テラーノベル
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深夜の閑静な住宅街へ向かうタクシーの中。吉田仁人は、自分の心臓が肋骨を突き破るのではないかというほどの激しい鼓動に、必死で耐えていた。
(終わった。本当に、人生が終わった……)
スマホの画面に表示されたままの、勇斗からの位置情報。そこには、都内でも有数の高級低層マンションの住所が記されている。
脳内では、数分前の配信での自分の醜態が、地獄の業火のようにリフレインしていた。
『排水溝に流れて、そのまま彼の家の配管の一部になりたい』
……あんなことを、あんなキモすぎる独白を、世界で一番聞かれたくない相手にフルスロットルで聞かれてしまった。
「……死にたい。今すぐ、このタクシーごとどこかに消えたい……」
小声で呟き、窓ガラスに額を押し当てる。
けれど、逃げることは許されない。勇斗は「今すぐ来い」と言ったのだ。逆らうことなど、今の仁人には到底不可能だった。
タクシーが停車したのは、重厚な石造りの門構えをしたマンションの前だった。
仁人は震える指で支払いを済ませ、車を降りた。深夜の冷たい空気が、熱くなった頬を容赦なく叩く。
エントランスのインターホン越しに自分の名前を告げると、一秒の迷いもなくオートロックが解除された。その無機質な電子音さえも、自分を捕らえる罠の音のように聞こえた。
エレベーターが最上階で止まる。
静まり返った廊下を、自分の足音だけが響く中、仁人は指定された部屋番号の前に立った。
ドアの向こう側には、佐野勇斗がいる。
これまでポスター越しに、画面越しに、何万回と眺めてきたあの人が、今、この扉一枚を隔てた場所に実在している。
仁人は三回、深く呼吸をした。けれど、肺に入ってくる空気は驚くほど冷たく、指先は氷のように冷え切っている。
「……吉田、です」
チャイムを鳴らす勇気が出ず、独り言のように呟いてから、意を決してインターホンのボタンを押した。
数秒の後、カチリ、と鍵が開く音がした。
「……待ってたよ。入りな」
扉が開き、そこには部屋着のスウェット姿の勇斗が立っていた。
髪は少しセットが崩れていて、事務所で見せた完璧なスターの姿よりも、ずっと生々しく、一人の男としての実在感を放っている。
その瞳は、怒っているようには見えなかった。むしろ、どこか面白そうな、獲物を追い詰めたハンターのような、危険な光を帯びている。
「……お邪魔します……」
蚊の鳴くような、今にも消えてしまいそうな掠れ声で呟き、仁人は勇斗の自宅リビングへと足を踏み入れた。
そこは、SNSの断片的な投稿や、インスタライブで何度も脳内に焼き付けてきた光景そのものだった。
ブラウンの革張りのソファ、スピーカーが並ぶ音響設備、暖色系の間接照明。
普段の仁人であれば、「聖地巡礼の頂点」として狂喜乱舞し、隅々まで網膜に刻もうとしたはずの場所だ。しかし今の彼にとっては、そこは輝かしい聖域ではなく、自分の罪を裁かれるのを待つ、逃げ場のない被告席のようにしか感じられなかった。
「そんなに玄関で固まってないで。ほら、そこ座って。お茶でいい?」
「あ、……はい、お気遣いなく……」
勇斗の促しに、仁人は背筋を凍らせながらソファの端へと移動した。
本革の柔らかな感触が、余計に居心地を悪くさせる。対面に座る勇斗は、首元が少し緩んだスウェット姿だった。事務所で見せた「完璧な佐野勇斗」よりもずっとリラックスした、プライベートな雰囲気。
しかし、そこから放たれる圧倒的なオーラと、少しだけ混じる夜の気配が、仁人の呼吸を浅くさせた。
「……あの、佐野さん。……先程は、本当に、すみませんでした」
仁人は膝の上で拳を白くなるほど握りしめ、一度も顔を上げることなく、床のフローリングの目を見つめたまま一気にまくし立てた。
「仕事相手として選んでいただいたのに、裏であんな……気持ち悪い配信をしていて。ファンなのは事実ですけど、度を越してました。……排水溝に流れるとか、法に触れるような妄想とか……。本当に、最低ですよね。プロとしての自覚がなさすぎました。契約破棄、当然だと思います。……本当に、申し訳ありませんでした!」
一気に謝罪を吐き出すたびに、胸の奥が締め付けられ、視界がじわりと滲む。
これで終わりだ。この数週間の、夢のような、あまりにも甘美すぎた時間はすべて、自分のオタクとしての業と不手際によって、無惨な泡となって消える。
……そう覚悟した。
しばらくの間、部屋を支配したのは重苦しい沈黙だった。
やがて、ミシッ、とソファがわずかに沈む音が聞こえた。勇斗が立ち上がり、仁人のすぐ隣、肩が触れ合うほどの距離まで移動してきたのだ。
「……ねえ、顔上げて?」
初対面の時にも聞いた、あの抗いがたいほど優しく、けれど有無を言わせない響きを持った声。
仁人が恐る恐る、折れそうな首を動かして顔を上げると、そこには怒りも軽蔑も、失望の色もなかった。
むしろ、いたずらが大成功した子供のような、茶目っ気たっぷりの、それでいてひどく色っぽい笑みを浮かべた勇斗がいた。
「『不快』なわけないじゃん。むしろ逆。……知ってたよ、最初から」
「え……?」
「仁人くんが俺のファンだってことも。……あの配信をやってるのが、仁人くんだってことも。……全部知った上で、俺からオファーしたんだよ」
仁人は、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
「知っていた」?
自分が彼を崇拝し、裏で「限界オタク」として狂奔していることを分かった上で、あんな丁寧なDMを送り、あんなに優しく接し、さらには食事にまで誘っていたというのか。
「だってさ、あんなに一生懸命俺のこと見てくれて、あんなに綺麗な声で歌う人がいたら、気になるに決まってんじゃん」
勇斗はそう言うと、仁人の右手をひょいと持ち上げた。
指先から伝わる勇斗の体温。あの時、レストランで感じた衝撃が、さらに鮮烈な輪郭を持って仁人を襲う。
「……事務所で握手した時さ、仁人くん、すごい震えてたでしょ。……あれ見て、確信したんだよね。『あ、この子、ガチのファンだ。』って」
勇斗は快活に笑うと、握った仁人の手を離さないまま、空いた左手の指先を仁人の手首にそっと添えた。
「……っ!? ……はや、佐野さん……?」
「手首、なぞったやつ? ……あれは、ちょっと意地悪した。仁人くん、あんまり可愛い顔するからさ。……確信犯だよ」
佐野の長い指先が、仁人の手首の、脈打つ急所を、ゆっくりと、愛おしむように滑り降りる。
トク、トク、トク、と、制御不能に陥った仁人の鼓動。
それを指先で楽しむように、あるいは自分の所有物であることを確かめるように、勇斗の指は離れようとしない。
皮膚が擦れる微かな音、その摩擦が熱となって背筋を駆け抜け、仁人の意識を朦朧とさせる。
「……仁人くんの指、すごく綺麗だよね。ギターとか、ずっと弾いてきた人の指。……俺の曲を、こんなに柔い指で書いてくれてたんだな、って思ったらさ」
勇斗の声が、一段と低く、密やかな響きを帯びる。
彼は手首をなぞるのをやめると、そのまま指先を上へと滑らせ、仁人の上気した頬を大きな掌で優しく包み込んだ。
「……仁人くんのこと、もっと知りたくなっちゃった。……仕事仲間としてじゃなくてさ。……もっと、深いところで。……俺の知らない君を、全部見せてよ」
「……っ……」
仁人は、もはや言葉を紡ぐことができなかった。
画面の向こう側の存在。手が届くはずもなかった絶対的な太陽が、今、自分を「ファン」としてではなく、「一人の男」として見つめている。その瞳に宿る熱は、アイドルがファンに向ける広大な慈愛などではなく、目の前の相手を独り占めしたいという、剥き出しの執着だった。
「ねえ、仁人くん。……配信でリアコって言ってたよね。それって、アイドルとしての俺が好きってこと? それとも……」
勇斗の顔が、重力に逆らえないようにゆっくりと近づいてくる。
互いの吐息が混じり合うほどの至近距離。仁人の脳内は、真っ白なノイズと、心臓の爆音で埋め尽くされた。
「……キス、していい?」
「あ……そういう意味、……っ!?」
裏返った情けない声を出す仁人に、勇斗は少しだけ切なそうな、それでいてすべてを支配するような確信に満ちた笑みを浮かべた。
「俺は、そういう意味。……仁人くんを、独り占めしたい。ダメ?」
ダメなわけがない。
そんなこと、言われるまでもない。
仁人は、震える唇をぎゅっと噛み締め、胸から溢れ出しそうな、数年分の想いを言葉に乗せた。
「……俺も、……俺も、そういう意味で、……ずっと前から、大好きです……っ」
その言葉が、最後まで紡がれるよりも早く、二人の唇は重なった。
最初は、触れるだけの、羽のような優しい確認のキスだった。
けれど、仁人がそれに応えるように、無意識に勇斗のシャツの裾をギュッと掴むと、キスは一気に熱を帯びた。
深く、激しく。舌が絡まり、互いの肺にある空気を奪い合うように吐息が混ざり合う。
そのままソファに押し倒されると、勇斗の大きな体が、仁人の視界を、そして存在のすべてを覆い尽くした。
「……ん、……はぁ、勇斗、くん……っ」
「あ、名前で呼んでくれた。……もう、我慢しなくていい?」
勇斗の指が、仁人の服の裾から滑り込んだ。
ひんやりとした空気が肌を撫で、直後に勇斗の熱い掌が素肌に直接触れる。
その生々しい感触に、仁人はハッと我に返り、顔を真っ赤にして勇斗の肩を必死に押し返した。
「あ、あの……っ! シャ、シャワー、浴びさせてください!」
「えー、今?」
「無理です! 勇斗くんの前で……汚いままなんて、絶対に無理です! 死んでも嫌です、そんなの!」
必死すぎる仁人の剣幕に、勇斗は一瞬呆気にとられたように瞬きをしたが、すぐに「……あはは、分かった。じゃあ、先に入っておいで?」と、その不器用な誠実さを愛しむように笑って許してくれた。
バスルームに駆け込んだ仁人は、人生で一番丁寧に、それこそ指の先、爪の間まで念入りに自分を洗い上げた。
鏡に映る自分の体は、熱いお湯のせいか、それともこれから起こることへの期待と緊張のせいか、淡く上気して赤みを帯びている。
(どうしよう、俺、本当にこれから……勇斗くんと……。あんなことや、こんなことを……)
心臓の音がうるさすぎて、シャワーの音さえ遠く感じる。
一秒でも早く出たいような、一生このまま隠れていたいような。
ようやく脱衣所へ出ると、勇斗と交代する。
バスルームから聞こえ始めた水の音。それは、これから始まる「さらに深い夜」への、秒読みの合図のように聞こえた。
やがてシャワーの音が止まり、リビングに再び静寂が戻る。
仁人はリビングのソファの端で、勇斗から借りた、大きめのTシャツの裾を指が白くなるほど握りしめていた。
(どうしよう、どうしよう……本当に、本当に、これから……)
「お待たせ。……仁人くん、そんなに緊張してたら倒れちゃうよ?」
濡れた髪をタオルで無造作に拭きながら、勇斗が戻ってきた。
微かに漂う、自分と同じ石鹸の香り。
勇斗は仁人の隣に、今度は隙間なく座ると、その細い肩を力強く引き寄せ、耳元で低く囁いた。
「……ベッド行こうか。……もっと、近くにいたい。君の全部を、見せて」
そのまま軽々と横抱きにされ、仁人の視界が大きく揺れる。
運ばれた先は、広くて真っ白な、勇斗の体温が残るベッド。
部屋の明かりが落とされ、カーテンの隙間から差し込む東京の夜景が、重なり合う二人の影を、静かに、けれど鮮明に浮かび上がらせていた。
広くて真っ白なベッドに沈められた仁人の上に、勇斗がゆっくりと、その体温を分かち合うように覆いかぶさった。
シーツの擦れる音と、互いの荒い呼吸だけが静かな寝室に響く。勇斗の瞳は、至近距離で見ると驚くほど深く、その中には仁人だけが映っていた。
「仁人くん……初めて?」
「……はい、……すみません、不慣れで……、」
「謝んないの。……俺が、ゆっくり教えてあげるから」
勇斗の声は、どこまでも優しく、包み込むような響きを帯びていた。
その言葉通り、始まったのは驚くほど丁寧で、時間をかけた愛撫だった。勇斗の大きな掌が、仁人の熱を持った肌を滑り、指先が触れるたびに新しい熱が灯っていく。
Tシャツの下から忍び込んだ手が、仁人の脇腹をなぞり、ゆっくりと胸元を愛でる。その無慈悲なほど確実な指の動きに、仁人の呼吸は一つ、また一つと乱されていった。
「あ、……っ、はぁ、……勇斗、くん……っ」
「いいよ、もっと声出して。……俺、仁人くんの声、めっちゃ好きだから。配信でも思ってたけど、近くで聞くと、もっといいね」
そう言って、勇斗は仁人の首筋に顔を埋め、深く吸い込むように熱いキスを落とした。
配信用のマイクを通して聴いていた「仕事としての声」ではない。今、目の前で、自分だけに向けられる震える吐息と、秘め事のような喘ぎ。勇斗はそれを独占することに、確かな愉悦を感じているようだった。
勇斗の指先が、仁人の内側へとゆっくりと、時間をかけて解きほぐしていく。
逃げ場のない快感と、不慣れな感覚に仁人が身を強張らせるたび、勇斗は顔を上げ、優しく唇を重ねてくれた。キスで意識を逸らし、緊張を溶かすその仕草は、驚くほど過保護で、執着的だ。
「……痛くない? ……ゆっくり、いくからね。怖がらないで」
「……んっ、……大丈夫、……勇斗くん、なら……俺、どうなってもいいですから……」
準備が整ったところで、勇斗は一度動きを止め、仁人の目を見つめた。
その瞳には、アイドルとしての完璧な微笑みではなく、本能を剥き出しにした一人の「男」としての情欲が宿っていた。
「……入れて、いい?」
「……はい、……勇斗くん、の……欲しい、です……全部、ください……」
仁人が覚悟を決めるように目を細めると、勇斗はゆっくりと、自分たちの境界線を完全に消し去るように繋がった。
その瞬間、仁人の視界は真っ白に弾けた。
圧倒的な存在感。重み。
十年間、ただ画面越しに、ポスター越しに憧れ続けてきた人が、今、自分の中にいる。その事実だけで、胸の奥が焼けるように熱くなり、目の奥がじわっと潤んだ。
「……あ、あぁっ! ………勇斗、くん……っ!」
「……仁人くん……っ、……は、……最高……。……思ってた以上に、すご……」
勇斗が腰を動かすたび、未体験の快感が激しい波のように押し寄せ、仁人の思考を根こそぎ奪い去っていく。
激しく、けれど壊れ物を扱うように慈しむ動きが繰り返される。勇斗の額からは汗が零れ、仁人の頬を濡らした。
「……ねえ、俺のこと見て。……俺だけを見て、仁人……」
勇斗の低い声が、仁人の名前を、一人の特別な相手として呼びかける。
それに応えるように、仁人は勇斗の背中に腕を回し、指が白くなるほどその肌を掻いた。
「……はぁ、っ、……勇斗、くん、……だい、すき、……っ! 本当に、ずっと、大好きだった……っ!」
仁人が感情を爆発させるように先に達してしまうと、勇斗もまた、仁人の肩に深く顔を埋めた。
彼の名前を、祈りのように低く呼びながら、自身のすべてを仁人の中へと注ぎ込んだ。
勇斗の腕の中にすっぽりと収まりながら、仁人は夢見心地で、彼の背中で刻まれる規則正しい鼓動を聴いていた。
肌と肌が触れ合う場所から、じんわりと温もりが伝わってくる。
「……仁人くん、生きてる?」
勇斗が少し可笑しそうに、汗で張り付いた仁人の額を指で払い、優しくキスを落とした。
「……生きてます、……でも、幸せすぎて、このまま消えちゃいそうです……」
「消えないでよ。……これからも、俺のために曲、書いてくれるでしょ? 俺が、誰にも渡したくないって思うような、最高の曲」
勇斗の腕に力がこもる。それは、単なるビジネス上の契約ではなく、もっと私的な、独占欲に満ちた約束のようだった。
「……はい。……一生、書きます。……俺の曲を、あんたにだけ歌わせてください」
仁人がそう答えると、勇斗は満足げに目を閉じ、再び仁人を強く抱きしめた。
窓の外では、少しずつ都会の夜の闇が薄れ、空が青白く白み始めていた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、重なり合ったまま眠りに落ちる二人の姿を、静かに照らし出していた。
コメント
9件
やばすぎます。最高です死んじゃう
見つけた自分と書いてくれた歯茎さんに感謝です т т ほんとに最高で寝る前も惜しんで見ちゃいました т т これは睡眠よりも優先するべき小説だと思います т т 全人類見てください т т 素敵な小説ありがとうございました > ̫< ♪♪

最高すぎました、ありがとうございます