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外の空気はすっかり冷えきっていた。秋とはいえここは高緯度であり、辺りが薄暗くなった今ではもう既に2桁を下回っていた。室内に居るといつも外が冷えきっていることを忘れてしまう。僕は時間を確認する意図も含めてスマホを開いた。すると、僕がスマホを開くのを待っていたかのように着信音が鳴る。名前がデンマークとかなら、またレゴの完成報告かと今は着信を知らないふりして後でメールをしていたかもしれない。けれど、名前がフィンランドだったから、つい電話に出ていた。
「ぁ、るおち、ごめん急に…声聞きたくなって」
電話に出てすぐ聞こえた彼の声はひどくかすれていた。僕はすぐにいつもの彼じゃないことを感じ取った。震えていて今にも泣き出しそうな顔をしている時の声。でも僕はそれを悟られないようにいつも通りを装う。
「大丈夫だよー、寂しいの?今何してた?」
僕はそれとなく彼の今の状態を聞き出そうとしていた。もしかしたら今日は鬱が酷いのかも。なら早く帰ってシナモンロールでも作って持っていこうか。そうやって、頭の片隅に浮かぶ最悪の事態への不安を誤魔化すために必死で思考を逸らしていた。
「ぇ、っとね…いまは…あの、寝てた!寝てたよ」
彼の嘘は大抵がバレバレだ。彼の嘘が下手なのかもしれないし、彼がまだ小さい子どものときから見てきたからかもしれない。どうであれ僕は彼の嘘に焦ってはいけない。彼が壊れちゃう前に早くと急かすように早足になる鼓動を突っ切るように深い呼吸をする。
「ほんとは?何してたの?」
そう紡いだ声は震えていないだろうか。え、と電話越しの彼が戸惑うのが分かった。自分で聞いておきながら、最悪の状態だったらどうしようと不安が僕を冷やす。雪のように冷たい不安はどんどん僕の心を覆い隠してゆっくり、じわじわと確かに温度を奪っていく。
「…椅子の上に立ってる」
小さくて聞き取るのがやっとな掠れた声だったが、僕には耳を劈くようにはっきり聞こえた。自分でもはっきり鼓動のリズムが早くなるのが分かった。耳鳴りがして、目の前の風景は白昼夢のようになり、風景すら上手く飲み込めないままぼんやりする視界を眺めていた。心臓が掴まれたように痛い。
「…そこから1歩も動かないで。お願い。」
咄嗟に漏れた僕の声はきっと今までにないくらい鋭かったと思う。スピーカーに切り替えたスマホが滑らないように痛いくらいに握りしめた。僕は自宅に向きかけていた踵を返して彼の家へ大きく踏み出す。足が思い通りに動いてくれない。スマホ越しの彼の返事が耳をかすめる。冷えた空気のせいか、うるさいほど鳴るくせにまともに冷やしてくれない心臓のせいか、指先は冷えきって震えていた。彼と繋がれたスマホが滑り落ちそうなのを必死で抑える。
「お願い、お願いだから動かないで。すぐ行くから」
冷えた空気が肺に入って刺さる。冷たい中で走るのは苦手だった。僕はやけにクリアになった頭の中で色んな事を考えていた。彼の好きなシナモンロールの作り方、彼が今立っている椅子のある場所、彼にまとわりつく紐。どれもこれも僕の胸を強く締めるものばかりだった。
「ねぇ、そっちについたらシナモンロール作るね。フィンの好きなやつ。」
彼は昔から僕のシナモンロールが好きだった。昔、小さかったフィンと一緒に住んでいた時はよく作ってとねだられて作ったものだ。あの日がくるまでは。何度仕方の無い事と結論付けても未だに時々夢に見る。その夢を見る度、起きるときには心臓がぎゅっと握られたように切ないような申し訳ないような気持ちに襲われる。あの日の俯いたフィンの顔や震えていた自分の手、熱かった目頭、一つ一つ脳裏に焼き付き忘れられない。あの後のロシアの下にいた時のフィンの生活は未だに恐ろしく、彼の記憶に踏み入れられていない。
彼の家に近づくに連れて肺に冷たい空気が詰まる。息が苦しいのは今はどうでもいい。最期に僕に電話をかけようとしたのはなぜだろう。僕が最期にさせるつもりなんて無い事をわかってかけたのだろうか。それともただ着信履歴の1番上にいてかけやすかったから?彼にとって自分はなんなのだろうと考えていても仕方のない事をぐるぐるとリピートしてくる自分の頭に嫌気がさした。息を吐きながら、何度もシナモンロールのレシピの記憶をなぞる。そうでもしなくては足が動かなくなりそうだった。材料を混ぜるボウルの冷たさがまだ手に残っているようだ。
「ねぇ、ごめんねスウェ。外寒いでしょ?おれ、またスウェに迷惑かけちゃった」
「しかも仕事終わりでしょ、疲れてるでしょ。ごめん、おれのせいで…」
画面の向こうで声が震え出す。僕の喉が上手く吸えなかった冷たい空気で聞いた事のない音を奏でていた。大丈夫だからとしか言えない自分の口と妙に進みの遅い自分の足がひどくもどかしかった。彼の家の屋根が見えた時、思わず滲んだ夕日を誤魔化そうと目を擦る。電話が繋がったままのスマホで僕の震えが全て伝わってしまいそうだった。
「今家見えたよ。もう着くからね」
ひどく冷たかった。フィンとお揃いの雪だるまのキーホルダーが笑顔のまま揺れた。鍵はなんの抵抗もなく鍵穴に飲み込まれ、そのまま回転する。既に何回も引いているドアノブがいつもよりほんの少し重く感じられた。
「フィン!どこ!?」
玄関からでも響くように声を張った。部屋の奥からスピーカー越しの僕の声が聞こえてくる。スピーカー越しの僕の声と一緒に、脱衣場のドアの前にいる、と返事が聞こえる。やまびこのように少し遅れてスピーカーからも彼の声が漏れた。僕は彼を目指してまっすぐ迷いなく歩を進める。僕を歓迎するように柔らかい空気とは裏腹に、床はほんのり冷たかった。見慣れた姿が視界に入れば、その証明として電話を切った。僕を認識した彼は、力が抜けたように椅子の上でへたりこんだ。彼の腕が震えているのを見逃さない。喉まで出かかって僕の首を締めていたものは、彼を前にしてようやく飛び出てくる。飛び出たものは視界を大きく歪ませてからほんのり冷たい床に水たまりをつくっていった。
「ごめん。ここまで来てくれてありがとう」
彼は確かに椅子の上に居て、小さな処刑台を自らの手で作っていた。反対側のドアノブから伸びる小さな輪の向こうで僕を見つめていた。青く澄んだ瞳は宝石のようにきらきらしていて、深い瞬きをしたときには宝石の欠片が彼の頬を滑り落ちていく。
「ううん。フィンの為ならどんな所でも駆けつけるよ。」
「……よかった、また君と話せて」
震える声を落ち着かせるように深い息を吐いた。暖かい部屋の割にやけに冷えた彼の手を握って、いつもよりほんの少しだけ美しく見えた彼の瞳と目を合わせる。彼は床に足をつけ、僕の前で足を揃える。いたたまれなくなった僕は、彼の背中に腕を回してから胸に押し付けた。服が湿っていくのが分かる。彼の体温が服越しに伝わって暖かい。
「よかった、ほんとによかった、フィンいなくなっちゃうんじゃないかって怖かった…っ」
僕の頬も同時に濡れていく。暖かい部屋に、僕たちの息遣いだけが響いている。時刻はいつの間にか5時半を回っていた。
「…ねぇ、すうぇ。シナモンロールつくって」
彼は今だ濡れた頬のまま僕に笑いかける。もちろん、と返事をする僕も、歪んだ視界のまま微笑んでいた。サプライズしたいから、久しぶりにバターチーズクリームも作ろう、と考えたのはフィンにはバレていないといいな。