どうして、彼女がここに? 出入り禁止ではなかったの?
彼女とはもう関わりたくない。
出来ればこのまま立ち去ってしまいたい。
でももう目が合ってしまったから知らないふりは出来ない。
彼女に逃げたと思われたくない。
覚悟を決めて、彼女の座る席に向かう。
酷く緊張しているけれど、彼女に悟られたくなくて平静を装う。
「お待たせしました」
私は必死に虚勢を張っているけれど、水原さんは今どんな気持ちでいるのだろう。
「あの……すみません突然尋ねて来て」
彼女は気まずそうな表情で軽く頭を下げた。社会人の謝罪とは思えない態度に、不快感がこみ上げる。
「私に、どのようなご用でしょうか?」
私と彼女との接点は湊しかない。その湊ともとっくに別れているから今は完全に無関係だ。
そもそも別れの原因の彼女が堂々と私に会いに来るという行為が信じられない。
湊と別れる前だったら修羅場になっていたかもしれないのに。
「実は湊の事で話が有るんです」
水原さんが深刻そうに言った。
彼に何か有ったのかもしれない。
以前、マンションで会って以来私は湊と顔を合わせていない。最後にマンションを引き払う時も湊は来なかったし。
だから彼が今どこに居るのかも知らない。
それでいいと思っていたのだけれど、湊が何かトラブルに巻き込まれているのだとしたら気にはなる。
もう好きだという気持ちは無いけれど、何年も付き合った相手だし完全に無関心にはなれない。
でも水原さんに湊のことを相談をされるのは違うと思うし不快だった。
「知っていると思いますけど私と湊はもう別れています。だから話と言われても……」
「でも美月さんはずっと湊と一緒に暮らしてたんだし、湊の事を良く分かっていると思って!」
水原さんが私の言葉を遮り声を大きくする。
「分かっていなかったから別れることになったんだと思ってます。用件がそれだけでしたら、仕事中ですのでこれで失礼させていただきます」
淡々と言う私に、水原さんは不満そうだった。
きっと私を冷たい人間だと思っているのだろう。それで構わない。
「待って!」
席を立つ私を、水原さんが驚く位高い声を上げて引き止めて来た。
「ちょっと声が大きいです!」
周囲の目が気になり慌てて言うと、水原さんは少し気まずそうな顔になった。
「ごめんなさい。でもまだ話は終ってないから……湊の様子がおかしいんです」
「私はもう関係ないと言いましたよね?」
「私、心配で……美月さん様子を見てあげてくれませんか?」
「えっ?」
まさかの発言に唖然とした。
どうしてそんな発想になるんだろう。それにさっきから水原さんは私の言葉を無視して自分の主張ばかりしている。
「私と湊はもう別れてるんですよ」
「それは知ってるけど、今は非常事態な訳ですから」
「具体的に何が有ったんですか?」
溜息まじりに聞くと、水原さんは控えめに首を傾げた。
「分かりません」
思わず嘲笑しそうになった。
「分からないって、水原さんは湊と付き合ってるんですよね?」
「いいえ。誤解しているみたいですけど、私は湊と付き合っていません」
「え……別れたんですか?」
有賀さんの顔がチラリと頭に浮かぶ。
「別れたと言うか……元々、正式に付き合ってた訳じゃないんです」
「そうは思えませんけど。湊はあなたのことを好きだと言ってましたから」
「私も湊が好きです」
そう言った瞬間、水原さんの顔がたしかにほころんだ。
私は得体の知れないものを見たような不安を感じた。
彼女が何を言いたいのか分からない。
何を考えてるのか分からない。
私とは全く考え方の違う女性だ。
「湊は最近元気が無くて、笑顔も少なくなりました。いつも思い詰めていて……このままじゃ精神的に良く無いし、仕事に影響が出てしまうと思うんです」
「でしたら水原さんが湊を支えてあげて下さい。私にはもう何も出来ませんから」
「いえ、私にはこれ以上湊の力になれないんです」
水原さんはきっぱりと言い切る。
湊の事を心配している反面、すごくドライにも感じる。
ますます彼女が分からない。
「美月さんと別れた事、後悔しているんだと思います」
「……それ本気で言ってますか?」
よくそんな台詞が言えると思う。自分が原因の一つだってことを忘れてしまったの?
苛立ちが込み上げる。でも今更彼女と醜い争いたくなくて、私は怒りを飲み込んだ。
「もう過ぎた話です。それより水原さんはどうして力になれないんですか?」
「それは、私では支えきれなくなって……」
初めて彼女の返事の歯切れが悪くなった。
「もしかして、水原さんには湊とは別の相手が居るんですか?」
余計なことと分かっていながら核心を突いてしまった。
「いえ……私は特定の相手は居ません」
「……」
有賀さんの存在はどうなってるんだろう。
湊程じゃないけど、彼女に好意を持ってるように見えたけど。
有賀さんも湊みたいに彼女に振り回されてる?
どちらにしても私では湊を励ますことはできない。
彼が塞いでいる原因は、水原さんのはっきりしない態度だろう。
私という障害が無くなっても、二人の距離は一定以上は縮まらないのかもしれない。
「とにかく私は力になれません。時間が無いのでこれで失礼します」
「……湊が心配じゃないんですか?」
「会社に来るのはもう止めて下さいね。水原さんはうちの担当外れていると聞いてますよ」
意地悪かとも思ったけど、また呼び出されるのはごめんなので冷たく言う。
「……今日はプライベートですから」
水原さんは怒った様な目をして私を見上げた。
「湊に連絡して下さい。あなたはアドレスも電話番号も変えてしまったから、湊からは連絡出来ないんです」
「私はお役に立てません。失礼します」
どうして私が批難の目で見られないといけないのか。
もやもやしながら営業部のフロアに戻ったが、水原さんの顔が頭から離れない。
彼女を間近でで見たのは初めてだった。
五歳以上年上のはずだけれど、童顔のせいか頼りなく幼く見えた。
でも自己主張は激しく自分の意思は変えない強さを感じた。
彼女が、湊が夢中になった人。私の失恋の要因になった人。
……溜息が漏れてしまう。
せっかく、幸せな気持ちで暮らしてたのに。
彼女が言った通り、私はマンションの解約が終った後電話を買い換えて湊には知らせなかった。
もしかしたら、湊は私に連絡して来ていたのかな。
本当に……湊は何か困っているのかな。
一度気になると、なかなか抜け出せない。
人の気持ちって難しい。
簡単に忘れたり、割り切ったり出来ない。
酷い目に遭ったと思っているのに、今振り返ると辛い時間よりも楽しかった日々が鮮やかに浮かんでくる。
それは今が幸せだからなのかな。
今でも毎日がつまらなくて、鬱々と暮らしていたら、湊との思い出は暗くて悲しいものばかりだったのだろうか。
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