「百子、何を悩んでるんだ」
鮭の塩焼きをつつきながら、陽翔はどこか呆けた様子の百子に声を掛ける。
「……何ともないよ。大丈夫」
(嘘つけ)
陽翔は抗議の言葉を口の中で消した。彼女がここ1週間、時折困り顔を見せながら陽翔に接するのだが、聞いてもこの有様なのだ。昨日1週間振りに彼女を抱いたものの、熱に浮かされていた彼女の瞳は陽翔を時折映しておらず、彼女の心が遠くなってしまったような印象を受け、陽翔の不安は募る一方だ。一昨日までは陽翔の追求に笑顔で返していた百子だったが、今では機械的に首を振るだけになっている。
(何が不安なんだ? 不安そうな顔をしてるのに何で何も言わない?)
陽翔は彼女を占めている不安に対し、考えうる可能性をいくつか挙げたが、それを打ち消して首を横に振る。両家顔合わせと結納が恙無く終わり、トントン拍子に入籍日も決まった以上、結婚式の日にちを決めるだけとなった今においては、特に不安になる要素が見当たらないのだ。
「何もない訳ないだろ。先週からずっとボケーっとしてるのに。俺が気づかないとでも思ったか」
「何ともないって。最近仕事が忙しくて、ちょっと疲れてるだけ」
そう言って首を横に振る百子に、陽翔は次第にイライラしてきた。すっとぼける彼女をこれ以上見たくなくて、白米と味噌汁を一気に平らげた陽翔は、ほとんど箸のつけていないトマトのサラダと鮭の塩焼きを、空のお茶碗と味噌汁椀と一緒に下げてしまう。
「陽翔……? どうしたの? そんなにご飯残したらしんどくなるよ? 熱中症にもなりやすくなる、し……!」
いつもなら完食する陽翔を怪訝に思った百子は、朝食を中断して台所に行くが、陽翔がやや乱暴に食べ終えた食器類をシンクに置いた音で体をピクリと震わせる。ゆっくりと彼女の方を振り向いた陽翔は、今までに見たこともないほど憤怒を滾らせていた。
「百子、そんなに俺が信用できないのか。先週からずっと俺の問いをはぐらかしやがって……!」
「ちがっ……! そうじゃなくて……! これは私の問題で……自分で何とかしないとだから……」
さっと顔を青ざめさせ、震える声で弁明する百子を見て、陽翔はしまったと思ったが、それよりも口を閉ざす百子に対しての怒りが勝り、彼女を押しのけて台所を出てしまう。
「……もういい。勝手にしろ!」
陽翔は低くそれだけ言うと、百子の方を振り返らずに足早に玄関を出て駅へと急ぐ。休みなく強く吹きつける冷たい風が陽翔を迎え、思わず天を仰ぐと、先程まで彼方にいた筈の重く分厚い積乱雲が頭上に現れていた。さらに足を早めた陽翔が折りたたみ傘を出すか否かを逡巡している間に、遠雷の音と共に辺り一面が霧色に染まってしまった。
百子はぼんやりと目の前の唐揚げ定食をつつく。久々に美咲と昼食を取れることを喜びつつも、今朝の件が頭にこびりつき、半ば機械的に箸を動かしていた。
「ももちゃん! ももちゃんったら! 味噌汁溢れるよ!」
ゆっくりと彼女に視線を戻し、彼女の指摘で味噌汁椀を傾けて持っていたことにようやく気づいた百子は、慌ててトレーにそれを置く。中の汁が少し跳ねたものの、服は汚れずにホッと息をついた。
「ありがとう、美咲……ちょっと今朝のことでぼんやりしてて……」
「……ももちゃんのちょっとって信用できないんだけど。いつもはご飯を嬉しそうに食べるのに、今日はそうじゃないし。ももちゃんが大好きな唐揚げで喜ばないとか、重症にしか見えないし」
図星を突かれて、百子は消沈して下を向く。午前の仕事は散々で、ありえないポカを10個ほど産出し、それを修正するのにえらく時間が掛かってしまったのである。何とか今日終わらせる分は終わったものの、えらく体力を消耗した気分になった。
「……そうね、ちょっとじゃないかも。今日陽翔を怒らせちゃって……」
困惑しきった百子は、今朝の顛末とその原因を彼女にぶちまける。百子の心を占めているのは、二人の結婚式のことだった。身内だけの式にすることは合意したものの、陽翔があまりにも結婚式にこだわりが無さすぎて、半ば百子に丸投げ状態だからである。あれこれ提案しても、百子の好きなのでいいとしか返って来ないのだ。彼女としては彼と一緒に考えたいのだが、調べる素振りも見せない陽翔が非協力的にしか見えず、百子の心にしこりを形成させていた。
それからというもの、陽翔の何気ない言動や、百子を心配する発言を聞くたびに、彼女の心の中は重く分厚い、今にも雷を落とさんとする積乱雲が立ち込めてしまうのだ。彼に八つ当たりするのが嫌な百子は、何とかしてそのイライラを抑えつけているのだが、その結果が今朝の陽翔の怒りを引き出してしまったのである。しっかり二人で話し合うべきだったのに、百子はそれから逃げてしまったのだ。陽翔が怒るのも当然である。
とはいえ、そこまで分かっていても、心に立ち込めた積乱雲は一向に晴れない。そんな小さなことでうだうだ悩むのも嫌なのに、考えないようにしても、ふつふつと湧いてくるそれに、百子は辟易していた。一部始終と自分の心の内を話し終えた百子は、水を一口飲んで深呼吸する。
「……そうだったのね。確かに男って結婚式に関してほんっと興味ないというか、無関心よね。それで私も何度か竜也とぶつかったし、竜也と結婚しても大丈夫なの?って不安にもなったわ。いわばマリッジブルーなんだけどね」
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