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空を裂いたような力強い稲妻の響動めきに護女たちが悲鳴をあげる。一方でシャリューレはむしろ困難にあって曇天に励まされているようにさえ思えた。危難が遠退いたわけではない。しかしシャリューレの心の内には変わらずヴェガネラ妃から賜った命令が心臓に共鳴して脈打っている。
ここまでシャリューレは幾多の難関を打ち破ってきた。シグニカ統一国に舞い戻り、聖ミシャ大寺院の聖女の伽藍に忍び込み、二百を超える憐れな護女たちを引き連れて、一人も欠けることなく全て脱出させた。シグニカを脱し、アムゴニムを通り抜け、テロクスまでやって来た。糧食は十分。追っ手はあろうが、まだ見ていない。
森の中ほどで降り出した豪雨から逃げ込んだ洞窟で、護女たちは火を焚き、身を寄せ合って励まし合っている。清浄で玲瓏な堕落した寺院から脱出したばかりの頃は久々の自由と未来への希望で誰もが朗らかな表情を湛えていたが、長く困難な旅路を越えていよいよ疲れに倦んでいた。
シャリューレは一人、洞窟の入り口のそばに座り、暗く濡れた森を見張っている。雨の雫は届かないが、焚火の温もりも届かない。
洞窟の奥から一人の護女が戻ってくる。その護女もまた稲妻に怯えたりはしていない。それは勇敢がゆえではなく、どちらかといえば鈍感だからだが。
護女はシャリューレの隣に立ち、ぼんやりと森を見つめる。その護女を見上げて、シャリューレは言う。
「奥で何をしていたんだ? アルメノン」
アルメノンはちらりとシャリューレを見て、目が合うと視線をそらす。
「リューデシアと呼んでくれないの? せっかく本当の名前を教えたのに」
瞳の色こそ違うが、ヴェガネラ妃の娘だと知れば似ているところが見つかった。髪の色だけではなく、鼻の形や微笑み方、声もどこか似ている気がする、性格は正反対と言っていいが。
「言い慣れていない。まさかアルメノンが大王国の王女だったなんて」
「『まさかアルメノンが大王国の王女だったなんて』」そう言ってアルメノンは小さく肩を震わせて笑う。
シャリューレもまた笑みを浮かべて頷く。「確かに。この旅の間中に何回も言っていたな。気づかなかった」
「いいの。アルメノンでもリューデシアでも何でも。シャリューレが呼びたい名前で呼ばれたい」
アルメノンはそう言うとシャリューレの隣に座り、膝を抱える。
「焚火の方に行こう」と言ってシャリューレは立ち上がろうとするがアルメノンに引き留められる。
「いいの、ここで。全然寒くないから」とアルメノンは答え、黒雲を見上げる。「長く降ってるね。テロクスは雨が多いとは聞いていたけど」
「ああ、だが今夜の内には晴れるだろう。星も見える。明日の日暮れまでには港だ。そこで船が待っている」
「もう止むんだね。それなら良かった」シャリューレは無感情に言う。「今まで、何してたの?」
シャリューレはアルメノンの方に少し体を向けて言う。「何も聞かれないから興味がないのかと思ってた」
「何を言われるのかと思って怖かっただけだよ。死んだって聞かされてたんだよ?」と言うアルメノンの口調は強まりも弱まりもしない。
「死にかけたが、アルメノンの母君、ヴェガネラ王妃に救われた。今も王妃はそのことについて非難を受けている。そして私に仕事を与えてくれている。結果的に私のことを認めてくれる者も増えた。君の母君にはとても感謝している」
「じゃあずっと大王国で働いてたってわけだね。機構の僧兵は殺したの?」
シャリューレはアルメノンの随分な物言いに苦笑する。「いや、王妃はそのような仕事は私に回さないように気遣ってくださる。恐れ多いばかりだ」
「私もライゼンに行ったらそういう仕事をするの?」
これは冗談だ、とシャリューレにも分かり、大笑いしないように堪える。
「馬鹿言うな。アルメノンがライゼンに戻れば王女だ。王女がどういう風に過ごすのかは知らないが」
アルメノンは少し考えてから指折り数える。
「学問と教養と作法。それに加えてライゼンの場合は武術や兵法も覚えるんだよ。どれほどやんごとない存在でもね。血の臭いと命乞いを頭の中に叩きこむの」
「上流階級であれば誰もが武人たることを求められる国だな。私も学ばせてもらっている」
「どこでも誰でも同じようなものだよ」
「少なくとも王女は戦う必要はないだろう?」
「どうだかね」
アルメノンの皮肉っぽい笑みを浮かべた横顔を見つめ、シャリューレは尋ねる。「まさか大王国に戻りたくないなんてことはないよな?」
アルメノンは驚いた様子で振り返る。「え? 何で? そんなこと考えもしなかった」
「いや、それなら良いんだ。忘れてくれ」シャリューレは雨の帳に隠れた森を見つめる。
「ううん。でも言いたいことは分かった」アルメノンもまたシャリューレの視線の先を追う。「本当のことを言えば、戻りたいと思ったことすらないの。救済機構での日々も私は幸せだった。大王国に戻っても私は幸せになれると思う。星はどこにいても眺められるし、歌はどこであってもうたえるし、シャリューレが死んだと聞かされてからの長くて短い時間も、私は楽しく暮らしていた。……怒った?」
シャリューレは雨模様を見つめ、口を開く。
「いや、お互い様かもしれない。私もそうだ。充実した時間だった。ヴェガネラ王妃殿下のもとで多くを学び、働いた。救済機構にいた七年よりもずっと多くだ。アルメノンのことも皆のことも、気にはかけていたが、私にはどうすることもできないと思っていた。だが王妃殿下のお陰でできることが増えたんだ」
シャリューレが囁くように素早く呪文を唱える。それはライゼン北方に伝わる素朴な物語を韻文に改作した不思議な力だ。降りしきる雨が地面に積み上がっていく。凍り付き、人の形の小さな氷像を築く。
アルメノンは氷像を見つめて言う。「シャリューレは護女の時から魔術といえば剣術以外はからっきしだったね。いつもミーツェル先生を呆れさせてた」
「才能がなかったからな。だからこそ初めは加護官の剣術の鍛錬に付き合っていただけだったが、才能があるとおだてられて調子に乗ったんだ」
「よく加護官のお兄さんをぼこぼこにしてた」
「あいつは手癖や弱点が丸見えだったからな。何度言っても直さないんだ。心臓を突き刺せば死ぬと思ってる」
アルメノンが目を細めてシャリューレと目を合わせる。
「私もそう思ってるけど?」
「そこを狙ってくると分かってて素直に突き刺される奴はいないということだ」
「どっちが師匠だか分からないね」
「どっちも師匠じゃない。ただ、まあ、私にはその才があるようだったし、先々どうなっても剣術が腐ることはないと思ってな。途中からは真面目に努力していた」
今度はアルメノンがシャリューレの横顔を見る。「護女の頃から、元々脱走するつもりだったの?」
シャリューレはしっかりと首を振って否定する。「いや、だが救済機構に居続けるとも思っていなかったな。具体的なことは考えていなかったが護女ではなくなった時のことを漠然と考えていた。焚書官は焚書官で忙しい日々だったが」
「私はシャリューレが羨ましい」そう言ってアルメノンは抱えた膝に顔を埋める。
唐突な言葉にシャリューレは困惑し、視線をさまよわせたが、どう慰めたものか分からなかった。
自分の人生に他人に羨まられるものごとなどあっただろうか、と心の中で首をひねる。
その夜、雨がやみ、皆が寝静まった頃、うつらうつらとし始めていたシャリューレの隣でアルメノンが囁く。
「ねえ、シャリューレ。眠ったの? 私、トーキ大陸に行きたい」
「どうした? まだ起きてたのか? 何を言ってるんだ?」
「別に北方の神秘の土地でも良いの。まだ寝ないで。ねえ、シャリューレ。起きて」
「トーキは東の果てだ。北の果てにも用はない。私たちが向かうのは西の果てだ。良いから寝ろ。夜明け前には出発するんだ」
「ねえってば、シャリューレ。みんななんてどうでも良いよ。私たちだけで……明かりだ」
即座に覚醒したシャリューレは飛び起き、濡れた森の奥から近づいてくる松明を認める。完全に包囲されていた。鬼火の如く揺らめく明かりは絶えず左右に動き、一部の隙もすぐに埋める。
シャリューレが剣を抜き放とうとするが、アルメノンが止める。
「さっき言い忘れたけど洞窟の奥に抜け穴を見つけたの。みんなを起こして」
アルメノンの言う通りにした。護女たちは影のように素早く静かに目を覚まして起き上がり、洞窟の奥へと逃げる。徐々に先細る洞窟の奥に出口を見出した。そちらの側はまだ雨が降っていた。
一人、また一人と護女たちが脱出し、シャリューレとアルメノンが残る。
「どうした? 急げ」シャリューレはアルメノンを急かす。
「私は残るよ」とアルメノンは気軽に言う。
シャリューレはアルメノンを睨み据えて言う。「アルメノンがどう考えようと関係ない。私の任務はお前を連れ帰ることだ」
アルメノンは一歩引きさがる。「でもシャリューレは無理強いしたりしない。優しいもんね。ねえ、シャリューレ。私のお母さまとお兄さまにはこう伝えて。『リューデシアはたくさんの人々に見守られて死んだ』と」