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かめちょん
3,102
#nmnm
かめちょん
876
#短編集
🙂
2,288
夕焼けが街を赤く染めていく。
養成所の屋上は、不思議なくらい静かだった。
そんな屋上のフェンスの向こう側。
一人の青年が立っていた。
細い身体に 白いシャツ。
そして夕日に透けるほど白い肌。
吹き抜ける風が金色の長い髪を揺らしている。
その姿は、まるで今にも空へ溶けてしまいそうだった。
「……疲れたな」
青年は、小さく笑う。
その笑顔は天使みたいに綺麗なのに、どこか壊れていた。
ふと、胸元から銀色のチェーンを取り出す。
先には小さな指輪。
子ども用の、小さな銀色の指輪。
薬指にはもう入らない。
だから十年以上、こうして首から提げていた。
それを指先で優しく撫でる。
「……ひろと」
その名前を呼ぶと。
足元から、黒いモヤが静かに溢れ始めた。
ゆらり。
ゆらり。
まるで影が生きているみたいに、黒が揺れる。
「い゛るぅうよ゛ぉ」
掠れた声が聴こえる。
だけど、青年は振り返らない。
「……うん」
返事だけを返す。
それだけで十分だった。
十年間。
朝も昼も夜も。
眠るときも、泣くときも。
滉斗はずっと隣にいてくれた。
世界中が俺のことを気にしなくても、この声だけは消えなかった。
「今日も止める?」
青年は前を向いたまま聞く。
黒いモヤが少し揺れた。
「……とめぇるぅう゛」
「そっか」
困ったように笑う。
「でもさ」
「俺、もう疲れちゃった」
風が吹く。
下を見れば、人が豆粒みたいだった。
「ひろが人間じゃなくなってくのを見たらさ。俺、 生きててよかったのかなって思うんだ」
黒いモヤが濃くなる。
「俺のせいで、人が死ぬ」
「ちがぁうぅぅ゛」
また掠れた声。
「りょぉ゛か……わるくな゛ぁい゛」
「…でも」
青年の声が震える。
「俺がいるからだよ。 俺が生きてるから…」
「ひろとは怪物になってっちゃう」
「だったら…」
涙が頬を伝う。
「俺がいなくなれば全部終わるでしょ」
そう言って、 力を抜いた。
身体が前へ倒れる。
――その瞬間。
青年の身体から黒いモヤが爆発した。
轟音が鳴り響いて、 屋上全体が震える。
黒いモヤが渦を巻き、その中心から巨大な腕が飛び出した。
骨のようにゴツゴツとした腕。
光を吸い込むかのような黒い爪。
人間とは思えないほど長い指。
その腕が、落ちていく青年を抱き締める。
乱暴ではない。
壊れ物を扱うみたいに。
優しく。
大切そうに。
そして一瞬でフェンスの内側へ引き戻した。
「っ……!」
床へ座り込む青年。
次の瞬間。
黒いモヤがさらに膨れ上がる。
腕。
肩。
胴体。
巨大な異形がゆっくりと姿を現した。
大きな黒い身体。
身体についている無数の傷。
歪んだ口と鋭い歯。
赤黒い瞳。
それは誰が見ても、化け物だった。
それは 震える青年をそっと抱き寄せた。
「り゛ょお゛か…」
大きな腕が背中を撫でる。
「だめえぇ」
「しん゛じゃぁ……だめぇ」
その声は歪んでいる。
それでも 優しさは、痛いほど伝わってきた。
青年は異形の胸へ顔を埋める。
黒くてゴツゴツした大きな身体。
冷たいと思われそうな見た目なのに、不思議と温もりがあった。
「……ひろと」
震える声で名前を呼ぶ。
「ごめんね」
異形は青年を撫でながら首を横に振る。
「ごめん゛……じゃ、な゛ぁいよ゛ぉ」
「でも、俺……もう疲れちゃった」
涙が止まらない。
「ひろと、お願いだから……もう……」
言葉にならない。
言いたいことはたくさんあるのに、何から伝えればいいのか分からなかった。
「だぁい゛じょお゛ぶだぁ゛よ」
ノイズ混じりだけど優しい声が心に響く。
「ひろとはさ、優しいね。ちっちゃい頃からずぅっと。俺を助けてくれる」
しばらく沈黙が続く。
聞こえるのは、涼やかな風の音だけ。
やがて青年は、小さく笑った。
泣いているのに、どこか優しい笑顔だった。
「ねぇ、ひろと」
異形がゆっくりと顔を傾ける。
「覚えてるかなぁ」
「…ちっちゃい頃さ、 俺が転ぶたびにひろが
真っ先に駆け寄ってくれたよね」
異形は小さく頷く。
「り゛ょ……か…」
「『泣くな』って頭撫でてくれて」
「俺、ひろとのおかげですっごく安心した」
青年は異形の腕へ、自分の手を重ねる。
「今も変わってないね」
「ひろは、ずっと俺を守ってくれてる」
「十年以上、一人で」
黒い瞳が揺れた。
「……ごめんね」
「俺、その優しさに甘えっぱなしだよね」
「ひろは苦しいよね、 怖いよね」
「本当は…人なんて傷つけたくなかったよね」
異形の身体が震える。
喉の奥から、かすれた声が漏れた。
「り゛ょ……か… まぁ゛も……るぅ」
「やく……そくだぁ…から゛ぁあ゛」
その一言を聞いた瞬間。
青年の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
それから青年は異形の身体を、今までで一番強く抱き締めた。
そして、その大きく変わってしまった口にキスを落とした。
異形の黒い頬が真っ赤に染まった気がした。
「……好き」
ぽつりと呟く。
異形の身体がびくりと震えた。
「俺、ひろとのこと大好き」
「もう一人で苦しませることはさせない」
「俺も一緒に背負うから…」
その瞬間だった。
黒いモヤが、すっと薄くなる。
異形だった輪郭が少しずつ縮み始める。
巨大だった身体が、小さくなる。
歪んでいた顔が、人間に近付いていく。
完全ではない。
全身から黒いモヤは溢れている。
それでも。
そこには十三歳で時間が止まってしまった少年の面影があった。
「……りょおか」
さっきよりも、少しだけ滑らかな声。
青年は優しく笑う。
「うん」
その頬へそっと触れる。
冷たい黒い肌。
「ちゃぁんと…いるからねぇ」
異形は照れくさそうに笑った。
十三歳のままの笑顔で。
その笑顔を見た青年…涼架はそっと、前よりも小さな額へ口づける。
「……ありがとう」
異形は目を丸くする。
耳まで真っ赤になったように見えた。
「りょ……か」
人の姿がさらに安定していく。
――愛されている。
その想いだけで、異形は少しだけ人間へ戻っていく。
その光景を、 屋上の扉の前で一人の青年が呆然と見つめていた。
「えぇ……」
思わず漏れた声は、引きつっている。
「どんなとこでいちゃついてんのよ……」
その一言で、涼架がはっと振り返った。
異形もゆっくりと顔を上げる。
赤黒い瞳が青年を捉えた瞬間。
黒いモヤが、ぞわりと膨れ上がった。
巨大な元の姿に戻っていく。
「……っ」
青年の肩がびくりと震える。
思わず一歩、後ずさる。
「いや、待って」
「近付く気はない、近付く気はないから」
両手を軽く上げながら、苦笑いを浮かべる。
「だから、その『今にも殺します』みたいな顔やめて」
異形は答えない。
ただ、涼架を隠すように一歩前へ出た。
巨大な腕がわずかに持ち上がる。
「り゛ょぉかに゛ぃちかづくぅな゛ぁあ゛」
低い唸り声。
明らかな威嚇だった。
「ひろとっ! 」
涼架が慌てて異形の腕へ触れる。
「大丈夫だから。 この人、俺に何もしてないから」
異形は涼架を見る。
それでも警戒は解かない。
青年はその様子を見て小さくため息をついた。
「……過保護すぎでしょ」
ぼそりと呟く。
「いや、まぁ気持ちは分からなくもないけど」
そう言ってから、涼架へ視線を向ける。
「初めまして。 僕は、大森元貴」
「君と同じ養成所に通ってる」
「藤澤涼架くんだよね?涼ちゃんって呼んでいい?」
涼架は目を丸くした。
「俺のこと知ってるの?」
「うん」
「結構有名だよ。かわいいって」
「ぢかぁ゛よる゛なぁあ゛」
「ごめんって!!」
「…で、僕のことわかる?」
「…あっ!あの、天才さん!!なんでもできるって有名な!」
「その呼ばれ方はちょっと気に食わないけど」
元貴は乾いた笑みを浮かべる。
会話の途中でも、視線は異形から離さない。
黒いモヤが揺れるたびに喉が鳴る。
怖い。
正直、逃げ出したい。
でも。
目の前にいる”それ”から目を逸らすのはなぜか良くない気がした。
「……はぁ」
元貴は大きく息を吐く。
「ひっさしぶりに視たわ」
異形のほうを見ながら苦笑する。
「君さ、 呪霊だよね」
屋上の空気が一変した。
異形の瞳が細くなる。
黒いモヤが一気に濃くなり、異形の腕がゆっくりと持ち上がる。
「ゔぅぅ゛うぅうゔ」
喉の奥から漏れる低い唸り声。
「ひろとっ!ちょ…ストップ!!」
元貴の背筋に冷たいものが走る。
(うわ、無理無理無理……)
(これ、ガチで洒落にならんやつだ)
なぜか、足が地面に縫い付けられたかのように動かない。
怖いのになぜか目の前の異形から目を逸らせなかった。
なんとなく検討はついている。
目の前の異形が怖いことよりも。
その異形が、涼架を壊れ物みたいに抱き締めていることのほうが、不思議だったからだ。
脳では理解に追いついても身体が動いてくれないんだ。
「……はぁ」
大きく息を吐く。
「今日は厄日かな」
ぼそりと漏らす。
異形がぎろりと睨んだ。
「うわっ! その顔やめて!! 心臓に悪い」
黒いモヤが、さらに濃くなる。
「はいはい、ごめん、ごめん」
元貴は両手を軽く上げた。
「別に、君の涼ちゃん取って食おうなんて思ってないから」
もちろん、半分は強がりだ。
本当は足が震えている。
それでも目だけは逸らさない。
じっと異形を見つめる。
黒いモヤに 歪んだ身体。
そこから立ち上る濃すぎる呪気。
間違いなく 呪霊だ。
でも。
元貴の視線は、その異形ではなく。
異形の腕の中で何が起こっているのかわからなさそうにうずくまる涼架に移る。
そして。
もう一度、異形を見る。
「……あぁ」
小さく笑った。
「そういうこと」
涼架が首を傾げる。
「え……?」
元貴は異形から目を離さない。
「君、大好きなんだね。涼ちゃんのこと 」
その一言で。
異形の身体がぴくりと揺れた。
元貴は困ったように笑う。
「そして呪ってる。涼ちゃんのこと」
少しだけ目を細める。
「そんなの、初めて見た」
「ねぇ…元貴はなんでひろとのことが視えるの?」
「家が神社なの。ちっちゃい頃からいろんな呪術的なものに触れてきたんよ」
「へぇ…」
静かな沈黙。
夕日が三人を赤く染める。
元貴はぽつりと呟いた。
「……こんなに綺麗な呪いは、初めて見た」
元貴はゆっくりと二人を見つめる。
そして、小さく笑った。
異形も少し姿が人へと変わっていった。
その顔は少し照れたかのように赤い気がした。
⸻
しばらく誰も口を開かなかった。
夕日がゆっくりと街へ沈んでいく。
元貴は、涼架とその隣に立つ黒い少年を交互に見つめていた。
十三歳くらいの姿。
その全身から黒いモヤが溢れている。
肌は人の色ではなく、煤のように黒い。
それでも、その瞳は驚くほど優しかった。
少年は涼架の少し前へ立ち、元貴を警戒している。
まるで子どもが大切な宝物を守るみたいに。
「……教えてくれない?」
元貴が静かに言った。
「君たちに何があったのか」
「どうして、こんな呪いになったのか」
涼架は胸元の指輪を握り締める。
その指先は、小さく震えていた。
「……ひろ」
隣を見る。
少年は何も言わず、小さく頷いた。
その仕草を見て、涼架はゆっくりと話し始めた。
⸻
俺たちは、物心つく前からずっと一緒だった。
家も近くて。
幼稚園も、小学校も同じ。
毎日、朝になれば滉斗が迎えに来てくれた。
「りょうかー!」
玄関の外から元気な声が聞こえる。
「もう行く!」
母さんにランドセルを背負わせてもらって外へ出ると、滉斗が満面の笑みで待っていた。
「今日も一緒!」
「毎日一緒じゃん」
「それがいいの!」
そう言って笑う滉斗は、太陽みたいだった。
俺より少しだけ背が高くて。
走るのが速くて。
よく笑って。
よく転んで。
そのたびに俺が笑って。
そんな毎日だった。
⸻
特に思い出に残っているのは十歳の誕生日。
夕方の公園で滉斗に祝ってもらったんだ。
「りょうかっ!」
息を切らした滉斗が走ってきた。
後ろに手を隠している。
「誕生日、おめでとう!」
「ありがとぉ」
「はいっ!」
勢いよく差し出された小さな箱。
「プレゼント!」
「えっ、俺に?」
「そう!」
「開けていい?」
「いいよ!」
「ほんとに?」
「だからいいって!」
箱を開くと、 中には小さな銀色の指輪。
「……ゆびわ?」
「婚約指輪!」
「こんにゃく?」
「こんやくっ!」
ひろは得意げに胸を張る。
「約束するための指輪!」
「なんの?」
そう聞いた瞬間だった。
滉斗は俺の左手を取って、小指に自分の小指を絡ませた。
「約束。」
少し照れながら笑う。
「俺と涼架は、 大人になったら結婚するの‼︎」
「えぇ?」
そのときはとてもびっくりした。
「男同士じゃん」
「関係ないし〜」
「なんで?」
「りょうかが好きだから」
その言葉はあまりにも真っすぐで。
迷いがなくて。
「そんなに好きなの?」
「うん。 世界で一番好き!」
その笑顔が眩しくて、つられて 俺も笑った。
「じゃあ約束」
「絶対だよ!」
「うんっ」
小指が離れる。
夕日に照らされた指輪が、きらりと光った。
⸻
「……その指輪」
元貴がぽつりと呟く。
涼架は首元のチェーンへ手を伸ばした。
「これのこと?」
胸元から、小さな銀色の指輪を取り出す。
「今もずっと持ってる」
「ずぅっと……ね」
その言葉に、少年の姿をした滉斗が嬉しそうに笑った。
「やく……そく」
涼架も優しく笑い返す。
「うん。 約束」
そう言って指輪をそっと見せる。
その瞬間だった。
滉斗の身体を覆っていた黒いモヤが、ふわりと薄く揺らぐ。
「……。」
元貴は思わず目を見開いた。
(今…… モヤが薄くなった)
見間違いじゃない。
さっきまで人の形すら保てないほど荒れていた呪気が、ほんの少しだけ穏やかになっている。
原因は一つしか思い当たらない。
指輪。
いや。
指輪に込められた”約束”か。
(まさか、 愛情で呪霊が安定するとか……)
そんな話、一度も聞いたことがない。
元貴は小さく苦笑した。
(今日は本当に、初めて尽くしだな)
しばらく指輪を見つめていたあと、静かに口を開く。
「……それで、 何があったの?」
涼架は指輪をぎゅっと握りしめた。
少しだけ目を伏せる。
「……あれは」
「中二の夏だった」
⸻
それから四年後。
俺は十四歳で、滉斗が十三歳のとき。
夏だった。
俺たちはいつもの帰り道を歩いていた。
アイスを食べながら、 くだらない話をして。
「りょうか」
「ん?」
「大人になったらさぁ」
「うん」
「結婚しようね」
「まだ言ってる」
「当たり前!」
ひろが笑う。
「約束したじゃん!」
「はいはい」
「忘れてない?」
「忘れてないってぇ」
その時。
ビィイィィィィィ!!
甲高いクラクションが響いた。
交差点の向こうから、一台の大型トラックが赤信号を無視して突っ込んでくる。
目の前には、小さな女の子。
母親の手を振りほどいて飛び出してしまっていた。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
その瞬間。
俺の身体が後ろへ突き飛ばされた。
「えっ――」
地面へ転がる。
視界の端で、滉斗が走っているのが見えた。
道路に着いて すぐに女の子を抱えて歩道へ投げる。
間に合った。
そう思った。
でも。
滉斗は 逃げられなかった。
鈍い衝突音が鳴って、普通ならありえない高さで 身体が宙を舞う。
「……ひろ?」
時間が止まる。
道路へ頭から叩きつけられた身体。
ぴくりとも動かない。
赤いものがゆっくりと広がっていく。
「おい!」
「救急車!」
「早く!」
「バカ!」
「頭が……!」
「助かるわけ……!」
周りの声なんて聞こえなかった。
俺は、ただ滉斗 のところへ走った。
「ひろ!」
抱き起こそうとする。
でも、 手が震えて触れられない。
「起きて」
「ねぇ」
「起きてよ」
返事はない。
俺の涙が、滉斗の頬へ落ちる。
「死んじゃだめ」
「お願い」
「死んじゃだめ」
「俺を置いていかないで」
「約束したでしょ…」
そのとき。
血が ゆっくりと 俺のほうへ流れてきた。
「……え?」
血溜まりが まるで生き物みたいに動く。
ぼこり。
赤黒い血の中から… 黒い手が一本、生えた。
その手が、 俺の足首をぎゅっと掴む。
「っ……!」
痛い。骨が軋むほどの力。
「り゛ょ……ぉかぁ」
聞き覚えのある声。
でも、 もう人間の声じゃない。
俺は恐る恐る血溜まりを見た。
血溜まりから、黒いモヤをまとった何かがゆっくりと這い上がってくる。
歪んだ顔。
裂けた口。
黒く濁った瞳。
姿形が全て違う。
だけど、どこか面影があって。
俺が世界で一番知っている顔だった。
「ひろ……?」
黒い影が、大きな口を開く。
「り゛ょお゛ぉかぁあ゛」
「大人にな゛ぁたぁら゛ぁ」
滉斗の目から黒い涙が零れ落ちる。
「結婚する゛ぅぅうぅぅ゛ん゛」
それでも。
必死に伝えようとする。
「やく……そく…だぁよ…」
俺は涙でぐしゃぐしゃになりながら、その黒い手を握った。
「うん。 約束だからね」
「これからも…ずぅっと一緒にいよう」
その瞬間。
黒いモヤが空へ噴き上がった。
夕焼けを覆い隠すほどの、巨大な闇。
誰にも見えない。
誰にも聞こえない。
その光景を世界でただ一人。
俺だけが見ていた。
滉斗が… 愛によって、呪いへ変わる瞬間を。
――その約束は。
二人を結びつけるはずだった。
けれど。
二人を縛る呪いになってしまった。
⸻
気が付けば。
滉斗は、いつも隣にいた。
呪霊になってから少ししたら姿も人間らしくなってきた。
朝、目を覚ませば枕元に座っていて。
学校へ行けば、教室の窓際で足をぶらぶらさせていて。
俺だけに見える、幼なじみ。
なんだか特別な感じがした。
帰り道も。
家でも。
眠っても。
ずっと。
すぐそばにいる。
やっぱり最初は怖かった。
人じゃない。
身体は黒いモヤに包まれていて、声も上手く話せない。
それでも。
「りょ……か」
ぎこちなく笑うその顔は。
俺が知っている若井滉斗、そのものだった。
化け物になっても。
声が変わっても。
姿が変わっても。
その笑い方だけは、あの日のままだった。
だから、 俺はそっと笑い返した。
「おはよう、ひろ」
そう言うと、滉斗は嬉しそうに笑う。
その笑顔を見るたびに、俺は思った。
――滉斗は、ちゃんとここにいる。
生きてはいないけど、 俺の隣にいる。
それだけで十分だった。
⸻
中学生の頃までは、それでよかった。
誰にも見えない。
誰にも知られない。
俺たちだけの秘密。
でも。
高校へ入ってから、少しずつ歯車が狂い始めた。
俺の見た目は昔から中性的だった。
髪も少し長くしていたし、顔立ちも女の子みたいだと言われることが多かった。
最初はからかわれる程度だった。
「藤澤ってさ、 男なのに可愛いよな」
笑われる。
過度に叩かれる。
そのくらいなら、気にしなかった。
でも、 ある日から 視線が変わった。
気持ち悪いものを見るような、 獲物を見るような。
そんな目。
⸻
放課後。
人気のない旧校舎。
「ひさしぶりじゃないか、藤澤」
振り返ると、 男子生徒が四人。
廊下を塞ぐように立っていた。
「……なに」
「冷たいなぁ」
一人がネクタイを緩めながら笑う。
「お前さ、 最近調子乗ってるよな」
「……帰して」
「帰すわけないだろ」
一歩。 また一歩と、 距離が縮まる。
滉斗が、俺の隣へ立った。
黒いモヤが少しだけ揺れる。
「ひろ…だめ」
小さく呟く。
滉斗は俺を見て、小さく頷いた。
――大丈夫。
そう言っているみたいだった。
「なぁ」
男子生徒が俺の胸ぐらを掴む。
「そんな顔してるとさ」
「殴りたくなるんだよ」
拳が振り上げられる。
俺は目を閉じた。
でも、 痛みは来なかった。
代わりに。
ぱちんっ。
そんな音がした。
目を開けると、 滉斗が 男子生徒の拳を受け止めていた。
もちろん、その男子には見えていない。
だから。
「……え?」
拳が止まったことに、自分でも驚いている。
滉斗は俺を見る。
「だい……じょぶ」
「ありがとう」
「でも、殺しちゃ だめだから」
滉斗は少しだけ寂しそうに笑った。
「……うん」
その手を離す。
男子生徒は何が起きたのかわからないまま、舌打ちをした。
「チッ」
「気持ちわりぃやつだな」
「今日はやめとくか」
四人は笑いながら去っていった。
俺はその場に座り込む。
滉斗も隣にしゃがんだ。
「ごめん。 俺のせいで」
滉斗は首を横に振る。
「りょ……か」
俺の頭を、不器用に撫でた。
「まもる。 やく……そく」
その一言だけで、泣きそうになった。
⸻
でも、 それで終わらなかった。
次の日。
机の中はゴミだらけだった。
教科書は破られ。
上履きは捨てられ。
ロッカーには落書き。
『気持ち悪い』
『死ね』
『化け物』
その文字を見た瞬間。
滉斗の黒いモヤが、少し濃くなった。
「ひろと」
俺はすぐに名前を呼ぶ。
滉斗は俺を見る。
「だめ。 やめて」
少しだけ、 モヤが薄くなる。
「ありがとう」
その日から 毎日こうなるようになった。
殴られる。
蹴られる。
物を隠される。
悪口を言われる。
俺がなにかされるたびに滉斗は異形に戻りかけていた。
それでも。
俺が 「だめ」 と言えば。
滉斗は必ず止まってくれた。
何度でも。
何十回でも。
俺のお願いを聞いてくれた。
だから俺は 安心してしまった。
滉斗は大丈夫だって。
ちゃんと我慢できるって。
⸻
だけど、 その日は違った。
放課後。
教室へ忘れ物を取りに戻ると。
「おっ」
「来た来た」
この前の男子生徒が四人。
数人がスマホを構えて笑っていた。
「今日は動画撮ろうぜ」
「面白そうじゃん」
逃げようとした。
でも。
後ろから押される。
なすすべもなく床へ倒れて、 腹を蹴られた。
「っ……!」
「やめ……」
笑い声。
シャッター音。
動画を回す音。
「おい、 泣けよ」
俺は精一杯睨んでやった。
「その顔、睨んでるつもり?猫かよ」
「藤澤さぁ、顔は無駄にいいんだから」
腹に何度も蹴りが入る。
息ができない。
痛い。
苦しい。
視界が滲む。
「ひろ……」
小さく呟く。
滉斗は、 ずっと震えていた。
黒いモヤが、今まで見たこともないくらい濃くなっていく。
「……ひろと」
俺は必死に手を伸ばす。
「だい……じょうぶ」
嘘だった。
全然大丈夫じゃない。
でも、 言わなきゃ。
「やめ……」
その瞬間。
一人の男子生徒が笑った。
「こんなに焦らされたらさ」
ネクタイを緩めながら、 気持ち悪い笑顔で近付いてくる。
「うっかり殺しちゃうぞ?」
「おぉっ!お楽しみですかぁ?」
俺にまたがりながら言った。
「イイ声で喘げよ。りょーかちゃん?」
その言葉で。
俺の中の…正確には滉斗の何かが切れた。
「来ちゃだめだ!!」
涙が溢れる。
「ひろっ!!」
男子生徒が笑う。
「ヒロ?」
ぞわりと、全身に悪寒が走る。
教室中の空気が凍った。
俺の足元から、 黒いモヤが噴き上がる。
天井まで届くほどの闇。
その中から。
巨大で ゴツゴツとした 黒い腕が ゆっくりと姿を現した。
そして。
聞いたことのない声が響く。
「り゛ょお゛かを゛ぉ……」
その声は、もう少年のものではなかった。
まるで地の底から響く、呪いそのものだった。
「い゛じめ゛るな゛ぁぁぁぁぁぁッ!!」
黒い腕が、一斉に伸びる。
教室中に、悲鳴が響いた。
黒いモヤが渦を巻き、巨大な腕が教室いっぱいに広がる。
スマートフォンが床へ落ち、乾いた音を立てた。
涼架にまたがっていた男は、滉斗によってロッカーに詰められた。
それを見たその場にいた生徒たちは逃げ惑い、教室は一瞬で混乱に包まれる。
涼架は涙で滲む視界の中、必死に叫んだ。
「ひろっ!」
巨大な腕が止まる。
「……だめ。 お願い」
「もうやめて」
黒い腕は震えていた。
まるで怒りと悲しみの間で揺れているように。
やがて黒いモヤはゆっくりと薄れ、全て涼架の中に帰っていった。
そして教室は静けさを取り戻した。
幸いにも男子生徒は重症だったそうだ。
その日を境に、学校中で奇妙な噂が広がる。
――藤澤に手を出すと、何かが起きる。
誰も真相は知らない。
けれど、誰も涼架には近づかなくなった。
それは「守られた」のではなく、「孤独になった」ということだった。
⸻
涼架は静かに話を続けた。
「ひろとは……あの日まで、ずっと我慢してくれてた」
「俺が『やめて』って言えば、本当にやめてくれた」
「だから俺は……大丈夫だって思ってた」
元貴は何も言わず、耳を傾ける。
「でも、それからは少しずつ変わっていった」
ある夜、帰宅途中。
刃物を持った男が涼架に近づいた。
よく見ると、最近ついてくるようになったストーカーだった。
滉斗はその場で男を気絶させ、涼架を抱えるようにして家まで連れて帰った。
「その時も、ひろは殺さなかった」
涼架は胸元の指輪を握る。
「俺が泣き出しちゃって、慰めるのを優先してくれたから」
少し間を置いて、声が震えた。
「でも……その人はまた来た」
今度は涼架が傷を負った。
滉斗は何も言わなかった。
ただ静かに涼架の傷に触れ、その夜、姿を消した。
翌朝。
ニュースでは「変死事件」が報じられていた。
元貴は小さく息をのむ。
「それが……一人目?」
涼架は首を横に振る。
「俺が知ってるだけで、一人目」
「もっと前にも、あったのかもしれない」
⸻
それからも、何度か同じことが起きた。
涼架を本気で傷つけようとした人間は、ある日突然いなくなる。
原因は分からない。
世間では「事故」や「変死」と片づけられる。
けれど涼架だけは知っていた。
黒いモヤをまとった幼なじみが、どんな顔で帰ってくるのかを。
実態がないから返り血はついていない。
でも、その黒いモヤは少しずつ濃くなっていた。
「ごめんね」
そう言うと、滉斗は決まって首を横に振る。
「りょ……か、 まもる」
その言葉だけは、何年経っても変わらなかった。
⸻
「だから俺は思うようになった」
涼架は空を見上げる。
「俺が生きてる限り、 ひろはずっと人を傷つけ続けるんじゃないかって。」
元貴は静かに目を伏せた。
「何度も……終わらせようとした」
「でも、そのたびにひろが止めた」
滉斗は何も言わない。
ただ涼架の手を、そっと握る。
人間のような手ではない。
黒く歪んだ指先。
それでも涼架は、その手を握り返した。
「怖くないの?」
元貴が尋ねた。
涼架は少しだけ笑う。
「怖いよ」
その言葉に、滉斗の肩が小さく震える。
「でも……」
涼架は滉斗へ一歩近づいた。
黒い頬へ、そっと手を添える。
「俺が怖いのは、ひろじゃない」
「ひろが苦しんでる姿」
「俺のために、人じゃなくなっちゃうこと」
滉斗は目を見開く。
涼架は優しく笑った。
「俺は、ひろがどんな姿になっても好きだよ」
そして。
ためらうことなく。
滉斗の口へ、そっと口づけた。
黒いモヤが、ふわりと揺れる。
異形だった滉斗の輪郭が、少しずつ人の形を取り戻していく。
元貴は、その光景をただ見つめていた。
息をすることすら忘れるほどに。
(……そういうことか)
ようやく腑に落ちた。
この呪いは、普通じゃない。
誰かを憎んで生まれた呪いじゃない。
誰かを呪い殺すためだけのものでもない。
愛情。
執着。
約束。
後悔。
離れたくないという願い。
その全部が絡まり合って、一つの呪いになっている。
だからこそ。
こんなにも優しくて。
こんなにも危うい。
元貴は小さく苦笑した。
(……ほんと)
(面倒くさいな、君たち)
その一言には呆れも、皮肉も、少しだけ優しさも混じっていた。
屋上を、夜風が静かに吹き抜ける。
三人はしばらく黙ったまま、沈んでいく夕日を眺めていた。
やがて元貴が口を開く。
「……ありがとう」
「全部、話してくれて」
涼架は少し驚いたように目を丸くし、それからふわりと笑った。
元貴はもう一度、滉斗へ目を向ける。
不安定な呪霊。
今は人の姿を保っていても、この先どうなるかは分からない。
普通なら。
祓うべき存在
家なら、そう教えられてきた。
でも、 目の前にいるのは、誰かを守ろうと必死な十三歳の少年だった。
(……参ったな)
(こんなの、祓えるわけないじゃん)
元貴は小さく息を吐く。
そして心の中で、静かに苦笑した。
(まぁ、 放っとけないか)
夕日はゆっくりと街の向こうへ沈み、 長い夜が静かに始まろうとしていた。
⸻
夜の屋上を、静かな風が吹き抜ける。
誰も口を開かなかった。
涼架は黒いモヤに包まれた滉斗の隣に座り、元貴は少し離れた場所から二人を見つめていた。
やがて元貴が、小さく息を吐く。
「……一つだけ、聞いてもいい?」
涼架は頷いた。
「どうして、そこまで滉斗を愛せるの?」
少し考えてから、涼架は笑う。
昔と同じ、ふわりとした笑顔だった。
「だって、ひろだから」
それだけだった。
滉斗は生きていた頃のように照れくさそうに笑い、黒いモヤが少しだけ薄くなる。
「人じゃなくなっても?」
元貴が尋ねる。
「うん」
「もっと化け物になっても?」
「うん」
「もし、もう二度と元には戻れなくても?」
涼架は迷わなかった。
「俺は、いつまでもひろを好きでいる」
そう言って、涼架は滉斗へ近づく。
「ほぉ゛んとぉ゛に゛ぃい?」
滉斗が異形になって言う。
黒く歪んだ身体。
鋭い爪。
人ならざる姿。
それでも涼架は、その大きな身体へ腕を回した。
「ひろ」
滉斗の腕が、おそるおそる涼架を包む。
「……こわく、ない?」
涼架は首を横に振る。
「怖くない」
「俺が怖いのは」
滉斗を見上げる。
「ひろとが、一人で苦しむこと」
その言葉に、滉斗の瞳から黒い涙が一筋こぼれた。
「ごめ……」
「謝らないで」
「ひろは約束を守り続けてくれた」
涼架はネックレスを外す。
ついているのは小さな銀色の指輪。
十歳の誕生日にもらったもの。
大切に、大切に守ってきた宝物。
「好きじゃなきゃ、こんなの身につけてないでしょ」
滉斗は小さく頷く。
「……やく、そく」
「うん」
涼架は微笑む。
「『大人になったら結婚する』って」
滉斗は照れくさそうに笑った。
その笑顔は、十三歳の夏と何も変わっていなかった。
「俺ね」
涼架は続ける。
「君が死んだ日から、ずっと思ってた」
「俺が生きてるせいで、君は怪物になったんだって」
「だから、俺も終わろうとした」
「ついさっきもね」
少しだけ俯く。
「でも、それは違った」
元貴が静かに顔を上げる。
涼架は滉斗の手を握った。
「俺は、生きたい。 ひろと一緒に」
「ひろは死んじゃってるけどね…」
滉斗が息をのむ。
「たとえ呪われたままでも」
「たとえ一生、この呪いが解けなくても」
「ひろと一緒に生きる」
その瞬間。
黒いモヤが風に溶けるように揺れた。
滉斗の姿が少しずつ人間へ近づいていく。
完全ではない。
それでも、その笑顔は、ていた頃のままだった。
「気づかせてくれた元貴に感謝だね」
元貴は、その光景を静かに見つめていた。
そして、小さく笑う。
「……やっと分かった」
涼架と滉斗が、同時に顔を上げる。
「最初はさ、 滉斗だけが呪いなんだと思ってた」
少しだけ間を置く。
「でも、違う」
元貴は二人を見比べる。
「どっちかだけじゃない」
「滉斗は涼ちゃんを手放せなかった」
「涼ちゃんも滉斗を手放せなかった」
苦笑しながら肩をすくめる。
「……君たちさ。 本当に、面倒くさい」
涼架は少し困ったように笑う。
滉斗は不満そうに小さく唸った。
「でも」
元貴は穏やかな目で二人を見つめる。
「そういうことなんだろ」
「君たち二人で、一つの呪いなんだ」
屋上は静まり返る。
その言葉は、不思議なくらい自然に二人の胸へ落ちていった。
涼架は滉斗を見る。
滉斗も涼架を見る。
何も言わない。
それでも、お互いに小さく笑った。
その笑顔だけで、答えは十分だった。
呪いは消えない。
約束も消えない。
罪悪感も。
愛も。
きっと、この先も消えはしない。
だからこそ。
二人は、二人なりに生きていく。
呪いと一緒に。
しばらく沈黙が流れたあと、涼架が小さく笑った。
「……帰ろっか」
滉斗がこくりと頷く。
元貴も歩き出そうとして――ふと足を止めた。
「あ、そうだ」
ポケットからスマホを取り出し、涼架へ差し出す。
「連絡先」
「え?」
「涼ちゃんさ、 一人で抱え込むタイプでしょ」
「また自殺未遂なんかされても困る」
「……それに」
少しだけ照れくさそうに視線を逸らす。
「もう見ちゃったし、 今さら他人ってことにもできないから」
涼架は少し目を丸くして、それから優しく笑った。
「……ありがとう」
二人は連絡先を交換する。
画面には、新しい名前が表示された。
藤澤涼架
その隣で滉斗がじっとスマホを覗き込む。
「もぉときぃ……」
低い声に、元貴が苦笑する。
「安心して、 涼ちゃんを取ったりしないから」
滉斗はしばらく元貴を睨んでいたが、やがて小さく頷いた。
「……やく、そく」
「はいはい、約束」
元貴がそう返すと、滉斗は少しだけ嬉しそうに笑った。
三人はゆっくりと屋上をあとにする。
夜空には、一番星が静かに輝いていた。
誰にも見えない呪霊が一人。
誰よりも優しい青年が一人。
そして。
ひょんなことから、その二人の人生に巻き込まれた青年が一人。
元貴は二人の背中を見つめ、小さく息を吐く。
「……ほんと、 面倒くさいな」
そうぼやきながらも、その足は自然と二人の後を追っていた。
愛は、人を救うこともある。
愛は、人を縛ることもある。
そして時には。
二人で、一つの呪いになることもある。
元貴は夜空を見上げ、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「……愛ほど危険な呪いはない」
夜風が、その言葉を静かにさらっていった。
コメント
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14663字お疲れ様でした😊
うわあ……読み終わってしばらく動けなかったわ。涼架の「俺が生きてるからひろとは怪物になる」って自己否定のループ、胸が締め付けられた。でも、あの屋上で滉斗が異形の腕で引き戻すシーン、あの力強さと優しさのギャップがたまらなかった。元貴の「こんなに綺麗な呪いは初めて見た」って台詞がすべてを物語ってるね。愛が呪いになって、しかも二人でひとつの呪いって……この設定、天才すぎるわ。つらい展開なのに、なぜか温かい気持ちになった。続き、めっちゃ気になる🔥