テラーノベル
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第1話「相棒」
畳の匂いは、今でも忘れない。
警察官になりたくて5歳で始めた柔道。
投げて、受け身を取って、立ち上がる。
泣く暇があったら次を考えろ_。
それが当たり前だった。
桐島 恵(27) 警察官だ。
署内での私の評価はだいたい決まっている。
真面目。冷静。頼れる。
「……はぁ」
パトカーの運転席で、息を吐く。
集合時間、30分経過。
「遅いわね……中野」
中野 隼人(24)
同じ班の警察官。私の相棒…と思う。
その男を一言で表すと…
顔が、整いすぎている。
彼は左右対称で、無駄がない。
制服を着ると、周囲の視線が一斉に集まる。
結果…。
女子高校生にツーショット写真をお願いされたり、 成人女性に人生相談をされて、 ひと目見ただけで本気で惚れた人も数え切れない。
本人は毎回こう言う。
「え?全然自覚ないんすけど」
信じられない。
ドアが開く。
「おはようさんっ。」
眠そうな声。
片手にコーヒー。
「……遅刻」
「相変わらず厳しくない?」
助手席に乗り込む距離が近い。
毎回近い。
「はい、恵。コーヒー。」
「……だから名前で呼ぶなって言ってたでしょ。」
「今さら言ってんの?」
「今さらも何もないわ」
コーヒーを受け取る。
業務優先。
「恵ってさ」
「何?」
「甘いのも飲める?」
「飲めるわよ」
「へえ……」
…何か嫌な予感にしかしないのだけど。
「甘いの好きな人ってだいたい夜も_。」
「中野」
「はい」
「続けたら殴る」
「え?怖。」
「あんたが悪いんでしょ」
私は前を向いたまま、ハンドルを握り直す。
中野は基本、だるい。
眠そうで、面倒くさがり。
距離感が壊れている。
…仕事になると別人だ。
現場判断は的確。
動きに迷いがない。
だから余計に人が寄ってくる。
「まぁ安心して」
「何?」
「本気で口説く気はないから。」
「……なら、なぜそんな話題をしてるのよ。」
「反応がいいから」
「私はただの警察官よ。」
「知ってる」
本当に質が悪い。
「それに」
シートベルトを締めながら、また距離が近づく。
「惚れてないって分かってる相手に、
どこまで踏み込めるか試すの…結構楽しいやん。」
「性格が悪いわ」
中野は、さらっと言う。
「その“本気で嫌じゃない顔”が一番危ない」
「……中野」
「なに、恵」
「一度だけ言うわ」
「うん」
「私はあなたに好意はない」
「…だからこそ…。」
にやり。
「今の距離でちょうどいい」
パトカーが走り出す。
揺れない女と 踏み込みすぎる男。
恋愛の一歩手前で、ギリギリ止まっている関係。
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