐山くんの心配まで😢
わああ第九章(10)読んだよ…!百合香の胸の内がもう切なすぎて苦しい😭💔 自分のワガママで始めた関係をやっと終わらせたのに、ぽっかり穴が空いたみたいな痛みがリアルすぎて…。でも本当は「見つけてほしい」って思っちゃう気持ち、分かるよ…!佐山くんの不器用な下関ガイドにも泣けた。良心の呵責から出た蜘蛛の糸、って表現がもうエモすぎるよ…✨ 続きが気になりすぎる!!