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「お腹空いた」
火野がそう言ってアホライダーと喫茶店へ入る。
早朝の喫茶店。店内には客もまばらで、古い焙煎機の音と、低いジャズだけが流れていた。
火野は運ばれてきたモーニングセットのトーストを、味気なさそうに口に運ぶ。
向かいの席では、アホライダーが何も注文せずに座っていた。
彼は、火野がフォークを持つ指先の、少し硬くなったタコを赤い複眼でじっと見つめている。
「……お前の指は、何かを掴もうとしていた形をしているな」
アホライダーの無機質な声に、火野の手が止まった。彼女は自嘲気味に鼻で笑い、琥珀色のコーヒーを見つめる。
「……掴もうとして、全部指の間からこぼれ落ちたのよ。何一つ、残ってない」
彼女の意識は、コーヒーの湯気の中に、十年前の景色を映し出していた。
幼い頃から、音楽だけが自分の居場所だった。
高校時代、汗水垂らして働いたバイト代で買った安物のギター。
毎日、指先が裂けて血が滲むまで練習した。だが、家族からは「うるさい」と疎まれ、学校では「向いてない」と陰口を叩かれた。
それでも、放課後の公園で一人、不格好な音色を響かせる時間が、火野にとっての唯一の呼吸だった。
大学に入り、一人暮らしを始めてもそれは変わらなかった。
音楽サークルに入ったが、彼女の弾く音はどこか周囲と馴染まない。
「火野の音って、なんか重いんだよね」
そんな声を聞き流しながら、彼女はただ、独りよがりに弦を弾き続けた。
転機は、大学一年の夏休みだった。
合宿免許。逃げ場のない山奥の教習所。そこで同じ部屋になったのが、ユリだった。
ユリもまた、ギターを抱えて合宿に来ていた。
「ねえ、今のフレーズ、カッコいいね!」
屈託のない笑顔でそう話しかけてきたユリと、火野はすぐに打ち解けた。
教習が終われば、狭い寮の部屋で肩を並べてギターを弾いた。不器用な火野の音に、ユリの軽やかな旋律が重なる。初めて、自分の音が「孤独」ではないことを知った。
ある日の午後、事件が起きた。
悪ふざけをしていた男子学生の足が、床に置いてあった火野のギターに激突した。
嫌な音がして、ネックが根元からへし折れる。
「あ……ごめん、わざとじゃ……」
「……いいよ。もうボロかったし」
火野は淡々と答えたが、その指先は震えていた。長年、自分を支えてきた唯一の友を失った喪失感。
その夜、路上試験を翌日に控えた火野に、ユリは赤いギターのピックを差し出した。
「これ、お守り。絶対合格するよ」
「……ありがと」
翌日、ユリに見送られて臨んだ試験。火野は無事に合格を決めた。
部屋に戻ると、ユリが小さなショートケーキを買って待っていた。
「おめでとう、朝日!」
二人でケーキを分け合い、携帯ゲームで笑い転げる。その時間は、火野の人生で最も鮮やかな色をしていた。
「……これ、使って」
不意に、ユリが自分の愛用していたギターを差し出してきた。
「えっ、ダメだよ、それはユリの大事な……」
「いいの。私より、朝日の方がこの子を鳴らしてあげられる気がするから。強制だよ!」
押し問答の末、火野はそのギターを抱きしめた。
今まで誰にも認められなかった自分の音楽を、ギターごと託された。火野の目から、初めて熱い涙がこぼれ落ちた。
次の日。ユリの路上試験の日だった。
「行ってくるね!」
ユリは笑顔でハンドルを握った。火野は譲り受けたギターを抱え、彼女の帰りを待つために部屋へ戻った。
一人、部屋でギターを鳴らす。
ユリが戻ってきたら、新しく覚えた曲を聴かせよう。
そんなことを考えながら、火野は優しい旋律を爪弾いていた。
その数十分後。
ユリの運転する車の正面に、突然、対向車が現れた。
片側一車線の道路。昼の光を浴びたアスファルトの向こうから、ありえない角度で車が迫ってくる。逆走だった。
クラクションが鳴ったのが、どちらの車だったのかは分からない。
次の瞬間、凄まじい金属音が昼の空気を裂いた。
正面衝突だった。
鈍い衝撃とともにフロントが押し潰れ、ボンネットが折れ曲がる。フロントガラスは蜘蛛の巣のようにひび割れ、エアバッグが白い煙とともに弾けた。
衝撃で二台の車は路肩へと押し出され、やがて動きを止める。
火球が上がることはなかった。
ただ、昼の日差しの下で、二台の車は無残に押し潰れ、鉄屑の塊になっていた。
その運転席で、ユリはハンドルにもたれたまま、すでに息をしていなかった。
何も知らない火野は、教官に呼び出されるまで、ずっとギターを弾き続けていた。
教官室に入り、信じられない言葉を聞かされた瞬間。
火野の心の中で、何かが音を立てて死んだ。