テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
のんの
410
こりん
602
レタス
5,005
#ご本人様には関係ありません
狐十@アイコン変えた!!
14,368
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
あの夜以来、柔太朗はどこか自分を取り戻そうとするように、以前の調子を装っていた。
ただ、どこかで「分からない」と口にしてしまった弱さを、そのまま放っておくことはできない気もしていた。長い時を過ごしてきた中で封じた感情への戸惑いが、まだかろうじて彼の中に残っていた。
舜太が店を訪れたのは、それから三日後のことだった。カウンター越しに座る舜太は、いつもと変わらぬ調子で軽口を叩いていたが、その視線の奥には、あの夜の答えを探るような色が、まだ静かにくすぶっている。
柔太朗は、それに気づかないふりをしながら、いつものように酒を作った。
だが、いつもより一歩、距離を詰めることにした。──自分の気持ちと主導権を、取り戻すために。
「ねえ、舜太くん」
グラスを差し出すついでに、柔太朗は自然な仕草で手を伸ばし、舜太の前髪をそっとかき上げた。
均衡を崩す手管としては、何百回と使ってきた仕草だった。前髪を上げ、隠れていた額や目元を露わにする。それだけで、大抵の人間は緊張し、頬を染める。反応を楽しむつもりだった。いつもの危うい関係性に戻れるはずだった。
指先が舜太の髪をすくい、額から耳の方へと流れていく。その動きのまま、視線は自然と、舜太の首筋へと落ちた。
──その瞬間、柔太朗の呼吸が、わずかに乱れた。
明かりの下で、舜太の首筋の白さと、その下を巡る血の気配が、いつになく鮮やかに映る。視線がそこに縫い付けられたように、動かなくなった。ただ美しいと思うのとは違う、もっと根源的な引力に、緩やかに搦め捕られていく感覚だった。
無意識のうちに、柔太朗の舌先が、自分の唇をゆっくりとなぞった。
焦点の合わない、夢の中を漂うような瞳だった。頭のどこかで小さな警鐘が鳴っている気がするのに、体はそれに逆らうように、無意識に少しずつ舜太の首筋へと引き寄せられていく。
いつもなら余裕たっぷりに浮かべているはずの微笑みは、今は完全に消えていた。代わりにそこにあったのは、何かに酔いしれているような、うっとりとした表情だった。目の前の舜太には、それがはっきりと見えていた。
「柔太朗さん?」
舜太が怪訝そうに名を呼んだ、その声で、柔太朗ははっとして、慌てて首筋から視線を外した。とっさに手を引こうとしたが、指先はまだ舜太の髪に触れたまま、動きを止めていた。今頃になって、心臓が激しく鳴り始める。
「……なぁ」
舜太の声が、わずかに低くなった。からかうつもりで発した声ではなかった。今見たものが何なのか、うまく言葉にできないまま、ただ本能的な違和感だけが胸の奥に広がっていく。柔太朗の目に浮かんでいたのは、恋情でも、いつもの駆け引きの色でもない。もっと切実で、もっと剥き出しの何かだった。
――きれい、だった。
「ごめん。ちょっと、考え事してた」
「考え事、にしては、えらい顔してましたけど」
「気のせいだよ」
いつもの台詞だった。だが、その声には、これまでにない硬さが混じっている。舜太はしばらく黙って柔太朗を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「柔太朗さん」
「なに」
「──そういう顔するのやめろ」
その言葉に、柔太朗は思わず顔を上げた。舜太の表情は、いつものからかうような笑みではなかった。どこか苦しげで、それでいて、独占欲を隠しきれない、剥き出しの真剣さがあった。
「そういう顔って」
「今の顔。──俺以外の誰かに、絶対見せんといてください」
その一言に、柔太朗は返す言葉を失った。舜太が今見たものの正体を、正しく理解しているとは思えない。ただ、確かに何かを察していた。柔太朗の中にある、これまで見せたことのない一面を。
「──分かった」
柔太朗はそう答えるしかなかった。約束できるかどうかも分からないまま、ただその場を収めるための言葉だった。だが、口にした瞬間、それが単なるその場しのぎには似つかわしくない約束になることに、あとから気づいた。
柔太朗はグラスを磨く手を止め、自分の指先──先ほどまで舜太の髪に触れていたそこに、まだ微かに熱が残っていることに気づく。
理性は、まだ保てている。そのはずだった。
だが、あと何回、こうして際どい場所を歩き続けられるのか。柔太朗は、自分でもその答えを持てずにいた。
舜太は、帰り道、何度も今夜見たものを反芻していた。あの一瞬の表情。焦点の合わない、どこか蕩けたような眼差し。それが単なる照れや、いつもの欲情の色でないことだけは、はっきりと感じ取っていた。
──柔太朗さんには、まだ何か隠していることがある。
そう直感しながらも、舜太はその正体を、まだ言葉にすることができずにいた。
ただ、その謎めいた部分にすら惹かれている自分に、少しだけ呆れながら。