テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第五話 ほどけませんように
朝の祈りを終えたあとも、昨日の町の景色が胸の奥に残っていた。
色とりどりの布、人々の笑い声、焼きたてのパンの匂い。
そして──隣を歩いていた、静かな横顔。
「少し疲れたのかしら」
糸を通しながら、私はひとりごちる。
昨日買った、深い藍色の布。夜空のような色合いは、やはり彼に似合うと思った。冷たい土地の出だと聞いているし、あの町の人混みはきっと慣れなかったのだろう。
無理もないわ。
急に賑やかな場所へ連れ出してしまったのだもの。
そう考えると、胸の奥が少しだけきゅっと縮んだ。
せめて、あたたかく過ごせるようにしてあげたい。
針先が布をすくい、また戻る。
刺繍は得意ではないけれど、まっすぐ縫うくらいならできる。子どもの頃、侍女に教わったのだ。
「首元は冷えやすいのですよ、お嬢様」。そう言われたことを思い出す。
だからこれは、正しい心配。
正しい優しさ。
私は自分にそう言い聞かせながら、布を細長く折り、端を縫い閉じていく。
彼は何も言わない人だから。
寒くても、困っていても、きっと言葉にしない。
なら、気づいてあげるのが私の役目だ。
導く者として。
守る者として。
……それに。
あの藍色が、私の選んだものが、彼の身につくところを見てみたい──そんな気持ちが、ほんの少し混ざっていることには気づかないふりをした。
昼過ぎ、ウラシェルを部屋へ呼ぶ。
彼はノックをして、いつもの静かな足取りで入ってきた。
「何か御用でしょうか」
「ええ。少し、こちらへいらして」
椅子に座らせ、私は後ろに回る。
出来上がったばかりの布を、そっと彼の首へ回した。
「……これは?」
「マフラーです」
結び目を整えながら、満足げに微笑む。
「昨日の町、風が冷たかったでしょう? あなた、ずっと静かでしたもの。きっと風が寒かったのだと思って」
彼の肩が、わずかに強ばった気がした。けれど私は、結び目を直すのに夢中で気づかない。
「これならあたたかいわ。ほら、とても似合っています」
前に回り込んで見る。
やはり思った通りだ。夜の色が、彼の髪と溶け合って、ひどく落ち着いた印象になる。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
「町はまだ慣れないでしょうけれど、少しずつ大丈夫になります。昨日は人が多くて緊張したのね」
安心させるように微笑む。
彼の気持ちは分かる。
分からないはずがない。
だって私は、彼のためを思っているのだから。
「……お気遣い、ありがとうございます」
丁寧な声。
けれどどこか、遠い。
「苦しかったら、ちゃんと言ってくださいね。私はあなたの味方なのですから」
そう言って、マフラーの端をもう一度整える。
ほどけませんように。
冷たい風が入らないように。
私の気持ちが、ちゃんと届くように。
彼が、ほんの少し息を詰めたことには、最後まで気づかないまま。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!