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「じゃあ、行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」
「お留守番よろしくね」
音と共にドアが閉まり、姉と、母が、消えた空間に、一人、取り残される。留守番に寂しさを感じる年頃ではないが、いま、彼が感じているのは、他ならぬその感情だった。――姉は、丸一日閉じこもりきりだったのが嘘だったかのように、以前振りまいていた、明るい笑みを取り戻している。真夏のひまわりのように、誰のこころをも照らし出す太陽のような笑みを。姉の存在は、自分にとって生涯輝き続ける太陽なのだと思った。
『おはよー智ちゃん』
目がすこし赤い辺り、姉は、役者にはなりきれなかったようだ。
それでも、平然と、普段通りの明るさを保つ辺りは、流石だと智樹は思った。――She’s the greatest actor that has ever lived. 姉が躓いた関係代名詞を用いた表現をいまこそ彼女に捧げたい。
「馬鹿だな……無理だよおれ。姉さん……」
玄関に突っ立ったまま涙を流す。それを拭うと、姉の部屋に忍び込む。姉の匂いが――余韻が、まだ残されている気がした。姉と交わったときのあの恍惚が。感動が。出来ることならば、あの瞬間を、永遠のものにしたい。
「晴ちゃん……愛している」
姉のベッドに横たわり、ただ涙を流す。本当の愛の交流を果たし、姉のほうは見事な成長を遂げたというのに、自分といったら……。情けないことこのうえない。
思えば、自分は、恥ずかしいことをしてばかりだ。姉のためという建前で、母に想いを寄せる石田に会い、ふたりの愛が成就せぬよう画策したり。姉を追いつめたと思えば、結局理性を壊し、本能に導かれるがままに、姉を、抱いた。
『智ちゃん……ああ、智ちゃん……』
姉の香りが。感触が、まだこの胸のなかに残っている。姉のなかに射精した究極の絶頂すらまざまざと思いだされるというのに。姉は、もう、自分とは別の道を歩き出している。
『石田さんとお母さんのこと、応援するよ。……うん。ふたりともいい大人なんだからさ。やりたいようにやるといいと思うよ。わたしたちに遠慮なんかしないでさ。お母さんにはお母さんの人生があるんだから。思い残すことのないように動いたほうがいいと思うよ……本当に』
朝食の場で、高らかに姉は宣言した。自分が母親と石田の恋を応援することを。
姉は、自分を選び、そして――捨てる。
分かっている。自分たちの恋は、決して許されるべきではないのだ。姉が『選んだ』以上、自分に出来るのは『従う』こと……分かっていても、頭がついていかない。
周囲の人間は、智樹の知能が優れていることを評価する。しかし、性、愛のジャンルにおいて、彼は年齢相応の初心者に過ぎなかった。煩悶し、苦悩する。――姉の枕のシーツの匂いを嗅いでいるうちに、おかしなことに、勃起してくる。
「ああ……姉さん。姉さん! 愛している……!」
勉強机のうえのティッシュを引っ掴み、先端を覆うと、姉のことをただ思いながらしごいていく。
射精とともに、彼は脱力した。
「まじくそだぜおれ……なにやってんだ」
周囲の変化に気づかないでいられたらどれほど楽だろう、と虹子は思う。
智樹がひとり、晴子の部屋で自分を慰めていた頃、虹子は電車内にて、しきりに母親に語り掛ける愛娘を見つめていた。
たった一晩で、ひとは変わりうるものだ。――特に、女は。
目覚ましい変化を遂げた娘のことを、どう評価したらいいものか、虹子は戸惑っている。
昨晩の行動は、失敗だったか。断じて二人きりになどすべきではなかったのだ。親として。
一方、彼らの行動を認めてしまう自分自身の姿も、虹子は自分のなかに、発見してしまう。
晴子が、何事もなかったかのように、振る舞った。それが、すべての答えだ。
彼らの胸中は、複雑だろう。彼らを産み、生まれた頃から見守ってきた人間としては、本当に愛する人間を見つけたのなら、その想いは、尊重してやりたい――たとえ、世界を敵に回そうとも。
けども、良識的なほうの虹子が、否定にかかる。――あなたの育て方が間違っていたから、彼らは、道を誤った。本当に彼らを愛する親ならば、間違った方向に進む彼らを正しい方向に導くのが正義だろう。
それも、分かってはいるのだが。
でも、どうしてきょうだいなら、駄目なのだろう。
同じ環境で生まれ育った、誰よりも深い絆で結ばれている同士が、どうして――血が繋がっているというだけで、愛し合ってはならないのか。
納得の行く理由を説明出来ぬ以上、娘の晴子を追求することも出来まい。質問をするとしたら、親としてある程度の答えを固めておかなければならない。それは正しい、あれは間違っているのだと。
晴子も、智樹も、自分には勿体なさすぎるくらいに、素晴らしい子どもたちだ。こんなにも素晴らしい子どもたちに育ってくれたことを、虹子は、誇りに思っている。――父親があんなだった割には、父親の愚行を模倣せず。自分でちゃんと考えて、判断出来る立派な子たちに成長してくれた。
果たして、彼らの犯した行為は、過ちなのか。それとも正義なのか? 表面上は、晴子の振る世間話に相槌を打ちつつも、意識の水面下で考え続ける。――いったい、なにが、正しいのだろう。
いくら考えても、答えなど、見つかりやしなかった。
一方の晴子も、懊悩していた。
昨夜の経験は、間違いなく、自分を幸福にしてくれた。
女は、愛される行為を通じて、真の、自分を見出す。性行為を経験した女性が誰しも体感するまさにあの現象を晴子も体感していた。
世界が、輝いて見えた。
いままでとは、なにもかもが違って見えた。
急速に変転し、加速する世界の中で、自己の存在だけが、正しかった。――そう、実の弟と愛し合ったあのときの自分が。
たとえ、誰に否定されようとも、あのときの自分は、正しかった。そう認められる頑なな自己を、晴子は自分のなかに生成した。あの、尊い行為を通じて。
愛があるからこそ、あんなにも高みに上り詰めた。セックスとは、互いを尊重する意志及び行為が伴わねば到達出来ぬ、偉業だ。理屈ではなく経験を通して、晴子は、学習した。
時間をもし巻き戻したとしても、結局自分は、あの弟と結ばれる道を選ぶ、と晴子は思う。そう思えるくらいに尊く、貴重な経験だった。
愛する男をこの身に受け入れる性別でよかったと思う。
最愛の男を胎内に導き、同じ高みに上り詰める、あのプレシャスな経験こそが、いまの晴子を支えている。
背徳的な行為であることには変わりない。母には――言えない。
そして、この想いを今後誰にも打ち明けることなどなく、自分は、死んでいくのだと思う。
けれど、自分の心臓が動く限り、このみずみずしい命の輝きは、朽ちることなどないのだと思う。
愛の行為を通じて、晴子は、愛の意味を知った。――愛とは、無償の努力だ。決して見返りを求めることのない、尊い行為。高潔な精神に基づく、精神的な行為。
他方、愛の行為を通じて変わった自分が、他人の目にどう映るのか。そのことについては、まだ若い彼女は、無自覚であった。その現象が、いったい周囲にどれほどの影響をもたらすのか、まだ、彼女は知らない。
溝の口駅に到着し、改札を抜けると、彼女は顔を綻ばせた。「なんだか、『葉桜』に行くの、久しぶりだねお母さん。わたし、すっごく、楽しみ……」
「ええ……」
露出した頬を刺すような外気にさらされ、晴子は、白い息を吐いた。冬物のコートにして正解だった。寒暖差の激しいこの時期。春の気配をそこはかとなく感じるこの時期。晴子は、冬だからといって暗い服を着るのは、あまり、好きではない。であるから彼女は、冬は、淡い水色のダッフルコートを着用しているのだが。この日は、ミントグリーンのコーデュロイジャケットにした。寒々しく見られないように、首元にはスヌードを。
母は、流行りの、ノーカラーの、ブルーグレーのコートを着ている。下には紺のワンピースを。今期は、スウェット素材のパーカーが爆発的に流行しており、虹子は、娘の晴子から時々借りて着用している。――が、パーカーはカジュアルすぎると判断したようだ。
晴子は知っている。その紺のワンピースは、母の一張羅だということを。
洒落た店で食事に出かけるときになど着用する、ここぞというときのための勝負服。それを選んだということは、つまり。母の気合が読み取れる。――愛する者の前で、女は、常に、美しくあることを選ぶ。そういう性別だ。
職場ではいつも決まりきった白のワイシャツに黒か紺のスーツを母は着用しており、以外のジャンルに挑戦出来るのはのは休日のみ。休日だけに味わえるカジュアルスタイルを、母は楽しんでいるようであった。娘のパーカーを借りて着用したりと。
母親と並んで歩く晴子の胸のなかを占めるのは、お気に入りの和菓子屋に行けることへの喜びと、それから、信頼する親にすら決して打ち明けられない、命のように脈々と色づく、暴力的なまでの愛――だった。
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