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アンリエッタとの攻防は、朝に続き、夜もあることは、想定の範囲だった。
「朝、取引を持ち掛けたのは、アンリエッタの方じゃないか」
「言葉を間違えないでよ。私は仕事のことを言っただけで、あのことはマーカスの方だったじゃない」
久しぶりに仕事をしたアンリエッタは、取引のことなど忘れてしまったのか、すべてを終えると、自分の部屋に戻ろうとした。廊下で捕まえなければ、そのまま部屋の中に入っていたに違いない。
「それで? 忘れた振りして、破る気でいたわけか」
「ち、違う! 忘れてなんて……」
ふ~ん、と腕を組んで見つめると、アンリエッタは顔を背けた。
「つい、癖で部屋に行こうとしたの。それに寝るまで、まだ時間があるんだから、自分の部屋にいたって構わないと思うんだけど……」
「そう言って、結局来るつもりはないんだろう」
俺の提案に、乗り気じゃなかったんだから、あり得ない話じゃない。すぐに返事を返してこないことから、やっぱりな、とマーカスは溜め息を付いた。
「最初から、疑われるようなことをして、ごめんなさい。そんなつもりはなかったんだけど、指摘されると、ちょっと自信なかったかも」
「慣れるまでは、許してほしい、と?」
「うん」
素直に頷くアンリエッタの姿に、自然と口角が上がるのを感じた。
不思議だったからだ。不満ばかり言いながらも、結局はこっちの要望を聞いてくれる。元から自分の要望が、通らないことを前提に置きながら、それでも主張することを諦めたりはしない。
前世の話を聞く限り、それがそうさせているのか、はたまた孤児院で育ったからなのか。とにかく分からないが、お陰で俺も遠慮せずに言えて、気が楽だった。
けれど、やり過ぎれば、今まで出会ってきた人間たち同様、離れていくのではないかと、怖かった。
今回も、そうだ。俺の許可なんて、そもそもアンリエッタには必要ない。邪魔をする俺なんか無視して、やりたいようにやることだって、出来たはずなんだ。過保護と過干渉を嫌うなら、俺を追い出すことだって、可能だったはずだ。
それなのに、取引って。可愛くて、甘えたくなった。俺の方が年上なのに、末っ子だからなのか、そう思えてしまう。
だからまた、甘えたくて手を差し出した。こんな俺でも、受け入れてくれるのか、と。そして、隣を歩いても良いのか、と許しを得たくて。
アンリエッタには、ただのエスコートをする仕草に見えただろう。少し不思議そう表情をしたが、躊躇うことなく、マーカスの手を取った。慣れないからなのか、ぎこちない仕草だったが。
許しを請うのは、こっちだという意味なんて、一切気づいていないんだろうな、と思いながら、隣に移動して歩き始めた。
***
部屋に入ってからも、往生際悪く、あれこれ言い出す姿もまた、想定の範囲内だった。
一通り攻防が済むと、アンリエッタは渋々、ベッドにもぐり込んだ。それも、隅の方で横向きになり、意地でもこっちを向こうとはしなかった。
その行動が、怒っているわけではなく、恥ずかしいからというのが、分かっていても、少し傷ついている自分がいた。アンリエッタは、何かがなければ、甘えてくることはないのだと、思い知らされたような気分だった。
ともかく、最初から思い通りにいくとは、思っていなかったのも相まって、初日はこんなものでいいか、と一息吐いたマーカスも、続いてベッドに近づいた。
すぐには入らず端に座り、アンリエッタの様子を窺った。いつもの調子で、強引にこっちを向かせるようなことをしたら、怒るのは目に見えている。
廊下でのことを思い出し、マーカスもまた、慣れるまで何もしないようにしようと、心に決めた。
それに、何もしないと約束させられたからな。
アンリエッタは勘だと言っていた。肝心な時には、役に立たなかったのに、働いてほしくない時に、きっちり仕事をするアンリエッタの勘に、少し腹を立てた。
そう、パトリシアに会ってから、マーカスにはある考えを抱いていた。それは野心とまではいかないが、ある意味それに近かった。
アンリエッタを、銀竜に会わせたくない。マーカスが考える最悪の状況は、パトリシアの代わりに、アンリエッタが生贄になってしまうことだった。
だから、行かせないようにすればいい。純潔を奪って、子供が出来れば、そんな話すら消えてなくなるだろう。元々侯爵家を継ぐ身ではなく、貴族という身分に固執もない。
しかし、マーカスの考えは、アンリエッタの勘に阻まれた。それは逆に、アンリエッタが銀竜に会いに行くことを、示唆されているかのようだった。
パトリシアに会いに行く前も、その時の話し合いでも、アンリエッタはきちんと向き合っていった。銀竜との関わりが、避けて通れないことに。
そして、パトリシアもまた、同じだった。すぐさま生贄になるわけではなかったが、二年前同様、会いに行こうとする意志は、変わっていない様子だった。
なのに、俺一人が、俺だけが拒んでいる。
マーカスもまた、アンリエッタのようにベッドの反対側の隅で、横向きに寝転がった。
「マーカス。起きてる、よね」
目を閉じて、しばらくしてから、アンリエッタの方から声を掛けられた。吐息も、寝ている気配もないことから、起きてはいることが分かっていたが、話しかけられるとは思ってもみなかった。
「あぁ、まだ寝ていない」
念のため、振り返らずに答えた。
「少し、話をしてもいい?」
「まだ文句が言い足りなかったか?」
「ち、違う! そうじゃなくて、聞きたいことがあるの」
アンリエッタの声が、先ほどよりも、より近くから聞こえたような気がして、マーカスは体の向きを変えた。反論して、咄嗟に大きくなったにしては、反響したようには聞こえなかったからだ。
案の定、アンリエッタもまた、体をマーカスの方に向けていた。ただ、ダブルベッドと言っても、貴族たちが使う寝台よりも狭く、反転しただけで、さらに互いの体が近くなった。
すると、アンリエッタはもぞもぞと体を動かし、距離を取った。
「それで、聞きたいことって?」
「えっと、その……、どうしてマーカスは、パトリシアさんのこと、お姉さんって呼ばないの?」
聞き辛い内容だからか、それともそれが本当に聞きたい内容ではなかったのか、どこか落ち着きがなく、ぎこちなかった。
「……年子だから?」
「何で疑問形?」
「明確な理由がないんだ。幼い頃は、姉と呼んでいたかもしれないが、よく覚えてもいないし」
体を仰向けにして、当時のことを思い出した。
「そうだ。あれが原因かもしれない」
「何?」
アンリエッタが少し距離を詰めて、聞いてきた。そんなに気になる内容でもないんだが、マーカスは話始めた。
「俺とパトリシアは、顔が似ているだろう。だから時々、いや頻繁に、双子が着るような、合わせた服をよく着させられていたんだ」
「それは、マーカスもスカートを穿いたってこと?」
突然、楽しそうな声と共に、アンリエッタが覗き込んできた。
「期待しているところ悪いが、ちゃんとズボンだ」
「なんだ。似合いそうなのに」
「そこは男として、断固拒否したから、幼くてもあり得ない」
拗ねた口調で返事をすると、ごめんなさい、と言いながら、アンリエッタはマーカスの髪を撫でた。
「だけど、そういったことがあったせいか、パトリシアのことを姉と、なかなか認識し辛くなったんだろうな。向こうも、姉と呼ばなくても、気にした素振りは一切示したことがない」
「そうなんだ。羨ましいな。私、今は兄弟いないけど、前世ではいたの。お兄ちゃん以外は認めてくれなかったから、呼び捨てなんて、以ての外だったよ」
「妹だったのか。そんな感じしないな」
目を閉じて、アンリエッタの手に身を委ねる。
「あぁ、孤児院で過ごしたからかな。前世の時は、子供が苦手だったんだけど、孤児院だとそうも言っていられない状況だったから、いつの間にか克服していたし。だから、そう見えないのかもしれない」
「そうじゃなくて、なかなか甘えてくれないじゃないか」
「十分、甘えているつもりだけど……」
「どこが」
そう言って、座り込んでいたアンリエッタの膝に、手を伸ばした。
「面倒なこと、全部マーカスに任せちゃっているところ」
「面倒なこと?」
思わず、マーカスは上半身を起こした。身に覚えがなかったからだ。
「今回の事件の後処理とか、情報収集とか、そういったこと。私じゃ、そこまで手が回らないし、今まではそういった面倒事は、エヴァンさんかポーラさんにお任せしていたから」
「あぁ、そういう甘えね。俺が言っているのは、別の甘えだ」
「別の?」
アンリエッタはキョトンとしていたが、逆にマーカスはにんまり笑って抱き着いた。そしてそのまま、ベッドに横になった。
「ちょっと、マーカス⁉」
「大丈夫。何もしない。ただ、こうしていたいだけ」
「それでも、ちょっと待って! まだ聞きたいことがあるの!」
やっぱり、まだあったのか。少しだけ腕の力を緩めて、アンリエッタとの距離を空けた。
「ご、護衛の人。どういった人なのか、ちゃんと聞いていなかったから」
「そのことか」
「お世話になるのに、顔も知らないのよ。なら、せめて特徴とか聞いておきたくて」
アンリエッタはマーカスの腕を引き離し、再び座り直した。それに合わせ、マーカスもまた、上半身を起こしてアンリエッタと向き合った。
「何もなければ、会う必要はないんだが、そうだな。まずアンリエッタの護衛は、侯爵家から呼んだ奴じゃない。俺が旅をしていた時に会った奴で、腕は立つ。隠密が得意だから、情報を得たい時に、度々連絡をしていたんだ」
「そんな人が、護衛なんてよく引き受けてくれたね」
「まぁ、旅している時は、主にアンリエッタのことを、一緒に探してくれていたんだ。興味が涌かない方が可笑しいだろう。それに同じ銀髪だから、余計そう感じたんじゃないか」
知り合った要因も、まさにその銀髪だったが。
「銀髪なら、目立つんじゃない?」
「だから、いつもフードを被っている。面と向かって会わなければ、分からないよ」
「ふ~ん。名前は? 何て言うの?」
アンリエッタの方は、同じ銀髪でもあまり興味はなさそうだった。名前も、ただ形式的に聞いているような感じだったから、マーカスも素っ気なく答えた。
「フレッド・クーディと言う」
「フレッドさん、か。ん? 侯爵家から来たんじゃなければ、マーカスが個人的に雇っているの?」
「まぁ、一応そういうことになるな」
「なら余計、仕事を再開しなくちゃならなかったんじゃない」
そう言ってアンリエッタは、マーカスを叩いた。けれど、本気で叩いているわけではないため、抗議よりも笑いが口から出た。
だから、言う必要のないことまで、つい喋ってしまった。まぁ、口止めはされていないから、構わないだろう。
「正確に言うと、護衛代は払っていない。無償で引き受けてくれたから、せめて生活費くらいは、と思って渡しているだけだ」
「どういうこと?」
「そもそも、俺が二年くらいで、アンリエッタを見つけられたのは、どうしてだと思う?」
質問を質問で返したことに、アンリエッタが珍しく機嫌を悪くした。だから、宥めるように髪を撫でた。
「本人が言うには、アンリエッタに助けてもらったから、ということなんだが、覚えては……いないようだな」
話の途中から、ん? とアンリエッタが首を傾げてしまい、結果的に質問にならなくなった。ただ、無償で護衛をしてくれているため、少し気の毒になり、ヒントを出すことにした。
「フレッドは五年前まで、教会で司祭をしていたんだ。ちょうどアンリエッタのいたゴールクで」
「あっ、あの時の司祭様? そっか、無事だったんだ」
五年前と司祭という言葉で、アンリエッタはようやく思い出してくれた。
マーカスが聞いたのは、フレッドがゴールク教会で司祭をしていたこと、
ゴールク教会が経営する孤児院にアンリエッタがいたこと、
そしてフレッドが、司教から体罰と言う名の拷問を日常的に受けていたこと、
それを見たアンリエッタを含めた孤児院の子供たちが、逃げる手伝いと治療をしてくれたこと、の四つだった。
「でも、私だけがやった訳じゃないのに、その恩恵を一人で貰っちゃってもいいのかな」
「別に一人じゃないさ。フレッドはそのために、情報を集めて隠密をやっている。アンリエッタに恩を返せば、次は別の子供たちの情報を調べて、出来ることをしたい、と言っていた」
「凄いね。教会の司祭連中よりも司祭様って感じがする」
見えないところで、そっと手を差し伸べる。確かに誰にでも、出来そうなことではない。その感情を利用していることに、マーカスは少し罪悪感を抱いた。
「パトリシアさんの方は? 傍にいたし、あの人は侯爵家から来た護衛の人なんでしょう?」
「あぁ、実家にいた時からの護衛だと言っていたな。だから、護衛を呼ぶなら、そいつにして欲しいと頼まれたんだ」
俺がいた頃は、護衛なんて付けたことがなかったのに、どういう心境の変化があったんだ、と思ったくらい、パトリシアの要求には驚かされた。
「さすが、侯爵令嬢ともなると、専属護衛が付くんだね」
「まぁ、それはまちまちだな。付けていないところもある。パトリシアの場合は、俺がいない間に付けたようだな。初めて見る顔だった」
「そう、なの? じゃ、名前は? もしかして、知らないとか」
茶化した言い方をしていたが、声のトーンから、どうやらそれが一番、聞きたいことのように感じられた。
「いや、知っているが」
「何て言うの?」
アンリエッタの質問に、すらすら答えていたマーカスだったが、何故かこの質問には、すぐ答えたくなかった。だから、マーカスはいつものように意地悪を言った。
「寝る時に、そっぽを向かないでくれるなら、答えてもいい」
「え?」
「もしくは、アンリエッタからキスしてくれるなら、構わないけど」
「な、何で突然、そう言うこと言うの」
マーカスの言葉に、みるみる顔が赤くなっていくアンリエッタに、もう一つ提案をすると、今度は口をパクパクさせながら困惑していた。
恋人の前で、他の男に興味を示すアンリエッタの方が悪いのだから、これくらいの報酬がなければ、答えたくはなかった。
「別に、俺はどっちでも良いんだけどな」
二つに一つでも、一つから零になったとしても、マーカスにとっては、どれを取っても得にしかならないからだ。けれど、アンリエッタは違う。
さぁ、どっちを選ぶ?
アンリエッタの顔を覗き込む様に傾けた瞬間、顔を掴まれた。そして、唇同士がそっと触れ合い、すぐに離れた。
「短い」
「何もしないって、約束したじゃない。だから、これだけ」
「少し味わったって――……」
「ダメ! 約束は約束よ」
チッ。思わず、舌打ちせずにはいられなかった。要するに、アンリエッタはマーカスの要求の内、短く済む方を選択したのだ。“約束”という盾を使って。
「分かった。教えればいいんだろう。……確か、ルカ・カリフと言っていたか」
「!」
「やっぱり、あれだけじゃ足りない」
ルカの名前を聞いた時のアンリエッタの反応に、苛立ちを覚えた。アンリエッタの体を抱き寄せ、顔を近づけた。
「!」
しかし、マーカスが触れるよりも先にキスをしたのは、アンリエッタの方だった。先程よりも長く、それでも離れると、名残惜しそうな顔をするのは、どちらも同じだった。
「もう一回」
「え?」
「もう一回したら、約束は守る。だから――……」
マーカスはアンリエッタの返事を待たずに、顔を寄せた。アンリエッタの表情を見れば、聞かなくとも答えは出ていたからだ。
久しぶりに仕事をしたからなのか、結局アンリエッタはそのままマーカスの腕の中で、眠りについた。要求をすべて、マーカスが叶えたことを知らずに。