土曜日の午後1時。場所は夢が丘の隣町。
眠くなるほど暖かな陽気の中、俺は駅前広場に向かいながら力なく右手を挙げた。既にそこで俺を待っていた瑠斗が、両手をぶんぶん振って笑っているのが見えたからだ。
「おーい、裕孝ぁっ!」
「うるせえってば、デカい声で呼ぶなっ」
一緒に寮を出るよりは外で待ち合わせた方がいいということで隣町の駅に来たのだが、今思えばこれは別に「デート」なんてモノではないのだから、コソコソする必要などなかったのかもしれない。
「はあぁ…外で裕孝とデートできる日が来るなんて夢みたい…!」
「いやデートじゃねえって」
瑠斗は胸を押さえて息を荒くさせている。
「見せたい物があるんだろ。さっさと見せろ」
「へへ。でもその前にご飯食べたり歩いたり、せっかくだからデートっぽいことしたくてさ」
「…かったるいのは勘弁だぞ」
「だって今日は俺の大事なプレゼンの日だもん、最高の環境を整えないと。裕孝に信じてもらえなかったら時間の無駄になっちゃうしさ」
それに、と瑠斗は悪戯っぽくニッと笑って、俺より一歩前へ進んでからこちらを振り返り言った。
「『散歩』するのは好きでしょ?」
「…………」
そう。俺がここに来たのは、瑠斗に俺の元愛犬・コロの生まれ変わりであることを証明してもらうためだ。
何やら俺に見せたい物があるらしく、それを見さえすれば一発で瑠斗がコロだと信じられるのだという。かなり自信がありそうだったから俺もそのつもりで来たのだが、果たして本当にそれが目的なのだろうか。デートとか言ってるし。
「駅ビルのカフェにさ、4月限定の桜もちもちパンケーキがあるんだよ」
「あるから何だってんだ」
「俺が御馳走するから、裕孝も一緒に食べよう!」
言うなり弾む足取りで駅ビルに向かう瑠斗。俺は溜息をつきながらその後を追い、今日一日長くなりそうだと半ば自棄気味に覚悟した。
「さっさと証拠を見せろ」
匂いだけで胸焼けしそうなシロップたっぷりのパンケーキを頬張る瑠斗に、アイスコーヒーを啜る俺。幸せそうなモグモグ顔に、どこまでも仏頂面のむくれ顔。周囲から俺達はどんな関係だと思われているだろう。
「裕孝、まだ怒ってる?初めて会った日のこと」
フォークを握ったまま、瑠斗が少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
「…別にもう怒ってねえけど」
「ほんとに?だってあれからずっと、今日も俺に冷たい感じだし」
寂しそうな顔から一変、今度は唇をあざとく尖らせてふくれっ面になる瑠斗。
「別に冷たくしてねえよ。生徒には大抵こんな感じだ」
「裕孝ってどんな人がタイプなの?昔から男の方が好きなのは知ってるけど…俺みたいなのはタイプじゃない?」
堂々とそんなことを聞けるのは、自信に満ちている証拠だ。俺にはどうやっても得られない「生きる上での自信」。情けないが、まだ高校生の瑠斗の方が俺よりもずっと男らしい。
「俺が裕孝と同じくらいの大人だったら、また違ったのかな。高校生から何言われたって、大人の恋愛ってヤツにはならないもんね」
「タイプとか、年齢とか、そういう問題以前に」
その真っ直ぐな目を見ることができず、俺は瑠斗から視線を逸らして呟くように言った。
「俺は少し前に痛い目見て、今は誰とも恋愛する気が起きねえんだ」
「え?」
「大人の恋愛だろうと上手くいくとは限らねえんだよ」
「…………」
黙り込んだ瑠斗は唇を真一文字に結び、何かを考えているようだった。気まずい空気にさせて申し訳ないが、下手に希望を持たせるよりは却ってはっきり伝えておいた方がいい。
普段は思い出さないようにしている過去の傷。失恋の経験なんて誰でもあると分かっているが、俺はフラれたどころかかつての恋人から酷い裏切りを受けた。そのせいで地元に居られなくて、安定した仕事と全ての人間関係を捨てて上京したのだ。
大人も子供も関係ない。結局重要なのは自分と相手の人間性だ。
「裕孝」
ふいに瑠斗が俺の名前を呼んだ。
ハッとして顔を上げると──目の前には、パンケーキを頬張って太陽のように笑う瑠斗がいた。
「裕孝。今日は俺がコロだった証拠を見せるって言ったよね」
「あ、ああ」
瑠斗が続ける。
「昔散歩で河川敷に行った時…裕孝のお気に入りの青いボールをさ、俺が『取ってこい』できなかった時があったでしょ?」
「え、あ…」
「そのままボールを失くしちゃって、裕孝が悲しそうな顔になって、俺はすごくそれが心残りだったんだ。裕孝の命令を守れなかったことと、悲しませちゃったこと。コロの記憶を思い出してからずっと後悔してた」
頭の中に、小学四年の春の思い出が蘇った。コロに投げたカラーボールが突風に煽られて、川に落ち流されてしまったという──当時はショックだったが何てことのない思い出だ。
…しかしこれで瑠斗は昨日の「徒歩旅」に加え、「カラーボール」の思い出も言い当てた。
もしかして本当にコイツは…。
「だからさ、あの時と全く同じのは無理だったけど…裕孝にボールを返したいと思って、今日誘ったんだ。受け取ってくれる?」
「…瑠斗…」
瑠斗がボディバッグから取り出したのは、いかにも子供用の、片手サイズの──ぴかぴかの青いカラーボールだった。
「…………」
「もう大人の裕孝には必要ないって分かってるから、後で捨てても全然いいんだ。俺の胸のつかえが取れるってだけで──裕孝?」
俺はボールを両手で包み込むように強く握りしめ、その手を額に宛てて歯を食いしばっていた。そうしないと泣いてしまいそうだったからだ。
コロがボールを取れなかった時、ボールが川に落ちた時、俺はコロに何と言ったか。
あれだけ忠実で俺を好いてくれていたコロに、俺はなんて酷いことをしたか。
――コロなんかもう知らない!
一瞬ビクッと体を震わせたコロは悲しそうに目を潤ませ、しゃくりあげる俺の後をトボトボついてきていた。
泣きながら帰宅しても誰も俺の心配なんかしてくれなかった。そういう家族だった。寂しくなると俺はまた身勝手にコロを求めて抱きしめ、次の日にはいつも通りの関係に戻っていたけれど…
俺はあの時のことをずっと、コロに後悔させていたのか。
「…ごめん…。ごめんな、コロ…」
体に力を入れていないと涙が溢れてしまいそうで。もしかしたら声も震えていたかもしれない。
だけどそんな状態になってようやく、俺は目の前の瑠斗がコロの生まれ変わりであると理解できた。
もう間違いない。彼はコロだ。
俺の大好きなコロだ。
「裕孝、泣かないでよ。俺がフッて泣かしたと思われるよ」
「なっ、別に泣いてねえっ!」
「あはは。泣いてないけど怒ってた」
いつもの調子で瑠斗が笑う。俺はさり気なく鼻をすすって何度か瞬きを繰り返し、それから改めて手の中のボールに視線を落とした。
「…ありがとうな」
*
「うぅ、パスタまで食べちゃったし腹いっぱいだ…。しかも俺が裕孝に御馳走するって言ったのに、奢ってもらっちゃって…」
「懐かしいモン貰ったからその礼だ。高校生は小遣いも少ねえだろ」
からかうように言うと、瑠斗が腹を摩りながらニッと笑って返してきた。
「流石は俺のご主人様だよ」
午後5時、夢が丘に戻った俺達は夕暮れの公園を寮に向かって歩きながら色々な話をした。もちろん内容は、あの頃の思い出話だ。
「散歩の帰りに雨降って、冷えてお漏らししたこともあるよね」
「お前っ…それは絶対誰にも言うなよ!」
「あはは。そういう裕孝の秘密ならいっぱい持ってるなぁ」
こうして話していると、改めて瑠斗はコロなのだなと再確認する。どんな思い出を語っても違和感なくスムーズな返答が戻ってくるのが嬉しかった。
またコロに会えたというのも勿論嬉しいが、俺以外にコロのことを覚えてくれている「人間」がいるというのが、何だか凄く嬉しかったのだ。
「ガキの頃は友達も少なくて、お前と遊んでることの方が多かったからな」
「俺なんてもっと友達いなかったから、裕孝が世界の全てだったよ」
「うちの家族は犬なんて可愛がる連中じゃなかったしな」
「お母さん裕孝に厳しかったもんね…。あ、でも裕孝が学校行ってる間、お母さんが遊んでくれることもあったよ」
「マジか。散々コロのこと汚いだの何だの言ってた癖に」
「あはは、最初は怖かったけどね」
俺の横を歩きながら朗らかに笑う瑠斗の顔に、思わず見入ってしまう。こうして見ると確かに優し気な目元やツンと尖った鼻にコロの面影があるような気がして、堪らない気持ちになった。
「…ありがとうな、瑠斗。お前がいたから俺は毎日が楽しかったよ」
呟くように言えば、瑠斗がきょとんと目を瞬かせて俺を見た。
「それだけにコロが死んだ時…マジで俺は人生終わったと思った。信じられるものも頼れるものも失くして、一気に世界が真っ暗になったんだ」
「…………」
「また会えるなんて思ってなかったからさ、その…」
照れ臭くなって言葉を切り、そっぽを向く。見れば空には星が輝き始めていた。
「裕孝…」
「ん?」
「それって俺のこと受け入れてくれるってこと――んがぁっ!」
思い切りキスする口で迫ってきた瑠斗の額にデコピンを決め、俺は小さく溜息をついた。──全く、油断も隙もねえ。
「いったぁ…。裕孝の乱暴者…」
「今のお前はコロじゃない、武内瑠斗だろ。人間はいきなり飛びついてキスなんかしねえんだよ」
「うー。犬の姿ならペロペロふんふんできるのに…」
呆れるほど欲望に忠実な奴。感情が高ぶりやすいのも気持ちが真っ直ぐなのも、もしかしたら動物的な本能が関係しているからなのか。
「あーあ、もう今日が終わっちゃう」
公園を抜ければ寮はすぐそこだ。瑠斗は遊び足りない少年のように口を尖らせ、頭上に広がる夜空を見上げている。
「今日は裕孝に奢ってもらったけど、いつかは俺が豪華ディナーで裕孝をエスコートするからな!」
「そうかよ、期待しないで待っとくわ」
「そのためには早く大人になって、たくさん仕事して…」
ぶつぶつと計画を練っている瑠斗を見てつい噴き出しそうになったが、俺はふと冷静になって考えた。
──瑠斗が俺を好いているのは、武内瑠斗として俺に惚れているのではなく…コロの記憶が残っているせいじゃないのか。
もしも記憶が封印されたままだったなら、瑠斗は俺なんかよりもっといい奴と出会って幸せになっていたかもしれない。
コロの生まれ変わりでも、「瑠斗」は「コロ」ではない。
彼には彼の、大切な人生がある。
「瑠斗」
寮の中庭に入ったところで、俺は瑠斗を呼び止めた。
「なに?」
等間隔に並んだ庭の外灯。明かりの下で俺を振り返った瑠斗の目は、どこまでも真っ直ぐに俺を見ている。
「…俺はさ。そんな人から好かれるような人間じゃねえし、お前が期待してるような男でもねえ」
「何言ってんの…?」
「お前が俺を好いてくれるのは有難いが、多分それは…コロの気持ちなんだろ。瑠斗本人の気持ちがコロの記憶に上書きされてるだけだ」
「違う、それは…!」
瑠斗が何か言う前に、俺は続けた。
「お前は普通にハンサムだし、俺なんかよりずっといい奴と付き合える。コロのことは俺だって大好きだが、そのせいで瑠斗の将来を潰したくねえって──」
「裕孝」
「っ…!」
一瞬、ふわふわで柔らかい茶色の毛に包まれた気がした。温かく優しくていい匂いがして、どこか懐かしくて──
強く抱きしめられたと分かったのは、瑠斗の息を耳に感じたからだ。
「瑠、…」
「俺は俺だよ。コロの記憶も含めて俺なんだ。この気持ちは嘘とか間違いじゃない。俺は裕孝のことが大好きだよ」
「いや、だから…」
「今は信じてくれなくてもいい。いつか必ず、絶対に裕孝の気持ちを俺に向かせてみせるから」
力強い宣言。どうしてそんなに俺なんかに対して真剣になれるのだろう。いい年して何も持っていない、恋愛経験も乏しい、意欲も自信もない男なんかに。
「だから裕孝はどんと構えて待っててよ。その間に俺、絶対に裕孝に好きになってもらえる男になるから」
そもそも瑠斗とコロの「好き」は、恋愛感情によるものなんだろうか。俺だってコロのことは好きだし、瑠斗のことだって今日一日過ごしてみて悪い奴じゃないと分かった。
だけど友人や生徒に対する「好き」と、恋愛感情の「好き」は違う。
どうして彼は、俺に恋愛感情を抱いてるんだろう。
「裕孝、大好き…!」
「…わ、分かったから!強く抱きしめんな、苦しいって!」
「やだ、もっと」
「や、め、ろ…!」
両肩に手を置いて何とか引き剥がしたものの、瑠斗は「裕孝のけち」と子供っぽくむくれて不満そうだ。だけどこれを認めてしまっていつでも何処でも抱きしめられてしまうのは、立場上マズい。変な噂を立てられても面倒だ。
「いいか瑠斗。寮では誰が見てるか分からねえから、抱き付いたりする系のスキンシップは禁止だ。守れるな?」
「裕孝の命令?」
「そうだ」
「…分かった、俺ちゃんと守るよ。寮ではスキンシップ禁止。寮では禁止…」
自分に言い聞かせるように繰り返す瑠斗。そうだ、コロは小さい頃から頭が良くて従順だったじゃないか。
「…大丈夫!明日から俺は絶対に裕孝に抱き付いたりしない。寮ではスキンシップ禁止、覚えたからな!」
「あ、ああ。頼んだぞ」
拳を握って力強く宣言している瑠斗だが…果たして上手くいくだろうか。主人の命令に従順である一方、自身の本能にも従順というのが大抵の犬の習性なのだ。
「任せてよ裕孝!」
本当に大丈夫なんだろうか?
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