テラーノベル
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レンジは床に座り込み、冷たい壁に背中を預けていた。
部屋の明かりは消えていて、ただ外から漏れる薄暗い光だけが、ためらいがちに天井を這うようにゆっくりと動いていた。
彼は虚空を見つめていたが、そこに何も見えていなかった。
湿った匂い。
鋭くて、酸っぱい。
学校のトイレの匂い。
レンジは顔をしかめた。まるでその記憶が物理的な打撃になったかのように。
あの男は突然現れた。
生徒だとすぐに分かるような存在ではなかった。
足音が重すぎて、視線が落ち着きすぎていた。
レンジは手を洗っていた。水音がやけに大きく響き、まるでわざと空気に漂う緊張を掻き消そうとしているようだった。
「オイ」
男の声は低かった。
「お前」
レンジは答えなかった。水を止め、ゆっくりとズボンで手を拭き、顔を上げた。
鏡には二人が映っていた。疲れた目をした少年と、近すぎる距離で立ち、自信過剰な大人の男。
「余計なことに首を突っ込みすぎる奴がどうなるか、知ってるか?」
男は少し首を傾げながら聞いた。
レンジの内側で何かが強く引っ張られた。
恐怖ではない——怒りだ。
指の関節にこびりつくような、馴染みのあるあの怒り。
彼は無意識に拳を握りしめていた。
「出てけ」
静かに言った。
男は小さく笑った。一歩、近づく。
そして全てが滲んだ。
耳に血が駆け巡る音、息苦しさ、頭に浮かんだ一つの考え——
「今殴らなかったら、負ける」
肩が震え、体が前に飛び出そうとしたその瞬間。
「レンジ!」
アキオの声が、どんな拳よりも強く響いた。
ドアの枠に立っていたアキオは息を切らし、レンジが一番嫌いな表情を浮かべていた。
怒りでも、恐怖でもない。
疲れ果てた、静かな失望。
「また喧嘩を始めようとしてるのか?」
アキオは言った。穏やかに。あまりにも穏やかに。
レンジは固まった。
拳はまだ握られたままだったが、体はもう動かなくなっていた。
男は何か小さく呟き、後ずさりして、来たときと同じように突然消えた。
残ったのは匂いと、吐き気を催すような感覚——
まるで試験を受けさせられ、合格したのか落ちたのかすら分からないまま終わったような感覚。
アキオが近づいてきた。
「これがどういう結末になるか、分かってるのか?」
静かに尋ねた。
「お前は父さんじゃない」
その一言が、一番深く刺さった。
レンジは目を閉じた。
父さん。
鉄格子、薄暗い独房の灯り、ガラス越しに見つめる重い視線——
全てが一瞬で脳裏をよぎった。最後の会話。
もう力の抜けた声。後悔と、どこか恥に似た感情だけが残っていた。
「俺の過ちを繰り返すな」
あのとき父はそう言った。
でもレンジは、今でもそれが何を意味するのか、はっきりと理解できていなかった。
彼はゆっくりと息を吐き、自分の部屋の暗闇を見つめた。
過去は離れていかない。
叫ばない。ただそばに座っている。影のように。
血は遺伝する、という静かな思い出として。
レンジは顔を手で覆った。
手は震えていた。恐怖からではなく、
自分がまた崖っぷちに立っているという自覚から。
「……俺は、あの人みたいになりたくない……」
レンジは虚空に向かって囁いた。
だがいつものように、虚空は何も答えてくれなかった。
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