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深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
誰かがみどりの涙をすくう。誰かがみどりの頭を撫でる。
とても優しくて温かい指。ゆかりの指とは別の指。
「はじめまして」とみどりはおずおずと言った。
「はじめまして」と心の奥底で出会った友達は温かな眼差しを向けて言った。
「あなたは誰? ゆかりはどこ?」
「わたしはあかり。ゆかりはもういないよ」
目が覚めたのかどうかも分からない。眠っていたのかどうかも分からない。予想に反して生温かい液体に潜るような感覚に包まれていた。何も見えず、何も聞こえず、何も嗅げず、何も味わえず、何にも触れられない。
暗闇ではない。黒すら認識できない。真に無の色だ。
母エイカを助けるどころではない。自分が存在しているかどうかすら確信を持てない。
少なくとも確信を持てない何者かは存在し、それは自分に違いない。
ふとこの状況に似た空間を思い出す。ププマルとの接見の場だ。あそこではいつもププマルは可愛らしい獣の姿で存在するのに自分は心だけの存在だった。
何故心だけは知覚できるのだろう。五感のどれでも感じられないのに確かに自分の心を感じる。内心を聞いている風ではあるが、頭の中に音が鳴っているわけではない。
ともかく今頼れるのは第六感、霊感とでも言うべきその感覚だ。他には何かないか、と心と五感以外の何かを探る。
次に感じたのは脈動だった。ずっと離れ離れになっていた心臓の呼び声だ。そこからは霊感が研ぎ澄まされる。巡る血が全身を探し当て、体の中心から指の先までを感じ取る。連鎖反応的に肉が、骨が、皮膚が見いだされる。
ユカリが深奥に構築される。
そしてユカリは無をくぐり抜ける。すると場所が現れた。しかし存在していなかったものが現れたというよりは、暗闇の中にあった場所が照らされた、という表現に近い。曇った視界が晴れて、場所が見出された、という表現はさらに近い。あるいは、場所が表現された、という表現こそが正当かもしれない。
輝かしいばかりの都だ。もしくは都のような輝きだ。光の如く、街が迫り来るようにユカリは感じる。見ている、というよりも見させられているという感覚に近い。先ほどまで駆けまわっていたレウモラク市に似ていた。似ているが同じではない。廃墟ではなく、まるで生まれたばかりの赤子のように何もかもが新しく、それでいて長い年月を営んだ老人のような威厳に満ちている。街は朝を迎えたばかりのように溌溂として元気でいながら、夕にたどり着いたばかりのように疲れに倦んで目瀞んでいる。
レウモラク市があってユカリがいる。しかしレウモラク市のどこにいるのかは判然としない。偏在しているような、遍在しているような。空から眺め、かつ路地裏を観察し、同時に全ての家屋の中を見ていた。不快感はないが、眩暈に近い感覚を覚え、意識を集中する。ユカリは深奥の扉をくぐった通りの真ん中にいた自身を思い出す。するとそこにいた。
しかし新たな異変に襲われる。もしかしたら深奥においてはそれが当たり前なのかもしれないが、体が全く動かない。そうではないとすれば深奥での体の動かし方を分かっていないということだ。
しかしユカリはもはや戸惑いもしない。試行錯誤は初めてではない。
心を感じるように、体を、そして空間を感じ取ったのだ。次は心を動かすように体を動かせばいいはずだ。そしてそれはユカリの得意とするところだ。村を出るまではそれがユカリの世界の全てだったと言ってもいい。旅を始めてからは徐々に減っていたが、秘訣は心得ている。
手を開き、閉じ、首を回し、腰を回し、大きく伸びをする、想像をする。深奥においてはそれが体を動かすことだった。
笑みを浮かべ、くるりと回り、口ずさむ。十分だ。
「誰かいませんか?」
誰の返事もない。
深奥といえど空は相も変わらず呪われた緑色で、八つの太陽が惜しむように光を放っている。
メーグレアの虎を祀る檻の神殿は、確かにそこに神が坐すと思わされるような荘厳さで、レウモラク市の中心に鎮座している。何ということのない市民の住居ですらも遥か昔から連綿と続く営みを想像させる味わい深さをユカリは感じ取ってしまう。信仰のためか強度のためか六角形の煉瓦の壁、噛み合うように組み合わさった二種の瓦を交互に並べた縞模様の屋根。
はたしてこれが、実母エイカが謎の闇に消えた時に見た光景なのだろうか。そんなことはないはずだ。サンヴィア北方の雪煙る森の中、崩壊した廃墟のそばで深奥に飲まれたエイカがレウモラク市らしき街にやってくるとは思えない。
ふと気が付くと周りを沢山の蝶が飛び交っていることに気づく。親友がそれを失い、ユカリも一度は失ったことがある記憶の蝶だ。一頭ずつそれぞれが自分の知っている誰かを象徴しており、その蝶が失われればその者のことを忘れてしまう。蝶の姿は様々で翅の意匠も色々だ。そしてまるで本物の蝶のように確かな存在感を持っているものもいれば、境界を行き交う幽霊の様な朧な姿の蝶もいる。
その美しさに呆けている場合ではないことに気づく。どうして蝶が頭の外に出てしまっているのか。とんでもない危機的状況であるはずだ。
ユカリは慌てて最も強い輝きを放つ直ぐそばの蝶に手を伸ばす。が、掴み損ねる。
「あ、ユカリいた。ユカリも上手く馴染めたみたいだね」
突如美しきレウモラクを背景にして魔法少女の小さな手を取った者はまるで体の内から燃え上がっているかのようだ。
「ベル!?」
「お、もう姿も見える? どういう風に見えてるの?」
炎に包まれた人物の姿がはっきりする。姿は違っていても分かる。それはとても頼りになって、多くのことを知っていて、しかしいくつかの記憶を喪失しているベルニージュだ。
「ベルだ。体が燃えているように見えるんだけど」
紅蓮の髪に瞳、少し青白い肌に出会った頃より丸みを帯びた体形、不敵な笑み。確かにベルニージュだったが、炎を除いたとしても全く同じとは言えないように感じた。
「ワタシにはユカリが本来の姿と魔法少女の姿が混ざっているように見えるよ」
そう言われて自身の体を見ると確かにいつもと違った。視線の高さもベルニージュに近く、つまりラミスカとも魔法少女とも違う視線だ。服も狩衣と魔法少女の衣を下手に混ぜ合わせたような、奇妙な格好だ。
「それはそうとベル! どうして深奥に来たの!?」
「どうしてって、来るに決まってるでしょ。深奥はワタシの野望の一つだよ? ここには沢山の魂があって、それは膨大な知識があるということで、あらゆる魔法に通じている、可能性がある、と予想してた。まだよく分からないけど。それよりワタシは……」と口にしかけてベルニージュはユカリを窺う。
「何? そこまで言いかけたなら言ってよ」
「ジニさんが深奥に来なかったことが気になる。娘を、ルキーナ、じゃなくてエイカを助けるためにここまで頑張っていたのに」
「それは……。外――という表現が正しいのか分からないけど――、が大変な状況だからでしょ? メーグレア虎の変身、見たでしょ? それに私が深奥に来たんだから、任せたってことだよ」
「信用されてるんだね」
「……まあね」ユカリは話を変える。「それにしても、ここは一体何なの?」
レウモラク市だが知っているレウモラク市ではない。ユカリの見たことがない新しくて鮮烈なレウモラク市だ。
ユカリは一つ仮説を提示する。「もしかして過去のレウモラク市? 廃墟じゃないし、クヴラフワ衝突以前の、往時の姿?」
「その可能性もあるけど、それだけじゃない」とベルニージュは曖昧に答える。「何度か言ったけどここは魂の次元なんだよ」
「魂ねえ。私の魂がこれで、ベルの魂がそれ? じゃあこの新品の街はレウモラク市の魂?」
「そういうこと」ベルニージュは頷く。「むしろ街の概念や、かつて想定されていた、いつかの実現を目指す理想の姿なんじゃないかと思ってたんだけど、魂って言った方が分かりやすいね」
二人はレウモラクの街の魂を歩く。檻の神殿を囲む柱をたどるように歩き続ける。
ユカリは廃墟の街との違いを確認するように眺めながら話す。「廃墟になってもレウモラク市の魂は現世を彷徨っているってことだね」
ベルニージュはこちらでも魔術が使えることを試しながら話す。「いや、というかまだ人が住んでるからね。まだ街と認識されているし、住居が崩壊しても、それは『住居ではない何か』ではなく、『崩壊した住居』として存在し続けるんじゃないかな」
「ふうん。つまりレウモラク市は怪我してるだけで、まだ生きてるってことか。じゃあ私たちも今は魂だけになってるってこと?」
「いや、違う。元の世界ではワタシたちの体は消えているはずだから、ここにいるワタシたちは言うなれば魂そのものと化した肉体が重なり合った存在なんじゃないかな」
ベルニージュの言葉がユカリの頭をかき乱す。
「また何だか難しいことを」はっと気づいてユカリは立ち止まり、胸をまさぐる。少なくとも穴は開いていない。「私の心臓だけ心臓の幽霊になっちゃってたってことだよね? これで元に戻ったのかな」
「たぶんね。あとは帰還すればすっかり元通りなはず」
ベルニージュが呪文をぶつけて石畳の破壊を試みる。割れた石畳に特別な違いは見当たらない。
「でも、そう考えると……」
ユカリは辺りを見渡す。レウモラク市を眺めたのではなく、何者かの姿を探したのだった。佇むベルニージュと乱舞する蝶を除けば誰もいない。
「ルキーナことエイカはサンヴィア地方に留まっているかもしれない」とベルニージュが代わりに言葉にする。
「じっとしてそうにはないけど。こんな風にあっちの、現実の人間を見ることもできないなら私たちについて来れなかっただろうしね。大体それじゃあカーサは一体どういう状態なの? なんで全身が消えているのに現実の世界に干渉できたの? それでいてエイカのことは見失ったわけでしょ?」
「カーサはより現実に近い位置にいたのかもね。浅瀬というかなんというか」
「深奥の、浅瀬? それでエイカはカーサよりもっと、つまり深奥の奥の方に行っちゃった、ってことか」
「逆に、ワタシにだけカーサの姿が見えることがあったのはそういうことかも。もしかしたら深奥の扉に入らなくても見るだけなら別の方法があるのかもしれない」
「深奥での距離、魂の距離か。それじゃあ今私たちにレモニカたちの魂が見えないのも同じ理屈で説明できるね」
「ワタシたちが深く潜り過ぎてるってことだね。現実の方に肉体が存在する、という通常の状態は言うなれば水面から顔を出しているような状態なんだよ。だから足先の届く深さには限界がある。ワタシたちは今それより深くに潜っているんだと思う」
「魂は肉体から離れられないってことね」
「特段の事情がない限りは」
つまり死だ。
ユカリは秘密を話すように囁く。「じゃあ肉体を離れた魂は深奥を沈んでいくのかな」
「かもね」ベルニージュは控えめに頷く。「そして深奥に底があるなら、そこが黄泉の国ってことになる」
暗い雰囲気をぶち壊さんとユカリは努めて明るく話す。「私の知り合いのお嬢さんは肉体から分離するばかりか、魂自体を分割できるらしいんだけど」
「それもまあ、特段の事情の一つだよ。ワタシだっていつか魔術で再現して見せるけどね」
その言葉は確信に満ちている。
「あいかわらず頼もしい。それじゃあ一旦現実に戻るとして。浮上? すればいいの? するにはどうすればいいの?」
ユカリは何となく緑のぼやけた空を見上げる。雲は無し。鳥もいない。きっとそういうことではないだろう、とは思ったものの他には思いつかなかった。
「上じゃなくて、浅い方向に行かなきゃいけないんだよ」とベルニージュに訂正される。
「浅い方向? 知らない言葉だ」
どちらを見ればいいのかまるで分からない。
「仕方ないよ。新しい世界では新しい言葉が必要なんだから。上下でも左右でも、縦横高さでも、過去や未来でもない新しい方向には新しい名前を付けないと。他にも色々考えたよ。魂方向、肉体方向。深層方向、表層方向。内方向、外方向。奥方向、表方向。どれがいいと思う?」
「どれがいいかなんて判断しようがないからベルに任せる」
「じゃあ浅い方向、深い方向で」
ユカリはくすくすと笑う。
「ひとに任せといて!?」ベルニージュは憤る。
「ごめんごめん。それって上を高い方向、下を低い方向って言うようなものだな、と思って」
「まったくもってその通りだよ。仕方ないの!」
「ごめんってば。それで、浅い方向が現実のある方向、深い方向が黄泉の国があるらしい方向ってことだね」ユカリは確認した。
「そういうこと」ベルニージュは肯定し、さらなる授業を続ける。「浅い方向、深い方向へ移動するのに前後左右上下に動く必要はないのは分かるよね?」
ユカリは思考の羹を掬うように探り探り言葉にする。「水の中で前後左右に動かず、沈んだり浮かんだりするようなもの? そうすると直前まで同じ視線の高さだった者の視界から消える」
「その通り。それは平面に存在したものが立体的に移動した場合だね。魂の次元においてワタシたちは前後左右上下に動くことなく、深い方向、浅い方向に移動することが出来る、はず」
「で、どうやって移動するの?」
「今やってるみたいにだよ」
ユカリは自身の体を眺める。左右の足が交互に前へと進み、腕は足と互い違いに振り子している。
「体を動かすのではなく、体を動かす想像をする。浅い方向に移動する想像をする?」
「そうだね。深奥では魂と想像が全てなんだと思う。想像次第で魂は動き、形を変える。そしてそれは魂の状態の変化を伴う。現実で生きている肉体から、魂や霊と呼ばれている状態に、そしてその逆」
ユカリは唸る。ついていけているかどうか、不安になってくる。
「そこが違和感あるんだよね。肉体と魂は別々のものでしょ? 肉体の中に魂がある。いや、そう思ってたんだけど、実は違うってことだよね?」
「うん。そこは常識を捨てた方が良いかもしれない。魂は肉体の一部、いや、違う。肉体は魂であり、魂は肉体なんだよ」ベルニージュは少しだけ悔しそうに唇を歪める。「それこそ水の様態の違いのようにね。氷が水になるように」
ユカリは腕を組んで唸る。
「でも、現世に肉体は残る。死んでも体重は変わらないよ? 計ったことないけど」
「ユカリのくせに鋭いね」
「突き刺してやろうか」
「まあ、水そのものじゃないし、言うなれば氷の部分と水の部分が一繋ぎになってるようなものなんじゃないかな」
怖い発想が思い浮かぶ。
「もしかしてより深い方向に移動すると水蒸気に? 雲散霧消?」
「かもしれない、としか現時点では言えない」
ユカリは空恐ろしくなる。しかし納得感もある。幽霊といえば水蒸気や霧のように不確かな存在だ。