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パトリシア・ザヴェルにとって、他の令嬢と違うことが、自分の身に起こり得ることには慣れていた。
厳密に言うと、それは間接的であれ直接的であれ、はたまた他からもあれば、自分からした行動もあったからだ。だから、もう大概なものには驚かない、そう思っていたのだが、今回のことは、予想を遥かに越えたものだった。
だって、誰が私なんかを召還する、なんて思うの?
学術院の一室で説明を受けた後、一人になった途端、笑いが込み上げた。可笑しくてならなかったからだ。そしてさらに、弟のマーカスが関わっていたなんて、思いもよらなかったのだ。
始め、マーカスが家を出たのは、私のためではないと思っていた。嫡子であるアイザックよりも優秀だったマーカスに、両親が期待を寄せるのは、当然のことだったからだ。
頭の回転の良さから、口が達者だったことも含め、剣の腕も良かった。マーシェルの貴族において、何よりも大事なのは、剣の腕だ。
アイザックがマーカスよりも優れていたのは、容姿くらいなものだと、使用人たちでさえ、陰で言うほどだった。
マーカスが十六歳で成人を迎えると、それは露骨になった。口でも剣でも勝てないことを知っているアイザックは、マーカスを避け、無視するようになった。両親は、手の余る長女を元々抱えていた上に、困った長男が増えて、頭を抱えていた。
まぁ、私としては、そんなのどうでも良かった。関係ない位置にいたからだ。
他家へ嫁に行く資格のない私は、成人しても、社交の場には一切出なかった。幼い時は、存在を公にしないわけにはいかなかったため、仕方がなしに出席はしていたが、親しい友人はなるべく作らないようにした。
だから二年前、家を出ることに、躊躇いはなかった。マーカスには止められたが、その当人がまさか、家を出ていたとは思わなかった。ただお兄様から、しばらく友人の家に行っているとばかり聞いていたから。
そもそも、それを疑うべきだった。お兄様がマーカスの動向を、把握しているなんて、可笑しな話じゃない。それを二年も信じていたなんて。
マーカスが手紙を寄こさなかったら、ずっとお兄様の言葉を信じていたのかもしれない。
だから、今度は私も動く番だと思って家を出た。その時出会ったのが、ルカだった。
パトリシアは、扉の近くで待機をしている人物に、目を向けた。
「どうかしましたか?」
「ううん。ちょっと、出会った時のことを思い出しただけ」
「あぁ、そのことですか」
互いにその頃のことを思い出したからなのか、ルカは照れ隠しするように、パトリシアは可笑しそうに、それぞれ笑った。
今となっては、専属護衛として敬語で話すが、出会った時は勿論そうじゃなかった。
「ふふっ、ようやくルカの敬語に慣れてきたと思ったら、いきなり離れ離れにされるなんて、思わなかったわ」
「私も驚きました。突然、いなくなるもんですから」
「ものですから」
「……突然、いなくなるものですから。これでよろしいですか」
指摘すると、ルカはばつが悪そうな顔をしながら言い直した。
「えぇ。けれど当のルカは、まだ言い慣れない?」
「二ヵ月しか経っていないんですよ。お嬢様に拾っていただいてから、まだ」
「もう、二ヵ月経っていたのね、あれから」
ルカに出会ったのは、本当に偶然だった。
マーカスが、ソマイアのギラーテという街にいることが分かると、パトリシアは急いで旅支度をして、家を出た。家中が、手紙が来たことで慌ただしくなり、内容を読み終えた直後、両親は使用人たちに急いで指示を出していたからだ。そのため、誰もパトリシアに目を向ける者はいなかった。
機に乗じて家を出たものの、パトリシアは早々に途方に暮れていた。今まで一人で家から出たことがなかったため、まずどっちに行けばいいのか、分からなかったのだ。事前に調べる時間がなかったのも、悪かった。
馬車に乗るにも、どうしたら乗れるのかも分からない。歩いている、この道さえ合っているのかも分からない。
そんな中、細い路地裏で倒れているルカを見つけたのだ。普段なら、通り過ぎているかもしれない光景だったのに、その時は足を止め、気がついたらルカの顔に、ハンカチを当てていた。
不安な気持ちが、とにかく歩みを止める理由を、欲していたのかもしれない。
ルカの状態は、ハンカチ一枚当てたくらいでは、どうにかなるようなものではなかった。黒髪で分かり辛かったが血に濡れ、顔を伝って、破れた服にも染み渡っていた。顔も、よく見ると腫れている。
詳しい状況が分からなくても、誰かに殴られて、瀕死の状態であることは、そういったことに知識の浅いパトリシアでも理解できた。
とりあえず、何とかしなくちゃ、と焦りながら、持っていた救急道具で、応急措置をし始めた。つたない手でもたもたしている内に、パトリシアは侯爵家の使用人たちに、見つかった。侯爵家の邸宅から、そんなに距離がなかったのが、原因だった。
せっかく家を出たことと、瀕死の状態のルカを置いていく罪悪感から、使用人に無理を言って、ルカを邸宅に運んでもらった。
始めは怪訝な顔をした両親だったが、ルカの看病で、邸宅内にいなくてはならないのだから、とアイザックが助け舟を出してくれたお陰で、しばらくの間のルカの滞在が許可された。
両親やアイザックからすれば、ルカはパトリシアを邸宅に閉じ込めておく、玩具に見えたのだろう。体調が回復したルカは、そのまま邸宅に住み、パトリシアの執事兼護衛となったのだ。
「長く感じられますか? 私にとっては、とても短かったです」
「物凄く頑張っていたからね」
ルカは出会った時は怪我をしていたが、護衛としての腕は悪くなかった。さすが騎士の国マーシェルである。問題は、執事としての素質だった。敬語は勿論のこと、作法に座学にと、ルカは苦戦していた。
それでも、あまり表舞台に出ないパトリシアの傍に付けるのなら、及第点であっても構わない、ということで、正式に決まったのだ。その途端、パトリシアがまさか消え、見つかった先がソマイアだったことに、一番戸惑ったのは、ルカだった。
「私もここで、色々と調べないといけないことがあるから、一緒に勉強していきましょう」
「はい。帰ったら、執事長様に褒めていただけるくらい、頑張ります」
「そんなに、気張らなくても良いのよ。ここは貴族社会じゃないのだから」
そう、学術院は社交の場ではなく、学びの場である。パトリシアは学生ではないため、交友を深める相手もいない。さらに保護されている立場であることから、この学術院から出ることが、許されていなかった。
許可してくれる相手も、今は魔塔に行ってしまっていて、身動きが取れない状態だった。
「いえ、私一人が頑張るわけではないと思うだけで、やる気が出るんです」
「分かるわ、その気持ち。私も、図書館に入った途端、いつも以上にやる気になるもの」
「そのせいなんですか。お召し物も、こちらに合わせたのは」
ルカは視線を下げて言った。今、パトリシアが着ているのは、私服ではない。学術院の学生が着用している制服を、院長に無理を言って、手配してもらった物を、身に纏っていた。
「そうよ。こっちの方が、院内を歩いていても、目立たないと思ったの。変かしら」
「お似合いですよ。ただ私も一緒ですと、目立つことには変わらないと思いますが」
「うっ、いいのよ、それは」
マーシェルの貴族の令息令嬢は、一定の年齢になると、アカデミーに通っていたが、パトリシアは違っていた。問題が起こることを危惧した両親が、通わせなかったのだ。
だから、学生たちと同じ制服を着て、少しでもその気分を味わいたかった、というのが本音だった。
「マーカスも警備で、学術院に来るのだから、多少のカモフラージュは必要だわ。あと、時々アンリエッタさんも、来ることになったのよ。だったら、この格好の方がいいんじゃない」
マーカスがギラーテの自警団で、学術院の警備をしていることを聞いたのは、アンリエッタと共にやってきた、数日後だった。その時に、アンリエッタが神聖力をきちんと、正式に学ぶために、学術院に来ることも聞いたのだ。
きちんと制御し、使いこなせなければ、こないだの事件のようなことが、また起こり得るからだと言う。大きすぎる力は、狙われ易い。それが無防備の状態なら、尚更なことだった。
「マーカスのことも含めて、アンリエッタさんとは色々縁があるみたいだから、仲良くしたいのよ」
「そのマーカス様のことなんですが、どういった方なのでしょうか?」
「う~ん。一言で言うと、性格が悪いわ。だから、容姿のことには触れちゃダメよ。以前、茶化した相手に、とんでもない仕返しをしていたから」
他の令息相手なら、剣術の練習相手と称して、手加減なしでやっつけ、アイザック相手には、机の上にあった物、すべて処分したくらいだ。その時、マーカスはこう言ったのだ。
「『大事な物を、わざわざ見えるところに置くのが悪い』ってね。でも、大事な書類は処分していたわけじゃなかったのよ。『役に立ちそうだから貰っておくよ』と言って、それをネタに悪さしていたらしいわ。だから、ルカも気をつけてね」
「肝に銘じておきます」
「うん。そんなマーカスを御せるアンリエッタさんに、興味が湧くのは、仕方がないと思わない?」
マーカスが気に入ったという点も、お近づきになりたい理由だった。
「御しているのかは疑問ですが、お気持ちは分かります。しかし、マーカス様のガードも堅いですよ。大丈夫なのですか?」
「そこは、姉としての威厳で――……」
「姉と呼ばれていませんが……」
「うっ、気にしていることを、言わないで」
幼い頃は、お姉様と呼んでくれていたのに、いつの頃からか呼ばれなくなってしまった。けれど、直接呼び方を指摘できずに、今に至っているのだ。
「お姉様って、呼んでくれていた頃のマーカスは、可愛かったのに……」
さすがのルカも、返事をしてはくれなかった。多分、想像が出来なかったからだろう。