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第3部 非公開
第14章 雪
一月十六日、午前七時。新宿駅の特急ホームで、勇斗は腕時計を見た。
出発の三十分前だった。それなのに、仁人はもう来ていた。
黒のコートに、きっちりと巻いたマフラー。手に、革の鞄と折り畳んだ紙。時刻表を印刷してきたらしい。
「早いですね」
「遅れるよりは、いいので」
「三十分前ですよ」
「三十分前が、遅れないということです」
勇斗は笑った。この人はそういう人だ。
勇斗も、切符と天気予報はすでに確認していた。山梨は午後から雪。折り畳み傘は二本。カイロも二つ。マメであることは、この仕事の最低限の装備だ。
「雪の予報が出ています。帰りが、乱れるかもしれません」
「……そうですか」
仁人は、少しだけ眉を寄せた。それから、鞄からもう一枚紙を出した。
「代替の帰りの便を、三つ調べてあります」
「え」
「念のためです」
勇斗は、声を出して笑いそうになるのをこらえた。この人は、自分よりマメだ。
ホームの売店で、駅弁を選ぶ時間になった。
仁人は、店の前で立ち止まったまま動かなかった。棚に並ぶ十数種類の弁当を、端から順に真剣に見ている。
一分。二分。
「……決まりました?」
「まだです」
五分。
「牛と、鶏と、焼き鯖で迷っていて」
「全部買えばいいじゃないですか」
「そういう問題じゃないんですよ」
仁人は、真面目な声で言った。この顔で、駅弁にこれだけ悩む。勇斗は、また笑いそうになった。
結局、十分かけて焼き鯖を選んだ。
特急の窓側の席で、仁人は、駅弁の包みを丁寧に開けた。窓の外を、街並みが流れていく。ビルが減り、山が近づく。
仁人の目が、少しだけきらきらして見えた。
今日の目的は、明確だった。
ヴェルディエ傘下の国内工房。山梨の宝飾の産地にある。買収が成立した場合、Lueurの作品の一部を、ここで量産できるか。仁人が、この会社の最大の課題として挙げていた問題だ。一点ずつ手で作るものは、数を増やせない。
それを、仁人自身の目で確かめに行く。買う側の勇斗と売る側の仁人が、並んで。
奇妙な構図だ、と勇斗は思った。
工房は、山あいの低い建物だった。
雪は、まだ降っていなかった。空が白く重い。
「ようこそ。遠いところを」
出迎えたのは、工房長だった。六十代の小柄な男。作業着の袖から出た指が、太くて節くれだっている。
「見せていただけますか。何もかも」
仁人が、深く頭を下げた。
工房の中は、静かで熱かった。鋳造の炉。研磨の機械。石を留める、拡大鏡の下の、職人たちの背中。
「鋳造は、こちらです」
工房長が、説明する。原型から型を取り、溶かした金属を流し込む。同じ形を何個でも作る。
「量産、というのは、そういうことです。一点ずつ削るのではなく、型を作って、同じものを複数作る仕組みですね」
仁人は、メモを取っていた。ペンが止まらない。目が輝いていた。
「この型を使えば、柔太朗の作品は、月に何点まで作れますか」
「デザインによります。この指輪の細さなら」
工房長は、サンプルの指輪を一つ取り出した。
「月に、最低でも二百は」
「最低でも二百」
仁人の声が、少し上ずった。今、手作りで作れるのは、月に十数点だ。
「ただし」
工房長は、指輪を光に透かした。
「一点物の味は、量産では消えます。表面の、わずかな揺らぎ。職人の手が残す癖。あれは、型では出ません」
「……ええ」
仁人は、頷いた。
「だから、全部を量産にはしない。柔太朗が手で作るものと、型で作るものを分ける。手で作るものは、高く。型で作るものは、手に取りやすく」
「それなら、道はあります」
工房長は、サンプルを、仁人に渡した。
仁人は、それを両手で受け取った。壊れものを扱うような手つきだった。指輪を目の高さに持ち上げて、長い間見ていた。
勇斗は、その横顔を見ていた。
文学と芸術の人間。ものを大切にする人。この人は数字の人間ではない。数字を使って、ものを守ろうとしている人だ。
「シナジー、ですね」
勇斗は、小さく言った。
「一足す一が、二より大きくなりそうです。ヴェルディエの工房と、Lueurのデザインが組めばそうなる」
言ってから気づいた。
組む。会社を一つにするのではなく。
工房を使う。デザインを提供する。お互いの名前を残したまま。
買収しなくても、ここは使える。
その考えが、頭の隅に灯った。まだ、小さな灯りだった。
午後から、雪が降り始めた。
工房を出るころには、地面が白くなっていた。駅に着くと、電光掲示板に赤い文字が並んでいた。
『運転見合わせ』
「……止まりましたね」
「代替の便は」
「全部、止まっています」
仁人は、持っていた紙を静かに鞄に戻した。三つの代替案は、全部雪に消された。
「泊まるしか、ないですね」
勇斗は、駅前の旅館を、二部屋押さえた。別々の隣り合う部屋。
夕食は、旅館の近くの小さな居酒屋にした。カウンターと小上がりが四つ。雪の夜で、客はほとんどいなかった。
「熱燗を」
仁人が意外なことを言った。
「飲まれるんですか」
「一杯だけです。冷えたので」
運ばれてきた小さな徳利から一杯。仁人は、猪口を息で少し冷ましてから口をつけた。
一杯で、頬が赤くなった。
「……弱いんですね」
「そんなことは、ありません」
「顔、赤いですよ」
「炉の熱が、まだ残っているんです」
言い訳が苦しい。勇斗は笑った。口が大きく開いた。
「笑わないでください」
仁人が小さく言った。勇斗はさらに笑った。
仁人は、詩集の話を始めた。あの夜、会議室の机に置いてあった古い文庫本。学生の頃から、繰り返し読んでいるという。
「意味が、全部分かるわけじゃないんです。ただ、声に出すと、体が少しだけ変わる」
いつもより、少しだけ早口だった。目がきらきらしていた。勇斗は、その顔を黙って見ていた。
「……すみません。つまらない話を」
「いえ。全然」
「勇斗さんは、こういう話に興味がないでしょう」
「あります」
勇斗は即座に言った。
「仁人さんの話なら」
言ってしまって、少し間が空いた。
「……あ、そうですか。」
仁人は、平らな声で返した。けれど、耳の端が赤かった。それは、酒のせいではなかった。
旅館に戻る途中、仁人が、土産物の店の前で足を止めた。
駅前の小さな店だった。水晶の小さな原石や、干した果物が、ガラスケースに並んでいる。閉店間際で、店主が、雪の夜を持て余してあくびをしていた。
「……少し、いいですか」
「どうぞ」
仁人は、店の中で、長い時間悩んだ。
水晶の原石を、一つずつ手に取る。光にかざして傾ける。首を傾げて置く。また、別のを取る。
「柔太朗には、これでしょうか。この、透き通ったの」
「いいと思います」
「でも、こっちの、少し曇ったのも、いい線をしているんですよ」
「じゃあ、両方」
「そういう問題じゃないんです」
また、その言葉だ。勇斗は笑った。
結局、透き通ったほうを選んだ。それから、干し柿の袋を手に取った。
「舜太には、これを」
「舜太さん、干し柿、好きなんですか」
「好きなんですよ。多分」
真面目な顔で、確かでもない理由を言っていた。
二つの包みを、大切そうに抱えている。その顔を勇斗は見た。
柔らかい顔だった。誰かのために、何かを選ぶ人の顔だった。
この人は、二人を本当に大切にしている。
だからこそ、と勇斗は思った。だからこそ、二年近く前に一人で何かをしたのだ。
旅館の縁側には、ガラス戸の向こうに、雪の庭が広がっていた。
夜十一時。勇斗は眠れずに、廊下に出た。縁側の椅子に誰かが座っていた。
仁人だった。
浴衣の上に羽織を重ねて、膝の上に詩集を開いている。けれど、目は文字を追っていなかった。庭の雪を見ていた。
「眠れませんか」
「……ええ」
勇斗は、隣の椅子に座った。距離は、腕一本分だった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。雪が、音もなく庭に積もっていく。
「勇斗さん」
仁人が、口を開いた。
「もし、ですけど」
「はい」
「もし、誰かのためにした選択が、その誰かを傷つけるとしたら」
勇斗は動かなかった。
雪の庭が、二人の間にあった。
「その選択は、間違いだったんでしょうか」
声が低かった。詩集を持つ指が白くなっていた。
仁人は、続きを言いかけた。口が動いた。何かを言おうとしていた。
けれど、次の瞬間、口を閉じた。
「……いえ。忘れてください」
平らな声だった。いつもの声だった。
勇斗は、何も言えなかった。聞き出すことはできた。今ならできた。あなたは何をしたんですか、と。二年近く前に、と。
けれど、言わなかった。
「間違いかどうかは」
勇斗は、雪を見たまま言った。
「傷つけた誰かが、決めることかもしれません。……俺はそう思います」
「……」
「話したくなったら、いつでも聞きます。今夜でも、明日でも、一年後でも」
仁人は、答えなかった。ただ、少し息を吐いた。肩の力が、ほんの少し抜けたように見えた。
「……ありがとうございます」
「おやすみなさい」
勇斗は先に立ち上がった。部屋に戻る。
扉を閉めて、布団に座る。窓の外の雪は、まだ降っていた。
仕事だ、と思った。
仕事だから、聞き出さなかった。相手が自分から話すのを待つ。そのほうが、より多くを引き出せる。
そう言いかけて、やめた。
その言葉が、もう、自分を騙せなくなっていることに気づいた。
今、あの人を待っているのは、仕事のためではなかった。
コメント
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うわあ、今回のエピソード……すごく好きです。仁人さんが♡♡♡選びに10分も悩むところとか、本当に可愛くて。でも後半の縁側での「誰かを傷つけるとしたら」って問いかけ、一気に空気が変わってドキッとしました。勇斗さんが「仕事だから」聞き出さなかったのに、最後に「仕事のためではなかった」と気づくところ、最高にグッと来ました……! この2人の距離感が少しずつ変わっていくのがたまらないです。