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練次は外に出て、そっとドアを閉めた。
誰かを起こさないようにというより、今日は大きな音が間違っている気がしたからだ。
「よお」
練次は足を止めて振り返った。
秋緒が廊下に立っていた。壁にもたれかかり、まるでこの瞬間を待っていたかのように。
目には怒りではなく、隠すのも面倒になったような疲れた心配だけがあった。
「どこ行くんだ?」
「散歩」と練次は短く答えた。
秋緒は頷いたが、視線を外さなかった。
「放課後…なんか、いつもと違ったぞ」
「俺っていつも『違う』だろ」と練次は冗談めかして言ったが、言葉は虚しく落ちた。
重いものが浮かび上がるような、長い間が二人の間に落ちた。
「トイレで…」秋緒が言いかけて、止めた。「本当に終わったのか?」
練次は目を逸らした。
「終わったかどうかなんて、もう関係ない。起こったことは起こったんだ」
秋緒は唇をきつく結んだ。
「全部一人で抱え込むのはやめてくれ。喧嘩なんて、なんでもないことじゃないだろ」
「負けてねえよ」と練次が鋭く言った。
秋緒は少し驚いたように眉を上げたが、何も言わなかった。ただ頷いて、その事実を心のどこかにしまったような仕草だった。
「…わかった。行ってこい。でも何かあったら——俺がいるってこと、覚えておけよ」
練次は小さく頷いて、その横を通り過ぎた。
部屋に戻るとすぐにシンプルな黒のタンクトップに着替えた。布の感触が冷たく、馴染みがあった。
鏡に映った自分——背が高く、緊張した体は、静かでも常に何かに備えているようだった。
顔を背けて部屋を出た。
通りはいつもの喧騒で迎えた。車の音、人の声、足音——すべてが一つの絶え間ない動きに混ざり合っていた。
練次は特に目的地もなく、ゆっくり歩いた。ただ動いていたかった。
頭の中は絡まった糸のようだった。
もっとこうしていれば…
いや、ああじゃなくて…
あの時もし…
突然、足が止まった。
「コンデンスミルク」
言葉がぽろっと口からこぼれた。馬鹿みたいに聞こえた。
青い缶、棚、買わずに店を出たこと——全部が一瞬で蘇った。
「…最悪」と呟いた。
引き返す気にはなれなかった。家は近すぎて、息苦しかった。
そのまま歩き続けようとした瞬間、聞こえた。
前方で騒がしい音。
ただの雑談ではない。
人だかり。
練次は顔を上げた。
交差点に人が集まっていた。かなり多い。スマホがいくつも掲げられ、声が重なり合い、空気が興奮と緊張で震えていた。何か大きなことが起きる直前の、あの独特の空気。
近づいていく。
「何だよこれ?」
「マジで知らないの? あの子だよ」
「誰?」
「長谷川深雪」
その名前が群衆の中を火花のように走った。
「女の喧嘩屋。Fって喧嘩部のリーダー」
「女?」誰かが鼻で笑った。「冗談だろ」
「その前で笑ってられるかな。倍のデカい男をぶっ倒したって話だぞ」
「しかもさ」と別の女が付け加えた。「クリスチャンの家で育ったらしいよ。ちゃんとした育ち」
「それで外で喧嘩してるって、めっちゃギャップじゃん」と誰かが笑った。
練次は黙って聞いていた。
心臓がいつもより速く鳴っている理由が、自分でもわからなかった。
人だかりが動いた。
見えた。
深雪は静かに、ほとんど動かず立っていた。背が高く、自信に満ちている。長い黒髪を二つのお団子にしていて、カジュアルなのに明らかに彼女らしいスタイル。
群衆に挑むでもなく、認められようともしていない。
ただ、どうでもいいという態度だった。
…あれが、か。
彼女の周りだけ、奇妙な静けさがあった。人は喋り、笑い、囁き合っていたが、誰もあまり近づこうとはしなかった。
「何か言いたいことあるなら、今言え」
深雪の声は大きくなかった。
でも全員に届いた。
誰も答えなかった。
練次は少し離れた場所に立ち、目を離せなかった。
学校のトイレ、嘲る声、狭い空間——記憶の欠片が浮かんでは消えた。
彼女は怖がっていない。
…いや、見せていないだけかもしれない。
深雪がわずかに首を動かした。
二人の目が合った。
怒りも、好奇心もなかった。
ただ一瞬、値踏みするような視線。
そしてすぐに視線を外した。
その刹那、練次の中で何かが動いた。
まだそれが何なのかはわからない。
ただ、この通りを過ぎた後、もう何も元には戻らない——そんな確信だけが、胸に残った。