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目が醒めて慌てて身を起こす。王妃の召使に与えられる十分以上に広い寝室には大図書館の本棚のように寝台が並んでいる。繊細でも華美でもない寝台が色褪せた寝室に所狭しと並んでいる。シャリューレの眠っていた寝台の傍には元護女が一人座っていた。
「シャリューレ。貴女、機構を出てからずっとそんな生活を続けていたの?」と元護女は言った。
「暁の呼び声。王妃殿下のご様子は?」と元護女が尋ねた。
フォルネオンは読んでいた本を閉じて鞄に片づける。
「貴女と同じくぐっすり眠っていらっしゃるわ。貴女ももう少し休んだ方が良い」
「そういう訳にはいかない」そう言ってシャリューレは寝台から降り、フォルネオンの代わりに談話室の椅子と大きな鞄を運ぶ。「私はどれくらい眠っていた?」
この部屋の明かり採りを見るに夜が明けていることは分かる。しかし体感では寝すぎていた。疲れはほとんどない。
「夜から朝まで。ごく普通の就眠時間よ。それと私の名は薊。護女の実り名で呼ぶのはやめて。ねえ、最後にお茶でも飲まない? それに殿下の眠りを邪魔しては駄目よ」
「邪魔などしない。そばにいるだけだ。フーネアこそ私についていてくれたのだろう?」
「いいえ。皆にお別れを言いに来たのよ。特に貴女には世話になったどころではない恩があるからね。私、婚約したの。懇意にしてくださっていた茜塚領主のご子息さまと」
「北の重鎮だな。当主とは何度か馬を並べた。クヴラフワの流民や北の海の海賊は彼の名を聞けば震え上がる――」
「それは知らないけど。おめでとうって言えないの?」
「おめでとう。君の幸せを心から願っている」
椅子を元に戻して寝室を出、王妃の下に向かう。身分の高い者が近づくことはない薄暗くて忙しい通路を抜ける。
「アルメノン、リューデシア殿下のことはどうするの?」とフーネアはシャリューレの背中に向けて呟くように尋ねる。
「分かっているだろう? あの時、アルメノンは自ら残ったのだ。意図せず取り残されたわけじゃない。そしていまや聖女だ。王妃殿下もご息女の意志を尊重していらっしゃる」
結局シャリューレはヴェガネラ王妃に娘の最期の言葉を伝えなかった。
「正直に言って、あの内気な子が聖女になるとは思わなかったわ。例え他に護女がいなかったとしても」
「内気か。まあ、そうだな。私の前ではそうでもなかったが」
「あの子との会話を成功させた子はほとんどいないわ。頑張って話そうとするものだから、むしろ皆も気遣っちゃって話しかけにくくなるっていう悪循環が生まれていた」
シャリューレに課された、王女を救うついでに護女たちを助ける任務の結果は主目的を果たせず終わった。しかしヴェガネラ王妃は寛容にもシャリューレを責めも咎めもせず、全ての護女を受け入れた。帰郷を希う者たちを祖国へ送り届け、様々な事情で行くあてのない者たちを全て迎え入れた。フーネアは元々王都の出だったので、前者でも後者でもあったことになる。
「私、ライゼンの男が泣くところを初めて見たの」とフーネアは感慨深げに言った。
シャリューレは訝し気に目を細め、フーネアを見つめる。「何の話だ? そんなに珍しいか?」
「貴女はそうかもしれないけど。ライゼンの男は人生で三度だけ泣くことが許されるの。それは娘が結婚する時」
しばらく待ってシャリューレは尋ねる。「あと二つは?」
「三女が結婚する時までは泣いていいってこと」
「四女の立場はどうなる?」
「ライゼンでは男女含めて最大でも三人しか子供を作らない人が多いの。本当よ。不吉とされているから。四人目自身が不幸になると言われてる。まあ、迷信だってことはみんな分かってるし、私の幼馴染にも何人か四人目の子供がいる。よく揶揄われてたっけな」
「三人目が双子だった場合は?」
シャリューレは少し不安を抱き始めていた。王妃陛下は今まさに三人目の子供を今日にも明日にも出産する予定だ。
「だから迷信だって」とフーネアは呆れて、ため息混じりに言う。「ちなみにライゼンでは先に産まれてきた方が下の子よ」
「シャリューレ隊長! そんなところで一体何をしているのですか!?」
廊下の奥からシャリューレを鋭く呼び立てたのは侍女の司声の娘だった。上流階級に相応しい気品をシャリューレの前でだけ見せない女だ。
フーネアが驚いた様子で言う。「貴女、隊長なの? シャリューレ。何の隊長?」
「王妃殿下の親衛隊だ。隊員はいないがな。ただ私に立場を下さったということだ。まあ、戯れ半分だろうが」
威圧的に歩み寄ってきたススニレアが口を開く。「フーネア。まだいたの? 北の辺境に移り住むのではなくて?」
「ごきげんよう。ススニレアさま。発つのは明後日です。今日は皆様にご挨拶に参りました。これでお別れです。シャリューレ。最後に抱擁を。じゃあね。またいつか」
感極まって目を潤ませる友人にシャリューレは抱擁し、大きな鞄を返す。
「ああ、また北を訪れた折には」
フーネアが歩き去るのを見送る。ススニレアもまたフーネアの姿が見えなくなるまでずっと睨みつけていた。
ススニレアがシャリューレに面と向かい、きびきびと命じる。「さあ、早く身を浄めてヴェガネラ妃のもとへ。産婆の話では今日にもご出産になるそうです」
「待て。私も立ち会うのか?」シャリューレはどんな戦場にいた時よりも怯えて言った。
「産婆以外には貴女の立会いしか王妃様は求められていませんよ。さあ、早くなさい。貴女の身分で殿下をお待たせするおつもりですか?」
シャリューレはおっかなびっくり先を急ぐ。風呂で身を浄め、新たな衣に着替える。そうして改めて王妃のもとへと向かう。
ライゼン大王国のどこよりも清らかな産屋には沢山の清い湯と布、素朴な寝台があるばかりだ。ヴェガネラ王妃とシャリューレ、高名な魔術師でもある三人の産婆がその時を待っていた。そしてケイパロンの頂に座す縁ある女神たちが遣わした四つの祝福が、部屋の四隅でヴェガネラ王妃を見守っている。
「既にこの身は二人の子を産んだが、この時は緊張するばかりだ」ライゼン王妃ヴェガネラは笑みを浮かべて言う。
王妃の緊張を解す方法などシャリューレには一つも思い浮かばず、強張った笑みを返す。
「御名前は、御名前はお決めなさっているのですか?」
ヴェガネラ王妃は自信ありげににやりと笑みを浮かべる。
「ああ、今朝決めた。男でも女でも実りだ。どう思う?」
「大変栄えある御尊名と存じます」とシャリューレは厳かに頷いて言う。「その名の通り、御国に永遠の繁栄をもたらすことでしょう」
ヴェガネラ王妃は力強く笑ってみせる。「そういう意味でも良いだろう。シャリューレ。リューデシアに代わって姉としてレモニカを導きなさい」
シャリューレは恐れ多さの余り地面にひれ伏しそうになって堪える。「そのようなことを……。ご容赦くださいませ。小身に王女の姉代わりなど務まるはずもございません」
ヴェガネラ王妃は首を振って否定する。「好きに考えるがいい。しかし私の予言は当たるぞ、シャリューレ。形はどうあれ、レモニカとは一生の付き合いになろう」
日が傾き始めた頃、お産が始まった。脂汗を滲ませたヴェガネラ王妃の悲痛に響く呻き声を聞き、シャリューレはすぐにでも助けに参じたい気持ちに突き動かされるが、いるべき場所には既にいる。
その細い指がシャリューレの腕に食い込む。呼吸は時に荒々しく、時に静まり、叫ぶような引き絞るようないきみ声が断続的に産屋に響き渡る。
シャリューレは恐ろしさの余り一言も口にすることができず、ただ一心に祈り続けた。
歴戦の産婆たちは声を掛け合い、励まし、まじない、手際よく貴い赤子を取り上げた。長い時間の果て、産湯に浸かった清らかな赤子は祝福の喇叭の如き産声を上げる。母に抱かれ、なお泣き続ける。
ヴェガネラ王妃は息も絶え絶えに、しかし威厳を損なうことなく言う。「さあ、シャリューレ。妹を抱いてやれ」
シャリューレは恐る恐る手を伸ばし、今にも消えそうな輝きを守るように小さなレモニカをその腕に抱き、愛おしそうに呟く。