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当時を思い出し、どこか遠い目をした美咲は、ため息まじりに話し終えると、トロトロ卵の掛かった天津飯を口に運ぶ。百子はその様子を見ながら、美咲の言葉を反芻して目を見開く。マリッジブルーという言葉そのものは耳にしたことはあるものの、まさか自分に降り掛かっていたとは思いもよらないことだったのだ。
「あの時は本当に大変だった。お互い仕事が忙しかったのもあるんだけど、結婚式とか新居決めで竜也に何を提案しても、こうして欲しいって伝えても生返事しか返ってこなくてね……竜也も私も疲れてたし、お互い話し合う体力も無かったから、私が我慢してたんだけど、そうしたら竜也の何気ない言動も、やることなすこともいちいち気に障るようになっちゃって、それでデート中に爆発して泣いたこともあったな……竜也のことを信じられなくなってきて」
あっけらかんと告げた美咲に、信じられないと訴えるような視線が強く飛んでくる。しかし共感はしたのか、百子は何度も頷いた。
「……私と同じ、なんだ……やっぱり協力的に見えないと不安になるよね。一緒に将来のことを考えたいのに、そうじゃなかったら寂しくなるよね……そっか、私、寂しかったんだ」
百子は、急速に自分が心の内を陽翔に打ち明け無かったことへの後悔が加速する。しゅんとした彼女に、美咲はやんわりと告げる。
「そう。寂しくなるのは当たり前だし、将来の生活も不安になるのも当たり前。竜也に爆発した時は、私の豹変ぶりに竜也がびっくりして、何でそれを今まで言わなかったんだって怒られた」
百子の頬の血の気が引いた。今朝の陽翔の怒りを含んだ低い声が脳内を駆け抜けたからだ。
「それで……美咲はどう乗り越えたの?」
「今後のことを話し合う時間を二人で話し合って作ったの。そうしたら不安にも感情的にもならなくなった。もし不安が出てきたとしても、竜也に相談して、時間のある時に聞いてもらえるようにもしたかな。もちろん竜也の不安も私が時間ある時に聞いてるけど。だから……ももちゃん、これは自分だけの問題じゃないの。結婚式のことなんて、二人の問題なんだから。空いてる時間で話し合いをしないと、そのうちお互いがしんどくなるよ。もうなりかけてるみたいだけど、しんどさが軽いうちにやっておいた方がいいと思う。二人のことは二人で決めるしかないんだから」
既婚者である美咲の言葉に、百子は大きく頷く。そしてすぐさま陽翔に、話したいことがあり、その時間を作れないかとメッセージを飛ばした。
「ありがとう、美咲。話を聞いてくれて……陽翔とちゃんと話し合ってみる」
「うん。今後も似たようなことが起こるから、今回の件はいい薬ね。大丈夫、うまく行くよ。東雲さんはももちゃんのこと、本気で好きだと分かるもん」
百子は照れ隠しに、残った唐揚げに齧り付いた。
(……来ない)
積乱雲が目立つ空の下、百子はスマホを握りしめ、軽く首を横に振り、とぼとぼと帰途につく。珍しく17時台に仕事が終わったため、慌ててスマホを確認したが、既読すらついておらず、大きなため息が漏れた。
(まだ仕事中で忙しい……よね。でも、このまま返事来なかったらどうしよう)
今朝の陽翔の怒った様子を思い出し、ぬるい風が百子の周りを吹き抜けるにも関わらず、手足が冷えていくような感覚に襲われる。陽翔がこれを機に自分から離れていくのではないかと、そればかりが気がかりだ。悪い想像が無限に膨張し、百子の指は無意識に婚約指輪を撫でる。陽翔と話す覚悟は決まった筈なのに、先程から気温と同等の温度のため息だけが、百子の口から漏れるばかりだ。いつまでも纏わり付く不安を一掃しようと、周りを見渡していた彼女だが、ふと目の前の光景に眉を顰める。
(あれ……?)
道路にふらふらとした足取りで、オレンジ色のランドセルを背負った女の子がいるのを見つけた百子は、そこを歩いては行けないと大声を出した。しかし彼女はさらに歩みを遅くしており、すかさず自分の鞄を放り投げて駆け寄る。この道路は狭い割に交通量が多く、しかもカーブも無いので車のスピードが出やすいため、いつスピードの速い車が来るかが分からないのだ。それに、百子の呼びかけに反応しないのも奇妙だ。夕方に近いこの時間帯でも、気温は体温とさほど変わらないため、熱中症になりかけている可能性もあり、百子の焦燥は高まるばかりだ。
「ねえ! 大丈夫?! こっちよ!」
百子は早口にまくし立て、少女を抱き上げて道路から離脱しようと走ったその時だった。
こちらに猛スピードで肉薄する車があったのだ。
タイヤが悲鳴を上げ、百子は咄嗟に歩道側へと跳んだ。視界が瞬時にアスファルトの褪せた黒が眼前に迫り、頭は打たなかったが、体の右側を強く叩きつけられて頭の中が赤く塗りつぶされる。そのまま何度か転がってしまい、側頭部を強かに打ち付けてしまった。
百子が最後に見たのは、腕の中にいる泣きじゃくる少女と、頭の下にじわりと広がる、鉄錆の匂いをさせる暗赤色の水たまりだった。