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透が店の入り口をくぐると、いつものあの香りが鼻をくすぐった。甘く、艶やかな香水の香りが空気を満たし、赤と黒を基調とした内装が、非現実的な世界へと彼を誘う。薄暗い照明が作る影が壁に長く伸び、まるで彼の心の奥底にある、言葉にできない想いを象徴しているかのようだった。
美咲はそこにいた。光沢のある黒いボディスーツが彼女のラインを際立たせ、柔らかく揺れるウサギの耳が微かにリズムを刻んでいる。透は彼女の姿に目を奪われ、現実を忘れたかのように立ち尽くす。その美しさは、まるで別の世界から現れた夢のようだった。
「待ってたよ、透さん。」
彼女の声は甘く、耳元で囁くように優しい。透は心の奥にまでその声が響くのを感じた。が、どれだけ柔らかくても、そこに温かさや真実の気持ちが見当たらないことを、透は痛感していた。彼女の言葉は、セリフであり、彼の心を満たすことはない。けれど、それでも透はこの時間を求めてしまう。冷たい現実から逃れるために。
透は彼女の横に腰を下ろし、二人は淡々と会話を交わす。テーブルの上には輝くグラスが置かれ、ワインが静かに注がれていく。グラスの縁を指でなぞる美咲の仕草に、透は無意識に見惚れてしまう。彼女の一挙手一投足が、完璧に計算された魅力で成り立っていることを理解しつつも、目を離すことができなかった。
窓の外に広がる都会の夜景が、ぼんやりとした光を二人に差し込む。ビルのネオンが遠くで瞬き、街の喧騒はこの部屋に届かない。しかし、その静寂の中にいる透の心は、どうしようもなく揺れ続けていた。
時間は過ぎ、美咲はいつものように仕事を終えようとしていた。彼女は立ち上がり、透に背を向けて鏡の前で髪を整える。その姿はどこか機械的で、感情の欠片も感じられない。透は、どうしてもその背中に手を伸ばしたくなった。けれど、伸ばせば何もかもが壊れてしまいそうな予感が彼を縛りつけた。
「今日はありがとう、透さん。また来てね。」
彼女の口から放たれた言葉は、冷たく響いた。それはもはや透のための言葉ではなく、ただのビジネス上の挨拶に過ぎなかった。彼女の声には、あの甘さも優しさもなく、透に対する感情は皆無だった。
透はゆっくりと席を立ち、重い足取りで部屋を後にする。ドアが閉まる音が、彼の心に深い穴を開けたかのようだった。美咲との時間が終わった瞬間、彼の中に残ったのは虚無感だけだった。彼女に求めていたものが、決して手に入らないものであることを痛いほど知りながらも、透は毎週ここに戻ってくる。
そして、透が去った後。美咲は鏡に映る自分の姿を見つめ、ほんの一瞬だけ感情を浮かべたかに見えたが、すぐにその表情は消えた。次の客の時間が迫っている。彼女は深く息を吸い込み、ドアが再び開いた瞬間に別の笑顔を作り出す。
「お待たせしました、マサトさん。今日も来てくれて嬉しいわ。」
その瞬間、彼女の目に映るのは、もう透ではなかった。彼女にとって、透はただの過去の客に過ぎない。愛もなければ、思い出すことさえない。光沢のあるネオンが薄暗い部屋を照らし出し、外の世界との断絶を強調するかのように、別の男との時間が静かに流れ始めた。