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洋樹と口論になってから1週間が経った。
この間、洋樹は私のアパートに1度も来ていない。
洋樹が浮気をしてから、罪悪感からか、ケンカになってもいつも洋樹が折れてくれていた。
こんなにケンカが長引いたことはなかった。
パソコン越しにいつも通りに働く洋樹を見ながら、ふと『私たちは、このまま終わっていくのだろうか』と考える。
それで良いのだろうか。
洋樹を許せないのに別れないのは、いつか洋樹を許せる自分になれると願っていたから。洋樹を信じることが出来ていた自分に、きっと戻れると信じていたから。
いつか、きっと。
『いつか』って、いつなんだろう。
洋樹も私も、許されようと、許そうと努力をしているのに。
『きっと』という言葉は希望でしかなく、確約されている事柄など1つもない。
「はぁ」溜息を一つ吐き、視線をパソコンに戻すと、メール受信通知が来ていることに気付いた。
送信者は、洋樹。
マウスを動かし、メールを開く。
【今日、家に行ってもいい?】
洋樹は私と、仲直りしたいと思っているのだろうか。それとも、別れ話をするつもりなのだろうか。
【いいよ】
短い返事を返す。
洋樹のテンションが分からない為、『何か食べたいものある? 作るよ』的な文章を付け加えることが出来なかった。
今日、私たちはどんな話をするのだろうか。
本日も何事もなく退社時間になった。
「帰ろっか」
洋樹が私のデスクに近づいて来た。
「うん」
1週間ぶりに洋樹と一緒に帰ることに、ちょっとした緊張が走る。
デスクの周りを片し、パソコンをシャットダウンすると、洋樹と一緒に事務所を出た。
お久しぶりの2人きりに、何を話せば良いのか分からない。
洋樹の隣で落ち着きなく歩いていると、
「ねぇ日花里。今日の夕飯はそうめんにしない? 俺が麺を茹でるから、日花里は実家の野菜で天ぷら揚げてよ」
洋樹が、あのケンカがなかったかの様に、普通に話しかけてきた。
「いいけど、家にそうめんないからスーパー寄ってもいい?」
「うん。デザートのアイスも買って帰ろうぜ」
洋樹が私の手を握った。
戸惑いながら洋樹の手を握り返すと、洋樹がきゅうっと握る手を少し強めた。
洋樹の顔を見上げると、洋樹の頬は少し強張っていて、普段通りを装っているだけで、やっぱり無理をしているんだと分かった。
アパートの近くのスーパーで、そうめんとアイスを買って帰宅。
2人でキッチンに立ち、並んで夕食を作る。
出来上がったものをテーブルに運び、一緒に食べる。
1週間ぶりの2人での夕食。1週間前と変わらない2人の夕食。
あのケンカのことは、触れない方が良いのだろうか。このまま流したところで、落としどころには何も落とせていない。結論が出ないまま、私は課長に料理を届け続け、洋樹に嫌な思いをさせるのだろうか。それとも、課長に料理を作るのを辞め、私が我慢をすれば良いのだろうか。
いつも通りの食卓の不自然さに眉を顰めながらもそうめんを完食し、アイスもしっかり食べた。
食器を方し、ソファーに凭れながらテレビを見ていた洋樹にお茶を持って行く。
「ありがとう」
洋樹は私からお茶を受け取ると、テーブルの上に置いてあったリモコンに手を伸ばし、何故かテレビを消した。
テレビを見ながらお茶でも飲んでまったりしようと思っていたが、やっぱり今日はいつも通りに見せかけた、いつも通りではない日なんだと察し、だからと言って何の日なのかも分からないので、とりあえず洋樹の隣に腰を掛けた。
「日花里。今度の土日、一緒に実家に行こう」
お茶を一口飲んだ洋樹が、思いもよらぬことを口にした。
「え?」
予想だにしていなかった洋樹のお誘いに、驚き固まる。
3年付き合っているけれど、私は1度も洋樹の実家に連れて行ってもらったことがない。洋樹が結婚を望んでいないのを知っていたから、自分から『行きたい』とも言ったことがなかった。
「親に紹介したいんだ。日花里のこと」
「……どうしたの? 急に」
視線が泳ぐ。ドクドクと音が聞こえそうな程に脈が動く。
これはきっと、あの頃私が待ち望んでいた展開なのだろう。
「転勤が決まった。日花里に一緒に来て欲しい。結婚しよう、日花里」
洋樹が、私の手の上に自分の掌を重ねた。
「……」
「……日花里?」
私の手を握っていたの洋樹の手が、私の顔に移動してきて、何度も頬を撫でる。
私が、泣いてしまったからだ。
喉の奥が熱い。
「……どうして」
やっとの思いで発した言葉は、『はい』でも『いいえ』でもなく『どうして』だった。だって、
「……どうして今なの? ……あ、そうか。転勤が決まったからって言ってたよね。でも、だけど何で今……。洋樹、気付いてたよね? 私が洋樹と結婚したがってたこと。何であの時じゃなくて今なの?」
今の私はもう、洋樹との結婚を願っていたあの頃の私ではない。
彼氏からのプロポーズに困惑する自分が、悲しくて仕方がない。
「あの頃は、実際歳も若かったし、考え方もガキだったから、誰かの人生を背負う覚悟がなかった。だから、日花里の気持ちに気付かないフリしてた。後悔したよ。物凄く。あの時、プロポーズしておけば良かったって。そしたら日花里、こんな風に迷わなかっただろうなって。俺も自覚を持って、フラフラ浮気なんかしないで、日花里を傷つけることもなかったと思うし」
洋樹が悲しそうに私の涙を拭う。
プロポーズって、もっと楽しくて嬉しくて幸せなものだと思っていた。
なのにどうして私たちは、こんなにもぐちゃぐちゃな顔をしながら苦しんでいるのだろう。
昔誰かが、『結婚はタイミングだ』と言っていた。
私は洋樹が大好きで、洋樹も私を好きでいてくれた。
それなのに、どうして私たちのタイミングはズレてしまったのだろう。
このプロポーズを断るということは、別れを意味している。
洋樹が転勤になれば、もう会うこともないだろう。だけど……、
「……ごめん、洋樹。一緒に行けない」
こんな気持ちで洋樹について行くことは出来ない。洋樹と結婚出来ない。
「どうしたら許してくれるの? 俺、あれからずっと日花里を大切にしてきたよ。日花里が嫌な思いをしない様に、危ない目に遭わない様に、大事に大事にしてきたつもりだよ。足りないなら言ってよ。何でもするよ。日花里の為なら何でも出来るよ、俺」
洋樹が両手で私の肩を揺らした。
洋樹の言う通り、大切にしてもらっていたと思う。
重いものを持たせない様にしてくれたり、夜道を歩かせない様にしたり、過保護なまでに心配してくれた。
足りないどころか、満ち足りていた。
「足りなくない。充分すぎるほど大事にしてもらった。だから辛いの。許せない自分が辛いの。洋樹の浮気くらい、笑い飛ばすことの出来ない自分が辛いの。洋樹の優しさが苦しいの」
「……それ、本当? 課長のことが好きだから、俺と結婚したくないんじゃなくて?」
洋樹の手が、私の肩の上でピタっと止まった。
「……え?」
「課長のどこがそんなにいいの? 子どもを産めない奥さんを責めて自殺させた男の何がいいの⁉」
突然課長を引き合いに出す洋樹。
「課長はそんな人じゃない」
「『そんな人じゃない』ならどんな人? 俺、本社の同期に聞いて確認したんだよ。課長の奥さんが不妊症だったことも事実。自殺したことも事実。日花里は、課長の奥さんが自殺したのは何でだと思う⁉」
私の肩を掴む洋樹の手に力が入って、痛くて苦しい。でも、
「何でそんなこと言うの⁉ 最低だよ、洋樹‼」
課長を悪く言う洋樹を許せず、言い返す。
「そうだよ‼ 浮気なんかした俺は最低だよ‼ でも、課長に気持ち傾けておいて俺を責める日花里だって最低だよ‼」
吐き捨てる様に言うと、怒っているのか泣きそうなのか分からない表情をしながら、洋樹は勢いよくアパートを出て行った。
「……私も、最低……だよね」
一人取り残された部屋で、蹲って泣く。
洋樹とのズレを、亀裂を大きくしたのは、間違いなく私だ。
洋樹は、私たちの関係を懸命に修復しようとしていた。だけど私は、傷付いた自分の心の回復さえままならなかった。
傷付けられたから傷付けて、結局また傷付いて。
私は何をしているのだろう。何がしたいのだろう。
こんな時なのに、『課長の奥さんが不妊症だったことも、自殺したことも事実』という洋樹の言葉が耳から離れない。
とても信じられない。
信じようが信じまいが、嘘だろうが本当だろうが、今後の仕事に支障はない。
課長のプライベートなこと。デリケートな問題。私に知る権利などない。
それでも、真実を知りたい。
上手くいかなかった恋愛に涙を流しながら、課長を気にする私は、やっぱり最低なんだと思う。
コメント
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第8話、読み終わりました。プロポーズの場面、あんなに切なくて苦しいものになるんだなって…。洋樹がようやく覚悟を決めたタイミングと、日花里さんがそれを素直に受け入れられない自分の気持ちとのズレが、本当に胸に刺さりました。「どうして今なの?」という言葉に、彼女の長い葛藤が全部詰まっている気がします。最後の洋樹の言葉も、お互い傷つけ合ってしまうもどかしさが…続きが気になります。