小学生の頃、放課後の誰も居ない教室で、担任の机の引出しから給食費を盗んでいたクラスメイトがいた。
麗はそれを見ていた。
だけど、わざわざ告げ口するのも面倒だったから、黙っていてやった。
それなのに、翌日学級会の最中、そのクラスメイトは立ち上がってこちらを指差し、「麗が取っているのを見た。きっといちばん家が貧乏だからだ」と宣ったのだ。
麗は貧しかった。汚れていた。普通じゃなかった。だから誰も麗を信じなかった。
証拠なんて無かった。
でもみんなこいつが犯人だと書いた顔で麗を見ていた。
一年前に入学した中学のクラスに、小学校の頃、唯一仲が良かった女の子がいた。
すごく優しくて、はきはきとした子だった。
家のことも、妹のことも、万引きのことだって、彼女になら何でも相談できた。
その子だけは麗のことを汚い臭いと言わなかった。
「給食費、麗ちゃんは盗んでないって私わかってるから。」
そう言ってくれた。
けれど、入学式のあと、彼女はクラスのみんなに言い触らした。
「知ってる?あの子、いつも万引きしてるんだよ」
金髪になって、ピアスを付けて、「麗ちゃん」と呼んでくれなくなって、今はもう知らない人みたいだった。
彼女は麗の陰口を売って仲間を買う商人だった。
親友だった人は、麗のことを蹴るとき、水を浴びせるとき、「犯罪者」と呼んだ。
麗はべつに悲しくはなかった。
弱い者が下に、強い者が上に立つ、この世の摂理。
乗る舟を誤って貧しい家に産まれた自分が悪いのだと分かっていた。
けれど、麗は固く誓っていた。
いつか命と一緒に必ず幸せになる、と。
自分達の力で生きる術さえ得られたら、何もかもを捨ててでも這い上がってやると、それだけを日々思い描いていた。
しかし、姉妹を分かつ事件は起きた。
麗が中学二年生に進級した春のことだ。
その日の夜、麗は母親に呼び出されていた。
「何?お母さん」
「そう呼ぶなと言っている」
母親はいつもと同じウィンストンの煙を吐きながら、冷たく言った。
彼女は、娘に母親として呼ばれることが昔から気に入らないらしかった。
「…ヴェロニカ」
名前を呼んで初めて、母親は麗の目を見た。
そして思わぬ事を口にした。
「明日の夜、男とホテルに行って金を貰って来なさい。」
「…え?」
麗ははじめ言葉の意味が理解できなかった。
男と、ホテルに。
…売春。
それは、売春をして来いと言っているのか。明日、私が?
混乱する麗を他所に、当然の事かのように母親は話し続ける。
「20時だ。もう約束は取り付けてある。」
「もっと早くさせておくべきだったな。若いほど高いというのに」
彼女が煙を吐く度、噎せ返るようなバニラの匂いが部屋に充満する。
麗は徐々に状況を理解していくと同時に、じわじわと恐怖が背筋を這い上がって来るのを感じた。
「む、無理…無理だよ。そんなの、私したことないし…知らない人と…」
母親は煙とも溜息ともつかない空気を吐き出し、軽薄に言い捨てた。
「お前、まだ生理は来てないんだろう。」
麗はその晩、一睡も出来なかった。
今までどんなに殴られ蹴られても、これほど明日が来なければと願った夜は無かった。
どうしよう。初めてはどれだけ痛いだろう。相手は誰かも分からない。もし乱暴されたら?
布団に篭ってどうにか恐怖をやり過ごそうとしていると、不意にベランダの方からドンッと鈍い音が聞こえた。
なんの音だ?
麗ははじめ、命が洗濯物を干しているのだと思った。今日の洗濯の当番は命だ。
けれど今は真夜中。こんな時間に家事をしていれば御近所迷惑になってしまう。
麗は気を紛らわすついでに妹を窘めようと、ベランダに向かった。
そこには、逆さにしたプランターに乗り、柵の下を覗き込む命の姿があった。
小さな背中が必死に背伸びをしている。柵の向こうから吹き込む夜風が彼女の髪とカーテンを静かに揺らした。
洗濯物は、何処にも見当たらない。
麗はこのとき、形容し難い不安を覚えた。
ここで左を向けば、両親の寝室が見える。けれど身体は頑なに動かなかった。
その時、不意に命が振り返った。
「あっ、お姉ちゃん!」
妹は無邪気に姉の元へと駆け寄る。
「…何してたの?こんな時間に。」
ベランダから物を落としちゃった、お姉ちゃんどうしよう。
それならどれほど良かったか。
「あのね、パパとママ、死んだよ!」
命は、溢れんばかりの笑みを湛えてそう言った。
「……は?」
死んだ?
麗が聞いた、重い塊を打ち付けたようなドンッという音。
─────命がやったのか?
麗は命を押し退け、柵の向こうを覗き込んだ。そして息を呑む。
二つの黒い塊。
じわじわと拡がる、褐色の液溜り。
柵を掴む手が小刻みに震えだし、喉が焼け付くように渇いていく。
「あのねっ、あのね、お姉ちゃんがすごく嫌なことさせられそうなの、みこと聞いちゃったの。お布団で泣いてたから、だからお姉ちゃんのためになんとかしなきゃと思って…」
「バカ!!」
純粋な瞳でどこか誇らしげに話す命を、麗はぴしゃりと怒鳴りつけた。
命は分かっていない。だって、どうしたらいい。このままじゃ──────
「このままじゃ、私たち犯罪者なんだよ!?」
命は麗の剣幕にびくりと肩を震わせた。怯えたその顔を見て、麗はハッと我に返る。そして今度は激しい焦燥感が押し寄せた。
「犯罪者」。
それは、彼女が毎日のように浴びせられてきた言葉。
両親のことはもうどうでもよかった。けれど、命まで自分と同じ目に遭ってしまったら?
妹を守りたい。二人で幸せになりたい。
麗はこの瞬間に、姉として覚悟を決めた。
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コメント
2件
ミコトちゃniceだけど方法がまずいとても嫌な予感🥶⁉️😨🥶😨二人で幸せになれないのが確定した状態で読むのつらす、ぎ😰😰😰😰🥶😨😨😭