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「何言ってるんだよ!」
伸は、行彦の手を払いのけるようにして飛び起きた。苦しくて呼吸が乱れるが、そんなことにかまっていられない。
「行彦まで、おかしなことを言い出さないでくれよ。そんなはずがないだろ?
行彦は今、目の前にいるし、こうして触れることだってできるじゃないか」
行彦の両肩をつかんで、こちらを向かせる。確かに、滑らかな肌も、その下にある骨の感触も、手のひらに伝わって来る。
行彦が、悲しげに目を伏せる。
「僕だって驚いたよ。あの日、初めて伸くんが、この部屋に来たときに、伸くんに、僕が見えていたことに。
それまでにも、この部屋まで面白半分に上がって来たような人は何人もいた。でも、その誰もが僕に気づかず、部屋を見回した後、すぐに興味を失ったように去って行ったよ」
「そんな……。嘘だろ?」
「嘘じゃないよ」
そして行彦は、まだ事態が把握出来ずにいる伸に、自分の過去について話し始めた。
「いじめに遭って、学校に行けなくなったということは、前に話したよね。この部屋から出られなくなったことも。
でも、僕のお母さんは、一言も僕を責めなかった。学校に行かなくても出来ることはあるし、お母さんがついているから心配いらないって。
僕は、きれいで上品で、優しいお母さんが大好きだった。お父さんはいなかったけど、家政婦の芙紗子さんもいたし、寂しいと思ったことはなかった。でも……」
伸はただ、行彦の横顔を見つめ続ける。
「あるとき、あの女が尋ねてきた。みすぼらしくて卑しげな女が、お母さんに金の無心に来たんだ。
その女が、僕に向かって言った。『ボクちゃん、お母さん、会えてうれしいわ』って。
その女が、僕の生みの親だったんだよ。僕は、大好きなお母さんの本当の子じゃなかった。
言われてみれば、生白い肌の色も、貧相な体つきも、あの女にそっくりだ。僕は、とても醜い!」
行彦は、両手で顔を覆った。
「そんなことない! 行彦は、とてもきれいだよ。その顔も、透き通るような白い肌も、華奢な体も、俺は大好きだ。
俺にかけてくれる優しい言葉も、仕草も、甘い香りも、全部!」
行彦が、いやいやをするように、首を左右に振る。伸は、たまらない気持ちになって、行彦をきつく抱きしめる。
「行彦、大好きだ。愛してる」
行彦は、嗚咽する。
「あぁ、伸くん……」
伸は、行彦を押し倒した。先ほどまでの倦怠感が嘘のように、体に力がみなぎっている。
今ならば、行彦と一つになれる。伸は、勢いよく、行彦の体にかかっているブランケットを引きはがした。
「駄目だよ!」
行彦が、伸の体を押し戻そうとする。
「なんでだよ。俺は、行彦がほしいんだ」
「伸くんが、死んじゃう!」
「えっ?」
「お願いだから、もう少しだけ話を聞いて」
行彦の悲痛な叫びに気おされ、伸は、行彦を押さえつけていた手を離した。
さっきとは反対に、横たわった行彦を、伸が見下ろす。行彦は、涙に濡れた瞳で見上げている。
「僕は、悪夢を見るようになった。毎晩毎晩、あの女が部屋に入って来ては、気味の悪い笑顔で僕に話しかけるんだ。『ボクちゃん、お母さんよ』って。
どんなにあらがっても、僕にしがみついて、がんじがらめにして離してくれない。僕は、怖くてたまらなくて……」
行彦の目から涙があふれて、目じりを伝って流れ落ちる。
「やがて、起きているときにも幻覚を見るようになった。後から落ち着いて考えれば、あれはただの幻で現実じゃないってわかるけど、その最中は、本当に恐ろしくて……。
繰り返すうちに、だんだん、それが幻なのか現実なのかわからなくなって、あの日……」
言葉が途切れ、行彦のきれいな顔が苦しげに歪む。
「行彦」
思わず触れた頬は、温かい。
行彦は、伸のその手を握り、絞り出すように言った。
「いつものように入って来たあの女から逃れたくて、どうしても触れられたくなくて、あの窓を開けて……飛び降りた」
そんな馬鹿な。やっぱり、言っている意味がわからない。行彦は、ここにこうして、俺の手を握って泣いているではないか。
伸は戸惑いながら、泣きじゃくる行彦を見下ろす。
しばらくの間、泣いていた行彦は、何度か深い呼吸を繰り返した後、さらに話し出した。
「その後のことは、よくわからない。気がつくと僕は、いつものように、この部屋の、このベッドの上にいた。
初めのうちは、窓から飛び降りたことも、悪夢か幻覚の一部だと思っていたんだ。でも、お母さんが部屋に入って来て……。
お母さんは、よろよろとベッドのそばまで来ると、床にうずくまって泣き出した。僕は心配になって声をかけたんだ。『お母さん、どうしたの?』って。
だけど、お母さんは……」
こぼれた涙を、伸はぬぐってやる。
「お母さんは、ちっともこっちを見てくれない。まるで、聞こえていないみたいに。それは、何度話しかけても同じだった。
だから僕は、ベッドから下りて、そばまで行って、お母さんの肩に手をかけようとしたんだ。そうしたら……。
手が……お母さんの体をすり抜けた。触ることが出来なかった。何度やっても!」
行彦は、拳を口に当てて激しく泣き出した。伸は、頭の中は混乱したまま、ほとんど無意識のうちに、行彦の髪を撫でる。