テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その場所は、外側から見れば、天から降り注ぐ酸性雨を撥ね退ける、一点の曇りもない真珠のような建築物であった。
中央環状区にそびえ立つ「第一感情銀行(ファースト・エモーション・バンク)」。人々はそこを親愛を込めて「バンク」と呼び、裏では唾を吐き捨てながら「精神の質屋」と蔑んでいた。
私はその四階、第四査定室という名の、冷たい硝子に囲まれた檻に座っている。
私の仕事は、持ち込まれた人間の「魂の欠片」に、公正な、あまりにも公正すぎる値段をつけることだ。
デスクの上のホログラムが、次の客を告げた。
入ってきたのは、まだ中学生にも満たないであろう少年だった。指先が黒く汚れているのは、地下層の配管掃除でも手伝っているからだろう。
「……これを、売りたいんだ」
少年が差し出したポッドには、微かな、しかし澄んだ青い光が揺れていた。
私は手慣れた動作でスロットに挿入する。波形がモニターに走る。
「これは……『飼っていた犬との思い出』か」
「うん。昨日、死んじゃったんだ。悲しくて、お腹が空いて。……これを売れば、お母さんに温かいスープを買って帰れるって、近所の人が教えてくれた」
私は奥歯を噛み締めた。
解析プログラムが非情な数値を弾き出す。純粋な悲しみ、そしてそれ以上に純粋な「慈しみ」の記憶。
皮肉なことに、この世界では「美しい感情」ほど高値で取引される。それらは上層階級の老人たちが、枯れ果てた自らの心を潤すための「美容液」として、あるいは「単なる満足感」を得るためのパッチとして高額で買い叩かれるからだ。
「査定額、一万二千円。……君、これを売れば、君はあの子の名前を思い出せなくなる。あの子の毛並みの柔らかさも、君を呼ぶ声も、すべてはただの『記号』になる。それでもいいのか?」
少年は一瞬、泣きそうな顔をしたが、すぐに胃の腑の鳴る音に急かされるように頷いた。
実行キーを叩く。
ポッドから青い光が吸い出され、代わりに少年の市民カードに電子マネーがチャージされる。
顔を上げた少年の瞳から、先ほどまでの湿り気が消えていた。彼は「ありがとうございました」と、まるで他人事のような丁寧さで礼を言い、部屋を出て行った。
これが、我々の謳歌する「高度感情文明」の正体だ。
苦痛を金に換え、喜びを資本に変える。
社会から「負」を取り除き、幸福を均一化するという名目のもと、私たちは人間を少しずつ、ただの肉の塊へと削り落としていた。
その日の夕刻、外の雨がひときわ激しさを増した頃。
運命という名のバグが、私の前に現れた。
自動ドアが重苦しく開き、一人の老人が入ってきた。
彼は部屋に入るなり、肺の奥から絞り出すような湿った咳をした。外套からは泥水が滴り、銀行の美しい床を汚していく。私は反射的に眉を顰めたが、彼の瞳を見た瞬間、その指が止まった。
その老人の瞳は、何も見ていなかった。
いや、この世のものを見ていなかった。
「……佐々木、と申します」
彼は、震える手で懐から一つのポッドを取り出した。
それは、今では博物館にしか置いていないような、傷だらけの初期型ポッドだった。しかし、その内部で蠢いている「何か」を見た瞬間、私は自分の網膜が焼けるような錯覚に陥った。
「これを……査定していただきたい」
私は半ば無意識に、彼の市民IDをスキャンした。
端末に表示された彼の「ライフログ」は、それ自体が一つのホラー小説のような凄惨さを極めていた。
三歳:両親をテロで喪失。
十歳:強制労働所へ送致。
十八歳:機械事故により右指二本を圧砕。
三十歳:唯一の伴侶が流行病で死亡。その際、葬儀費用を捻出するために「彼女との全記憶」をバンクに売却。
そこから先は、ただ生きるためだけに、自らの感情を小銭に変え続けた記録の羅列だった。
「孤独感」を売り、「空腹への怒り」を売り、「老化への恐怖」すら売った。
データ上の彼は、すでに「感情の出涸らし」であるはずだった。
残っているのは、呼吸という物理現象を繰り返すだけの、空っぽの器のはずだった。
しかし、スロットに差し込まれたポッドが、解析を始めた途端。
第四査定室の全モニターが、眩いばかりの黄金色に染まった。
「……なんだ、これは」
波形が測定不能のレッドゾーンを突破する。
出力された数値は、理論上の限界値である『100.0%』。
それも、人工的な合成の形跡がない。紛れもない、一人の人間から抽出された「純粋幸福」の極致。
「佐々木さん、あなたは……一体、何をした?」
私は、自分の声が震えているのがわかった。
これほどの幸福を感じるためには、少なくとも数世紀分の「最高の瞬間」を凝縮しなければならない。あるいは、神にでも愛されなければ不可能だ。
しかし、彼のログには、神の慈悲など一滴も垂らされていない。
老人は、私の困惑を慈しむように、静かに、本当に静かに微笑んだ。
その笑みこそが、何よりも私を恐怖させた。
「査定員さん。あんたは、この『サブスクリプション』の世界で、本当の幸福がどこに売っているか知っているかね?」
「それは……適正な対価を払って、バンクから配信される『喜びパッチ』を受けることです。あるいは、豊かな生活を……」
「違うよ」
老人は首を振った。
「それは、誰かが用意した『幸福の模造品』だ。……本当の光はね、誰にも何も与えられなかった人間が、真っ暗な部屋で、自分の血をインクにして描いた白昼夢の中にだけ、宿るものなんだよ」
彼はそう言い残し、代金も受け取らずに、雨の中へと消えていった。
デスクの上には、心臓のように脈打つ黄金の光だけが取り残されていた。
私は確信した。
この光は、この世界のすべてを、根底から覆してしまう