喫茶桜のリビングに
時の刻む音だけが静かに響いていた。
柱に掛けられた真鍮の振り子時計が
一定のリズムで空気を打つ。
青龍は、ソファの下に正座し
じっとその針を見つめていた。
(⋯⋯アリア様⋯⋯
お戻りにならぬ、お心算だろうか)
時也たちが戦いに沈んだ明け方から
すでに幾時間が過ぎていた。
振り子時計の短針は
もうすぐ〝昼〟の位置を指す。
窓の外では
穏やかな陽光が庭の草花を照らし
平和そのものの風景を描いている。
だが
青龍の額には、薄く汗が滲んでいた。
(無防備な時也様を
置いて行く訳にもいかん⋯⋯
だが⋯⋯起きられてから
アリア様が居ないと知ったら⋯⋯
お怒りになるだろうな)
眉間に皺を寄せたまま思案していると──
微かに、風の流れが変わった。
その瞬間
青龍の山吹色の瞳が静かに細められる。
(⋯⋯十五⋯否、二十⋯⋯か)
背後の裏庭。
そこから忍び寄る微かな殺気と気配の渦。
訓練された動き、呼吸を殺す術。
何よりその脚捌きが
青龍にははっきりと見えていた。
(⋯⋯こんな時に⋯⋯
いや、こんな時だからこそ⋯⋯か?)
睨むように裏庭の方を見つめる青龍の足元に
ふわりと白い毛が触れた。
「⋯⋯起きたのか。ティアナ」
喉を鳴らしながら擦り寄ってきた白猫──
ティアナは
青龍の膝元に丸くなろうとしていたが
同じく気配を察してか耳をぴくりと動かす。
「起き抜けにすまんが⋯⋯
時也様達をまだ起こしたくはない。
⋯⋯結界を、頼めるか?」
ティアナは短く一声、鳴いた。
次の瞬間
空間そのものが沈むような感覚が走る。
床に敷かれたタイルの模様が僅かに揺らぎ
音も、光も、存在の気配さえも
吸い込むような
絶対的な隔離結界が展開された。
「⋯⋯助かる」
静かに呟くと
青龍はゆっくりと立ち上がった。
淡い青の着物の裾が風に揺れ
小さな身体はそのまま
裏庭の方へと向かっていく。
引き戸を開け、光が差し込むと
そこに広がっていたのは──
異様な光景だった。
緑の庭の芝を踏み荒らすように
ずらりと並ぶ黒装束の者たち。
それぞれが独自の武器と装束を身に纏い
軍隊とも、ハンターとも異なる
殺意の色を纏っていた。
彼らの中央に立つ、ひときわ異質な男──
壮年の体つきに、漆黒のスーツ。
腰には大太刀を佩き
口元には歪んだ笑み。
その瞳だけが
青龍をまっすぐ射抜いていた。
「おやおや⋯⋯」
その男が口を開くと、空気が冷たくなる。
「弱体化した式神が一人で、お出迎えかい?
どうにかできるとでも思っているのか?」
その声は、丁寧で優しげ。
だが
その言葉の端々には
青龍の存在を知り尽くした者だけが
口にできる確信があった。
「アリアを大人しく出してくれたら
ボク達も大人しく帰ろう。
ね?交渉って、そういうものでしょう?」
青龍は言葉を返さない。
ただ静かに、男を見据える。
(⋯⋯何故
私が〝弱体化した式神〟と、知っている──)
本来の姿──神域を渡る龍。
その力を失い、人の姿を取り
小さな身に宿すことで
やっと今の世界に在ることができる。
それを知っているということは──
彼は〝偶然ここに来た者〟ではない。
「⋯⋯では、こちらからも一つ⋯⋯」
青龍は、一歩、踏み出す。
砂利がわずかに軋み
風が庭木を揺らす。
「貴様が⋯⋯
我が主に牙を向けるというのならば
弱体化した式神一匹すら
退けられぬ者たちに、何ができるか⋯⋯
見せてもらおう」
その瞬間、空気が震えた。
小さな青龍の身体から
龍の咆哮にも似た威圧が放たれる。
そして、戦端が──
静かに、開かれようとしていた。
(⋯⋯できれば
不死鳥との闘いに取っておきたかったが
そうとも言っておれんな)
青龍の山吹色の瞳が細くなる。
その視線の先
満開のまま季節を超え咲き誇る桜──
時也が蘇った、霊木の桜。
時也の亡骸と
アリアの不死の血を共に吸った桜は
今なお静かに
しかし確かな存在感で丘を見下ろしていた。
青龍は、その太く捻れた幹の根元
樹皮の裂け目に手を差し入れる。
指先が何かを掴む感触を得て、引き抜いた。
それは、一枚の護符。
淡い桜色に染められたその紙片には
繊細な筆致で陰陽術の紋が刻まれ
長い年月をかけて蓄積された時也の霊力が
微かに脈打つように宿っている。
「⋯⋯この世界の者は、見た事がなかろう」
青龍の声は、地を這うように低く
けれど確かな威厳と決意を含んでいた。
「見せてやろう──龍の姿を」
護符が風に舞い上がるように離れた瞬間
大地が震えた。
突風が庭の草木を薙ぎ倒し
空気が一瞬、熱を孕むように軋みをあげる。
そして──
青龍の身体が、灼光に包まれた。
光はやがて形を成し
小さな少年の姿は、瞬く間に崩れ去る。
代わりに現れたのは──
漆黒と蒼白を纏う、巨大な龍。
頭部には二本の琥珀色の角。
その双眸は夜を裂くかのごとく輝き
翼のように広がる気流が
空間すら押しのけていく。
咆哮が、雷のように空を揺るがせた。
それは怒りの音ではない。
誇り高き〝神の獣〟としての
本能からの威圧。
対峙する一団は、その場に釘付けにされた。
その中心に立つ男──
壮年の身体に大太刀を佩き
まるでこの瞬間を待ち侘びていたかのように
愉悦と狂気を滲ませた冷笑を浮かべていた。
「ふふ⋯⋯ふふふ⋯⋯」
月光を反射するその歪んだ瞳が
龍の威容をまっすぐに見据える。
「いいねぇ⋯⋯いいねぇ、青龍。
やっぱり、そうでなくちゃ。
キミを沈めたら──」
一歩、男が踏み出す。
大太刀の鯉口に、指がかかる。
「時也は、どんな顔をするかねぇ?
見てみたいなぁ⋯⋯
あの男の、泣き顔ってやつを⋯⋯」
龍と、人。
不釣り合いな構図のはずが
この場には
歪で美しい緊張が張り詰めていた。
そして、今──
静かな
だが激しい戦の幕が開こうとしていた。
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霊木を背に顕現した龍神・青龍。 だが兵たちは異様な冷静さで襲いかかり、操る黒幕はただ微笑む。 咆哮と奔流が交差する中、護るべきものを背負い、蒼き龍は誇りを賭けて吼える──